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体育が苦手だった私はなぜ運動部で頑張れたのか

派遣先に向かう電車。
遅延した東横線の車内は人で溢れている。
心のスイッチを入れるといろいろと耐えられなくなるので、満員電車ではなるべく無になることを心がけている。宇宙と同化するといい。

無になって窓の外を眺めると、多摩川近くの運動公園で一生懸命ラクロスをしている人たちがいた。
こんな朝早くからすごい。大きなラケットを使う競技であることは知ってたけど、こんなに全身を使うんだ。

私にはとてもできないな。

そう考えていたら、ふと中学生だった自分を思い出した。



私は中学時代テニス部に所属していた。

と、高校以降の友達に言うと、かなりの確率で驚かれる。
私だって意外だ。少し走るだけで運動音痴を悟られる自分がテニス部だったこと。

物心ついたときから足が遅い。
遅いだけでなく、走り方がおかしいと言われる。一生懸命やってるのに急げよと言われる。

高校生になったら開き直って笑いに変えることができていたが、小学生の頃の私はそれなりに傷ついていた。
昼休みのドッジボールのチーム分けではいつも余るのが嫌で、図書室に駆け込んでいた。そのおかげか知らないけど読書は今でも大好きだ。

体力テストが一番辛い。みんなの前でハンドボール投げをするという公開処刑。10mに達せず、漂う「嘘でしょ…」という空気。嘘であってほしかったのはこちらの方だ。

町内のほのぼのとしたバレーボール大会で、なぜか熱くなってしまった監督(PTA)に「これは勝ちたい試合だから」と言われ試合に出してもらえなかったこともあった。
こんなの町内の親交と子供が楽しむことが目的に決まってんだろ、お前が勝ちにこだわってどうするんだよ、と子供ながらに思った。
しかし私が入ると勝つ確率がグッと下がることも分かっていたので黙っていた。


話が逸れた。運動音痴エピソードがあまりにも多い。
テニス部に入部した理由は、大変申し訳ないが入りたいと思っていた吹奏楽部がない中学だったため「嫌な子がいない」という完全な消去法で選んだというだけ。

そんな理由で始めた、たった2年半のことだったが
結構真面目に頑張っていた。
前述した能力の私であったが、ちゃんとうまくなりたいと思っていた。雰囲気に流されるタイプだったので、勝ちにこだわる部活の雰囲気が良かったのだと思う。
空回りも多かったけど暑い日も寒い日も全力でボールを追いかけてラケットを振っていたし、部活が休みの日に友達と自主練もしていた。大会で負けた時はしっかり悔しかった。
月に1、2回指導に来てくれるすごく怖いコーチに
「君は本当に下手くそだけど一生懸命やるところがいいね」と言ってもらえたことをすごく覚えている。
下手くそってそんなにはっきり言います?とも思ったけど、嬉しかった。



大人になった今、苦手なことはなるべく避けて歩くようになった。
誘われもしないが、運動はしない。1人で人気がない道を走る、とかが限界。
体育という公開処刑に義務教育中耐え続けた反動で、運動が嫌いになり、楽しむことができなくなった。
笑われた恥ずかしさって心に染み付いていて消えない。それを笑い飛ばせる年齢になったとしても、奥の方に残っている感じがある。


それなのに、部内の雰囲気に流されたとはいえ、なぜわたしはテニスをあんなに頑張れたのだろうか、と思った。
あんなにがむしゃらにボールを追いかけるなんて、今の私にはとてもじゃないけど無理だ。走ってるところもラケットを振るところも絶対に人に見られたくないと思ってしまう。

周りの目が気にならないくらい夢中になれたら、楽しむことはできるんだろう。
どうすれば夢中になれるんだろう。


そんな面倒くさいことも考えずに、
ずっと大嫌いだったスポーツに裸一貫で挑んだ中学生の私、我ながら心から尊敬する。

飛び込めば見えるものもあるという教訓は肝に銘じておきたい。


今日の一曲

多摩川土手〜君へのメッセージ/馬場俊英

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またサブスクがなかった…。私は多摩川といえばこの曲を思い出す。静岡にいたときから聴いていた曲。
多摩川土手は想像よりずっと広くてびっくりした。
まだ東横線からしか見たことがない。いつか歩いてみよう。

この気持ちを伝えたなら
君は受け止めてくれるだろうか
それを確かめたいならどうすればいい どうすればいい
伝えてみればいい 簡単さ



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