vol.149 シェイクスピア「リア王」を読んで(福田恆存訳)
「俺はなんて愚かなんだ。あの時、あいつ(ケント伯爵)の話を聞いていればよかった。取り返しのつかないことになってしまった。今思えば、娘たちは私を愛していなかったのだ。それどころか私から全てを奪うことしか、考えていなかったのだ。」
そんなリア王の、後悔と嘆きの言葉が虚しく荒野に響く。
<内容>
身近な人間に対する剥き出されたままのどろどろとした台詞が痛い。なにか僕の中にもありそうな、妬みや虚栄心、傲慢さや俗物的なものが、炙り出されてくるようにも感じる。
悲劇として語り継がれている「リア王」、閉鎖的な空間で、人と人が向き合い続ける中、欺瞞に満ちた言葉が飛び交う。
それでもこの作品、そんな露悪的な言葉に、哲学めいた深みを感じさせる台詞がたくさんある。何かしらの教訓を含んでいると思わせる展開に、惹きつけられる。
それにしても、人間って、こんなにも愚かな生き物だっただろうかと思う。400年以上前の物語、登場人物の多くが死ぬ展開にリアリティを持てないのは仕方がない。しかし今、歴史にある多くの悲劇を学べるのだから、そんな人間の愚かさをコントロールできるはずなのだ。しかし、「悲劇」は繰り返されているようにも思う。
こんなことも考えた。
警察白書(令和2年版)によると、被疑者と被害者の関係で最も多いのが、親族の54.3%だった。次いで多いのが「知人・友人」の21.3%だった。このリア王も、悲劇は親族の中で起きている。
人間のドロっとした本質は変わりようがないのだから。身近にいる人間同士の争い事は必然なのだから。それを前提とした適度な距離感がやっぱり必要だと思う。
このリア王を読んでそんなことを思った。
今度みるリア王の演劇(演出:ショーン・ホームズ・リア王役:段田安則)、そういった視点で、それぞれがどう演じるか、とても楽しみにしている。
おわり
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