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vol.149 シェイクスピア「リア王」を読んで(福田恆存訳)

「俺はなんて愚かなんだ。あの時、あいつ(ケント伯爵)の話を聞いていればよかった。取り返しのつかないことになってしまった。今思えば、娘たちは私を愛していなかったのだ。それどころか私から全てを奪うことしか、考えていなかったのだ。」

そんなリア王の、後悔と嘆きの言葉がむなしく荒野に響く。

<内容>

ふたつの悲劇が並行してストーリーが展開される。

一つの軸。年老いたリア王は、3人の娘に領土を分け与える決意をする。最も父に孝心がある娘に、最大の恩恵を与えることとした。長女のゴルネイと次女のリーガンは、心にもない巧みな甘い言葉で父リア王を喜ばせる。一方、末娘のコーディリアは、ありのままの実直な気持ちを父に伝える。しかし父は、そんな末娘に激怒し、追放する。そして全ての権力と財力をふたりの姉に分け与える。そこから悲劇が始まる。

もう一つの軸。リア王の重臣グロスター伯爵家の次兄エドマンドが引き起こす悲劇。エドマンドは、兄のエドガーと父を敵対させることで、自分に利となるよう企てる。やがてエドガーとエドマンドは、憎しみ合い殺し合う。

参照:新潮文庫「リア王」
相関図

身近な人間に対するき出されたままのどろどろとした台詞せりふが痛い。なにか僕の中にもありそうな、ねたみや虚栄心きょえいしん傲慢ごうまんさや俗物的なものが、あぶり出されてくるようにも感じる。

悲劇として語り継がれている「リア王」、閉鎖的な空間で、人と人が向き合い続ける中、欺瞞ぎまんに満ちた言葉が飛び交う。

それでもこの作品、そんな露悪的ろあくてきなな言葉に、哲学めいた深みを感じさせる台詞せりふがたくさんある。何かしらの教訓を含んでいると思わせる展開に、惹きつけられる。

それにしても、人間って、こんなにも愚かな生き物だっただろうかと思う。400年以上前の物語、登場人物の多くが死ぬ展開にリアリティを持てないのは仕方がない。しかし今、歴史にある多くの悲劇を学べるのだから、そんな人間の愚かさをコントロールできるはずなのだ。しかし、「悲劇」は繰り返されているようにも思う。

こんなことも考えた。

警察白書(令和2年版)によると、被疑者と被害者の関係で最も多いのが、親族の54.3%だった。次いで多いのが「知人・友人」の21.3%だった。このリア王も、悲劇は親族の中で起きている。

人間のドロっとした本質は変わりようがないのだから。身近にいる人間同士の争い事は必然なのだから。それを前提とした適度な距離感がやっぱり必要だと思う。

このリア王を読んでそんなことを思った。

4月14日刈谷市総合文化センター「リア王」

今度みるリア王の演劇(演出:ショーン・ホームズ・リア王役:段田安則)、そういった視点で、それぞれがどう演じるか、とても楽しみにしている。

おわり


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