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vol.110 志賀直哉「雨蛙」を読んで

ときどき、志賀直哉の美しく繊細な情景描写に触れたくなる。うっとりするような一文を書き留める。

『実際気持ちのいい朝だった。道には小砂利が洗い出され、木や草には水玉がキラキラ光っていた。・・・遠い空で雁の淡い一列が動いている。彼はのびのび楽しい心持ちで自転車を走らせた。(p84)』

美しい描写だと思う。

だけどこの小説、内容は妻の不義におどおどしている夫の心情と、他の男によって自由をつかんだ妻の姿が描かれていた。

あらすじ
夫「賛次郎」は、妻「せき」にとても優しかった。ある日、賛次郎の勧めで文学の講演に行ったせきは、講演後の迎雲館で小説家Gと関係を持ってしまう。それを感じ取った賛次郎は、妙に肉情にかられ、せきを可愛いと感じ、抱きしめたくなる。いっしょに帰る道すがら、電柱に二匹の重なり合うようにうづくまる「雨蛙」に気づく。その様子に「こんなところにつつましやかな世帯を張っているのだ。これはきっと夫婦者だろう」と思う賛次郎。その夕べ、持っていた文学集をこっそり焼きすてる。(あらすじおわり)

この賛次郎、家族の意向に愚直で素直だけど、どこか特異な体質を感じる。

せきの不義によってなぜか「情欲を刺激され」ながら、せきを「いとおしむ心で一杯」になる。せきとふたりの帰り道、二匹の雨蛙を見て、「これはきっと夫婦だろう」と、どこか突拍子な想像をする。さらに、「つつましやかな世帯を張っているのだ」と、文学好きにあるあるな、空想を飛ばす。

一方せきは、無学だけど、心に自由を持っている女性だと思った。

賛次郎が得意げに見せた雨蛙に全く興味を示さない。迎雲館の一件から、髪型を当世風の「耳隠し」に変え、「意味の分からぬ微笑を浮かべ」ながら「ぼんやり遠くを見ている」せきの心は、もう賛次郎を見ていない。

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無口で主体のないせきの心は、小説家Gによって変わってしまったのだ。

ふと「暗夜行路」を思い出す。従兄と過ちを犯した直子は、寺で倒れた夫謙作に対して「どこまでもこの人についていこう」と健気な覚悟を見せていた。「雨蛙」のせきとは反対だ。

志賀直哉はよく、女性を強いる家制度の中で、変化する女性の心を描いている。これもそうだと思う。だけど、ひとつ、志賀直哉大先生に意見したいことがある。

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女性蔑視の姦通罪の時代に、なんの脈絡もない「雨蛙」を出してきて、妻に「つつましやかな世帯」を求めるのは、都合がいい男の妄想でしかないのでは。(^ ^)

おわり

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