vol.131 夏目漱石「文鳥」を読んで
どこか意図しての切なさと、はかなさと、残酷さが漂う作品だと思った。同時に、主人公の孤独と、鳥籠に入れられた可憐な文鳥との絶妙な距離感に、当時の漱石の苛立ちのようなものを感じた。
<内容>
三重吉(みえきち)という人物から文鳥を飼うよう勧められ、飼うこととなった。書斎で仕事(小説家)をしている合間にも、千代千代(ちよちよ)と時折鳴いていた。そんな白い文鳥を愛らしく思い、過去の「美しい女性」と重ねて眺めることもあった。
家人(うちのもの)に文鳥の世話をさせながらも、自身も丁寧に世話をしていた。しかし、帰宅が遅くなった翌日に、籠の底で両足を揃えて硬くなって死んでいるのを見つける。
死んだ文鳥をしばらく眺める。やがて、家人を呼び「あっちに持っていきなさい」と、硬くなった文鳥を放り投げ、家人を睨みつけながら処分を命じる。
三重吉に「家人(うちのもの)が餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と、文鳥が死んだことを知らせる。(内容おわり)
漱石の私小説のようなこの作品、多くは語らないが、実際に漱石と関係を持つ人物を実名で登場させているらしい。また、「美しい女性」が、「文鳥」の執筆を始める十日前に死亡している日根野れんという女性をモデルとしている可能性がある、という解説もあった。
漱石の複雑な生い立ちの中で、日根野れんという女性は、漱石と異母兄弟として育てられていた。初恋の人だったという説もある。彼女の結婚生活は、自由が奪われていた。
漱石は、そんな初恋の人を見て、結婚において「檻の中に」入れられてしまう女性の運命を哀れむ心情で、この「文鳥」を書いたのかもしれない。
気になるのが、死んだ文鳥をじっと見つめ、次に冷たくなった文鳥を放り投げ、処分を命じている。このじっと見つめて、放り投げる間に、どのような心の変化があったのか何も描かれてない。
そして、「たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と気持ちを三重吉に送っている。
漱石のやるせなさと、日根野れんの夫への怒りのようなものを感じる。
僕の娘も白い文鳥を飼っていたことがある。それを少し思い出した。
時々籠から出すと、赤い嘴を突き出し、小首を傾げたと思いきや、ぴょんぴょんと細い両足をそろえて、床の上を跳ねていた。それをじっと見つめる幼い娘の瞳を覚えている。
やはり小さな命が籠の中で硬く冷たくなっていた。
まさに「たのみもせぬものを籠に入れて」をしていたのだ。今更ながら「ごめんね」の気持ちになった。
おわり