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vol.82 夏目漱石「三四郎」を読んで

いま、NHKラジオの「朗読」で漱石の三四郎を放送している。少し聞いた。新潮文庫を読み返したくなった。

3年ぶりに3回目の三四郎に触れた。まっすぐで、不器用で、自分に正直だけど「度胸のない」小川三四郎は、何回読んでも微笑ましい。倫理的潔癖性も愛おしくも感じる。

この小説は、大学に通うため熊本から上京してきた23歳の三四郎が、今ままで出会ったことのない人間とのふれ合いが描かれている。ユーチューバーの大学ぼっちパーカーさんの日常動画とはずいぶんと違う。

また、東大本郷あたりにうごめく人間も、なんとも魅力的に描かれている。

水蜜桃が好きで「鼻から哲学の煙をはく」広田先生。美禰子に対してなんとも煮え切らないで、穴蔵にこもって研究する理学者の野々宮君。広田先生を「偉大なる暗闇」と評する与次郎。編み物をし、水彩画を描くよし子さん。

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そして何と言っても三四郎が恋をした女性、里見美禰子。思わせぶりな短い言葉で、男に深い響きを与える西洋流の美禰子。漱石自身が、彼女の性格を「無意識な偽善者」と解読したこともなるほどと思った。

三四郎青年にとって初めての東京はどんなふうに映ったのだろう。

三四郎は東京に来てまもなくこんな心持ちになっている。「自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である」(p26)すごくわかる気がした。

自分自身を振り返ってみても、今までとは違う環境で暮らすと、自分を見つめ直したり、影響を受けたり、憧れたり、批評したりする。

三四郎は東京の生活を重ねるうちに、三つの世界が出来たと感じている。

第一の世界は、なつかしい母のいる世界。全てが平穏である代わりに全てが寝ぼけている。戻ろうと思えばすぐに戻れる、三四郎が脱ぎ捨てた過去の世界。

第二の世界は、広田先生や野々宮君のいる世界。苔の生えた煉瓦造りの中で、うごめいている。大抵無精なひげを生やし、服装は汚く、暮らしは貧乏で、現世を知らない。三四郎は今ここの空気を吸っている。

第三の世界は、電燈がある。銀さじがある。歓声がある。泡立つシャンパンの盃もある。美しい女性もいる。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。三四郎はこの世界のどこかに入らなければ、その世界のどこかに欠落ができると思っている。(p96からの抜粋)

三四郎は自分の世界に立ち、客観的に今いる現実の世界を見ていた。今いる世界は、決して良い世界と思っていない。美しい女性のいる隣の世界も、どこか欠落していると思っている。

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この小説の時代背景は明治40年ごろとなっている。明治38年に日露戦争が終結して、新しい時代に興奮している世情を想像できる。

与次郎が企画した学生集会の演説で、ある学生がこう叫んでいた。「政治の自由を説いたのは昔のことである。言論の自由を説いたのも過去のことである。(中略)新しき西洋の圧迫は社会の上においても文芸の上においても、我々新時代の青年にとっては旧き日本の圧迫と同じく、苦痛である」(p170)と。

この時代、多くの人たちが、古い価値と新しい価値の押し付けに、苦痛を感じながら生活していたのかもしれない。

漱石は、三四郎というピュアな青年の目を通して、移り変わっていく時代の危うさを描いたのかもしれない。美禰子が呟いた「迷羊(stray sheep)」は、混迷の時代を揶揄したのかもしれない。

・・・・

一日も早く平穏な日常が戻りますように。

おわり

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