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2022年訪れ、良かった展覧会(振り返り)

開催前から楽しみに待ち続けた大型の展覧会もあれば、事前情報なしに「なんとなく」で出向いたらあまりに素晴らしかった、というものもあり、展覧会とは出会いの場だなといつも思う。
作品と対峙する時間とは、自分が試される時間でもあり、再発見する時間でもあり、自分が変わる時間でもある、というのがやっぱり楽しい。

李禹煥 / 国立新美術館

2022年、一番楽しみに開催を待ったのが李禹煥の回顧展。
彫刻や絵画、表現形態は多様に渡れど、一貫して共通するのは「関係性」というキーワード。

自己は有限でも外部との関係で無限があらわれる

展覧会ホームページより

そこに一つ配置された石や鉄、筆は、まるで波紋のように、または打たれた鐘の響きのように、周囲の環境との相互関係で空間が共鳴し、キャンバスや場を越え、作品外の世界へと広がっていく。
世の中のあらゆるものは、外部との関係項であり、その対話によるものなのだ。氏の作品はそう伝えている。
ものともの、ものと人との関係への問いかけと、世界の共存性。

李禹煥の一貫したテーマと哲学性をそのまま体感する事ができる、素晴らしい作品体験でした。

大蒔絵展 / MOA美術館

蒔絵は、漆によって細やかに絵や模様を描き、その上に金粉や銀粉を「蒔く」装飾様式なのだが、起源については実はよく分かっていない。
基本的に日本美術は中国に起源が求められるが、蒔絵については中国に由来しておらず、どうやら日本独自に発達した美術様式らしい。
そこにまず魅了される。

本展は、平安から鎌倉、室町、桃山、江戸、現代と、蒔絵の千年の歴史を一気に辿る事のできる、文字通り貴重な大蒔絵展。
特に平安から室町までの貴族文化によって形成された、詩情的で文学的な繊細な蒔絵の美しさ!
膨大に掛けられる手間と時間。そこで表現される過去の文学的引用と暗喩を何重にも込めた四季の風景。

蒔絵とは、時を鑑賞し、時に贅を見出す芸術なのだ。そう感じられてくる。
今年制作したポートフォリオの為、本展は2回訪れ、惚れ惚れ魅入った記憶が強く残っている。

篠田桃紅展 / 東京オペラシティ アートギャラリー、菊池寛実記念 智美術館

一本の線が持つ雄弁さ。生命そのものが刻印されたかのような、線。
それは書が本質的に持っている「その瞬間にしか産まれ得ない唯一性」がそうさせているのではないか。

最小限に凝縮され、構成された、音楽的で、時間的な、線と構成の宇宙が墨によって提示される。「書」というフォーマットを通じ、生命を体感するような没入感とめまい。

「生きている線」とはこういうものなのか、を体感した回顧展。

WHO ARE WE 観察と発見の生物学 / 国立科学博物館

国立科学博物館が所有する、約490万点の膨大な標本を厳選し、見せる。
と聞くと、いわゆるよくある博物展の類いを連想するが、三澤遥氏によってデザインされた「巡回展キット」を通じて得られた、全く別ジャンルの標本体験!

大人も、子供も、若いカップルたちも、標本キットの引き出しを一つずつ開けながら、声を上げ、楽しげに眺め、話し合う姿。
そのあまりにデザインの理想的な姿を目の辺りにし、グッと涙が込み上げてしまった記憶がある。

多くの人へ広く開かれており、驚きがあり、楽しく、学びがある。
細やかで、美しく、そして持続的である。

2022年に目にしたデザインの理想の姿でした。

川内倫子: M/E 球体の上 無限の連なり / 東京オペラシティ アートギャラリー

展覧会タイトル「M/E」とは「母(Mother)」、「地球(Earth)」の頭文字。
続けて読むと「母なる大地(Mother Earth)」そして「私(Me)」。

このタイトルは、本展の補助線であると同時に、川内氏の作家性を再発見するためのキーワードでもある。

身近な虫や植物、動物。家族や市井の人。
それらのささやかで儚い存在から、火山や氷河などの大地の営みまで。
まさに「M/E」の射程を持った地球規模の視点。
そしてそのどちらも「生命の輝き」という点で、等価なものとして見つめ写し撮ること。川内氏のアーティストとしての器の広さについて感じ入ってしまう。

もうひとつ川内氏の目線を通じて再発見するのは「世界の美しさと、素晴らしさ」について。
「センス・オブ・ワンダー」への目覚めについて。
これこそ写真体験のエッセンスじゃないかと思う。

響きあう名宝 ―曜変・琳派のかがやき― / 静嘉堂文庫美術館

所蔵の本阿弥光悦の『草木摺絵新古今集和歌巻』の美しい書は、まるで音楽のようで、個人的にはレイアウト・デザインの最良の教科書だと思っている。

が、本展での白眉は国宝『曜変天目』。

「碗のなかに、宇宙がある」ひと目見てそう思った。
さらに吸い込まれるように、奥へ奥へと覗き込むうち、「宇宙」は「無限」というワードに置き換わる。

「無限」というテーマを形にするとこうなる、とでも言うべき奇跡のような作品を目に出来る貴重な機会でした。

雰囲気のかたち―見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの / うらわ美術館

その空間に確かにある、気配、空気、佇まい、雰囲気と言った姿形のないもの。その存在をいかに美術家たちは描き、形づくったのか?をテーマとした展覧会。

本音を言うと、自分はこれまで近代以降の日本絵画には全くと言ってよいほど関心が持てていなかった。
ただ本展を通じ、例えば横山大観の作品を観て「そうか、描こうとしていたものとは大気や気配。つまり「空気」の存在だったのか」と知り、「朦朧体」の意味を知り、見方が大きく変わった。

多様な作家の目を通じて、多様な空気のありようの描き方が知れること。
何よりテーマとして興味深く、発見の多い機会でした。

畠山耕治―青銅を鋳る / 菊池寛実記念 智美術館

溶解した金属を、型に流し込んで成形する、鋳金(ちゅうきん)。
その技法を用い、青銅を素材として「青銅の存在そのものを鋳込む」というテーマで作品づくりを行う畠山氏。

直線をベースに構成されたストイックな造形。
そこに薬品などで化学反応された色彩と質感が、即興的に流れるような音楽的サビ模様を作る。
その模様はあたかも琳派の「たらし込み」を観ているかのよう。

技法、美学、偶然の折り重なり。その3つで構成された青銅のサビの美。
こういった美術こそ見逃さないようありたい。

板谷波山の陶芸 / 泉屋博古館

東洋と西洋の融合。
近代以降、定型句のように繰り返されるこのテーマは、その実現の難しさ(と面白さ)があるからなのだろう。
それぞれの作家が、どう西洋を捉え、東洋の歴史を参照しながら、自分なりの回答を見つけたか?このテーマには、今を生きる自分たちにもそのまま共通する普遍性を持った問いがある。
そして近代以降の多様な作家を知る意味も、きっとここにある。

本展のテーマは、いわば東洋の古陶磁とアール・ヌーヴォーとの邂逅。

自分が見てまず思ったのは「気品」という回答だった。
輪郭線を持たず、「淡さ」によって周囲に溶け混む曲線をつくる。
光を内包し「全てを見せない事」の一点に収斂する「気品」の美学。これは融合の姿として新しい飛躍と思う。これを西洋美術で見ることは難しい。

なにが「気品」足らしめているのか?淡さと気品との関係性とは?
考えを巡らせてしまう貴重な機会でした。

ゲルハルト・リヒター展 / 東京国立近代美術館

これだけの作品数を直に観ることの出来る、初めての機会。
《ビルケナウ》の背景を知り、目の前にすると、「見えないものを観ようとする事とは?」「見ることとは?」「想像することとは?」といった事が持つ複雑さが、巨大な問いとして提示される。
「見る行為」についての巨大な宿題と、その宿題を抱えて回答は得られず展示会場を後にした記憶は、大事な体験だったと思う。


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