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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#12-2

 下宿に着くと、まず廊下の明かりを点ける。六時を回って、雲はまだ燃えたように赤みを帯びているが、空はすでに藤色に染まっていた。

 嫌々ではあるが、二人を招き入れた。冷蔵庫の前に片膝をついてしゃがみ、預かっていた手つかずの缶を三つ取り出して、いっぺんに明坂に押し返した。

「ほら。これでいいだろ。さっさと帰れ」

 明坂はすんなりと受け取ると見るやいなや、黙ってこちらをじっと見つめる。
 何だと俺が問おうとしたら、彼はニッと白い歯を覗かせて、薄気味悪いくらいの微笑で俺に笑いかけた。その顔を見た瞬間、俺はものすごい後悔に打ちのめされた。

「せっかくだから、ちょっと遊んでから帰るね」

 やつの魂胆を知らない人からしたら純真に映るであろう、少年のようなあどけなさを湛えた笑顔で、しゃあしゃあと宣う明坂を前に、俺は言葉を失っていた。

「何がせっかくだ。話が違う、帰れ帰れ!」

「そんな冷たいこと言うなよ。友達じゃないか」

「いつ、俺がお前と友達になった。いいから帰れ! 俺にはやるべきことがあるんだ」

「それって、受験勉強かい?」

 言葉尻に被せるように、明坂は俺に訊き返す。俺が口ごもると、明坂は畳みかけるように言った。

「まだそんなことやってるのか。くだらないよ、やめちまえ」

「なんでお前に、そんなことを言われる筋合いがある。俺の勝手だろうが」

「いいから、ちょっとだけ遊ぼようよ」

 話も聞かず、明坂は俺の部屋にどかっと座った。そうしてリュックを下ろし、喜々とその中を物色し始める。

「とはいっても、今日はトランプぐらいしか持ってきてないんだよねえ。君は何やりたい? ダウト? それか、ブラックジャックかな?」

 いそいそと話す明坂の声を聞き流しつつ、俺は辺りを見回すと、部屋の隅に座り込んで、相も変わらずスマホゲームに勤しんでいる西谷の存在に気づいた。

「西谷、お前も混ざらないか?」

 明坂の一挙手一投足に振り回され、さすがに一人でこいつの相手はしていられないと悟った俺は、西谷にそう声をかけた。すると西谷は珍しく、その一声だけで反応を示した。顔を上げ、眠いのか垂れ下がった瞼の下の黒い瞳は、同意を表しているように見えた。

「こいつに付き合うの、手伝ってほしいんだけど……」

 俺は明坂を指さして言った。

 状況を察しているのかはともかく、端末を服のポケットに入れ、西谷は重い腰を浮かせるように、無言でおもむろに立ち上がった。俺はひとまず安堵した。
 つまりは、俺と明坂だけでトランプゲームをしている傍らで、西谷はスマホゲームをしているという、チグハグな構図にはならない。

 それから夜が更けるまでの間、俺の下宿のワンルームでは、実在するかも定かではない、ある種のどんちゃん騒ぎが執行されたことは、記すに耐えない。

 掻い摘んでいうと、「大富豪」だの「インディアンポーカー」だのよくわからんゲームをいくつかさせられた後、ノンアルコールビールを一気に飲んだ明坂が、酔ってもないくせに、俺の肩に手を回しながら「君って好きな子いる〜?」などと、修学旅行先で恋バナを咲かす女子高生のようなノリで訊いてきたりした。

 西谷は早々にゲームから離脱し、またスマートフォンを出してゲームを再開する始末だ。俺は、「もう帰れ!」と本気で怒鳴ってやろうかとも考えたが、これ以上騒がしくすれば、隣から苦情が出てもおかしくない。爆発寸前だったが、どうにか踏みとどまった。

 その後、さすがの明坂も喋り疲れたのか、自分の端末を取り出して触り始めた。俺は特段スマートフォンを触る用事もないので、床に座ったまま呆然としていた。

「ねえ、Wi−Fi引いてる?」

 明坂が目線を落としたまま、いきなり尋ねてきた。

「あるけど、使いたいのか?」

 ここの一室はもともと兄が使っており、そのときに父が契約してくれたので、自宅LANが設備されているのだ。

「パスワード教えて?」

 明坂がなぜか甘えるような口調で問いを重ねる。

 少し躊躇いはあったが、プライベートLANくらいなら知られても大丈夫だろうという認識から、俺は自分の端末に記録したパスワードのスクリーンショットを、明坂に見せた。それを入力しながら、

「最近、通信悪くってね」

 と明坂は独り言のように言い、画面上で親指を滑らせていた。

 それよりも、俺は一刻も早く、この状況から脱したかった。部屋の時計を見やると、二十時をとっくに過ぎている。いつもなら、過去問を開いて勤勉に設問と向き合っている時間だ。それなのに、こいつらのおかげで今日はそれができない。なんということだろう。

 これ以上、無駄な時間を過ごすのは願い下げだ。

 俺は卒然と立ち上がり、何も言わずに玄関に向かった。「どこ行くの?」と明坂が首だけこちらに動かして呼びかけるが、答える気にもなれない。
 とにかく今は一人になりたかった。

 玄関に鍵をかけ、エレベーターに乗る。かくして、逃亡は成功した。
 俺は駅前のコンビニでしばらく時間を潰すことにした。コンビニに入り、ガラス窓の前に雑然と並んだ雑誌の棚から、目についたコミック雑誌を適当に取り上げて読んだ。

 このまま朝までこうしていようかと考えながら、何気なく窓の外を見たそのときだった。ガラス越しに、こちらに向かって手を振っている人影が見えた。影絵のように顔が隠れていて誰だか判別がつかないが、相手は俺を認識しているらしい。そいつはこちらに歩み寄ってくると、店内から漏れる明かりでそれが明坂だとわかった。

 明坂はコンビニへ入ってくると、さも当然のように、雑誌を広げている俺の隣に並んだ。

「急に出ていくもんだから、気になってね。僕らが来たこと、迷惑だったんじゃないかって思って」

「自覚があるなら、さっさと帰れ」

 俺は呆れて言葉を返すと、明坂もわざとらしい笑みを浮かべた。

「だけどさ、こうでもしないと、君は諦めないと思ったんだよ。だから、今回は小細工なしで色々試してみたんだけど……功を奏しなかったみたいだね」

 俺は深いため息をつく。

 以前から何度もきこうか悩んでいたことがある。なぜこいつは俺に志望校への再受験をやめさせたいのか。自分の時間を割いてまで、俺に構うのはどういうわけか。あえて知らずにおこうかとも思ったが、もう今日限りだ。

 俺は雑誌から明坂に視線を転じ、真意を問いただそうと試みた。

「どうして、俺の邪魔ばかりするんだ」

 明坂はなかなか答えなかった。

 しばらく沈黙が二人の間に淀んだ。それから数秒後、明坂はようやく口を開いた。

「じゃあ逆にきくけど、君は、このままでいいのかい?」

 とっさに理解が及ばず、俺は口ごもる。明坂はさらにこう続けた。

「周りだけを気にして、自分が本当にやりたいことは後回しって、もったいないじゃないか。これから先、長いんだし、もっと気楽に生きてみればいいのに」

 明坂の言葉に含まれるのが皮肉なのか、激励なのか、あるいはそのどちらでもないのか、俺にはわからない。ただ一つ言えることは、これ以上この男と何を話しても、埒が明かないということだ。

 俺は明坂の素性は知らない。ただ、こいつはのらりくらりと通り雨のように前触れなく俺の前に立ち現れては、勉強の邪魔ばかりする。明坂が俺に残した言葉から、俺が導き出した唯一の解釈とは、「彼とは今後一切解り合うことがない」ということにほかならない。

 雑誌を元の棚に戻し、ペットボトルの水を数本買い足してから、俺は戸外の暗闇へ出た。明坂は俺の後ろを何事もなかったように歩いているが、口を利かなかった。

 部屋に戻ると施錠を解除し、ドアを開けた。明坂が部屋を出る際、残った西谷に中から鍵をかけるように言い置いてくれたらしい。俺の居処について、こいつには最初から当てがあったのかどうか、甚だ疑問に思うところではあるが。もしも俺が先に一人で戻っていたら、締め出されていた可能性があるのに。

 部屋の戸を開けると、妙な酒臭さが鼻をついた。ノンアルコールではない、別物の匂いのように感じたのだ。

「おい、なんかさっきより酒臭いんだけど」

「まさか……!」

 明坂は首を振って、部屋に駆け込んだ。

 部屋には、ビールの空き缶がいくつか散らばっている中に、床に突っ伏して寝ている西谷の姿があった。

「西谷、帰ったよ〜。ごめんね、一人にして……」

 そう言いながら明坂はしゃがみ込み、西谷の背を軽く叩いた。しかし、反応がない。それどころか、寝息すら聞こえる。明坂は呆れたように眉をひそめると、鼻を西谷に近づけた。直後、はっとしたように彼は飛び退き、西谷から距離をとった。

「あ、こいつ、抜け駆けしやがったな!」

 明坂は憤然と立ち上がり、西谷を指さす。俺もちょっとずつ近寄りながら彼のほうを窺ってみたが、西谷は完全に寝落ちしているのか、微動だにする気配すらない。その傍らでは、「ちくしょう! ちくしょう!」と喚き、明坂が地団駄じだんだを踏むような仕草をしている。

 明坂が言うには、あの袋の中に本物のビールが入っており、明坂はドッキリでそれを俺に飲ませる心積もりをしていたが、直前になって未成年飲酒をさせるのはやはり忍びないという結論に達し、黙ってそれを持ち帰ろうとしていたのだ。しかし、明坂は俺を追いかけて外出し、部屋を空けた十数分の間に、知ってか知らずか西谷はその酒を飲んで、酔っ払って寝てしまったという。

 俺は明坂の話を聞いて憤ったが、今は酔い潰れた西谷を介助するのが急務であるので、俺はぐっと歯を食いしばってこらえた。

 取り乱していた明坂も落ち着き、西谷を扶け起こしていた。それでも西谷は意識が戻らずに、頭を明坂の肩に載せて、寝息を立て続ける。

「彼は滋賀県だったよね。たしか……」

 明坂は、西谷の上着のポケットに手を差し入れ、財布を取り出した。その中から、学生証を引き出して確認する。

「草津か。君、彼を家まで送り届けてあげたら?」

 明坂がちらと俺を見ながら、とんでもない提案をするので、さすがに俺もそれにはがえんんじなかった。

「いや、なんで俺なんだよ。そう言うんだったら、お前が送り届けてやれ」

「僕がやっても吝かではないけど、君のほうが駅に近いだろう。最寄りまで送っていって、あとはタクシーに放り込めばいいから。住所はここに書いてるし」

 明坂は西谷の学生カードを俺に手渡した。今ここで西谷を叩き起こし、一人で帰らせるのが一番手っ取り早いのではないかと思われたが、帰り道に事故に遭われても困る。

 俺は不承不承、西谷の腕を自分の肩に回し、なんとか立たせた。そうして下宿を出て、駅に向かった。
 琵琶湖線の快速急行に乗り、草津駅で下車した。それまで、西谷は目を覚まさなかった。

 蹌々踉々そうそうろうろうたる足取りで重心が定まらない西谷を担ぎ、ようようタクシー乗り場まで辿り着く。停車していたタクシーの後部座席に西谷を放り込むと、運転手に事情を説明し、家の前まで運んでもらうように伝えた。住所は当人の学生証を見せた。そして学生証を彼の服のポケットに戻し、外側からドアを閉める。タクシーがゆったりと発車するのを見届けると、俺も駅に引き返した。
 帰宅後、どっと疲れが押し寄せてくるのを全身で感じた。

 下宿に戻ると、もう明坂は帰った後らしかった。ビール缶やトランプはすでに回収され、嵐の後の静けさだけが闃然げきぜんたる部屋に蟠っていた。

 結局、夜が更けるまで、受験に関して何も進展がなかった。帰ってくるとすで午後十時を回り、何をする気力も湧かなかった。

 机に向かったまま、じっと虚空を眺めていると、今日の出来事が思い出されたが、釈然とするばかりか、次第に腹が立ってくる。机の上に置いたままの過去問に手を伸ばそうとしたとき、一冊の文庫本に目を留めた。数日前、明坂から預かったビニール袋の中に、ビールと一緒になぜかあったものだ。今日返そうと思っていたが、すっかり失念していた。

 俺はなんとなく、その書籍を手にとってページを捲った。ある著名作家が数十年前に出版し、実際にあった御堂放火事件をテーマに扱った、京都を舞台とした小説だった。俺も作品名くらいは聞いたことがあったが、読んだことはない。
 ぱらぱらと適当にページを繰り、最後の一ページに辿り着いたとき、空白のページの中央に拙い字でこう書いてあった。

『新面目あるべし!』

 これは、どういうことだ。
 新面目とは何だ。俺はますます明坂の意図がわからなくなった。彼がこの小説をわざと袋に忍ばせたのだとしたら、どんな目的でそうしたのか。
 考えたところで、やつに直接きかないことには知りようがない。

 ――それにしても、新面目とは何だ。

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