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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」13

 俺には毎晩、寝床につく前に必ず行う日課、習慣がある。股を開きながら座り、上体を前に倒して軽く伸びをした後、腹筋運動や腕立伏せをする、いわゆる筋トレである。

 俺が通っていた中学校には、野山などを登りながら自然を散策したり、寺社仏閣を訪ね歩いたりして歴史に触れる、「フィールドワーク部」という名の部活動があり、俺はそこに三年間所属していた。遠出をするのは月に一度ほどに留まるが、普段の活動内容としては、学校の周囲や町内を歩いて一周したり、天候が芳しくなければ、部室で筋トレを行ったりする。

 部員数が四、五人の小さい部活だったが、わりと居心地は良かった。俺が本格的に歴史に興味を惹かれるきっかけにもなった。小学生時代までは足腰が弱く、貧弱な少年だった俺も、この部活に入ることによって、それを機に毎夕筋トレに励むようになった。その成果かどうかは曖昧だが、山登りも緩やかな傾斜ならばするすると難なく登れるようになり、歩くことが楽しくなった。

 引退後も、筋トレだけは日課として毎日続け、高校に入学すると、似たような部活がないか探し、その結果、「山岳部」という部に辿り着いた。それは「フィールドワーク部」よりもアクティブな登山部で、多少の不安はあったものの、ほかには特に興味のある部活もなく、試しに入部することにした。

 しかしいざ門を叩いてみると、屈強な男たちがダンベル片手に「今日はどんなトレーニングをしようか」などと話し合っている光景が目に飛び込んだ。登山もそんなに生易しいことはなく、中学時代に登っていた山など比べ物にならず、何倍も険しい山道をひたすら往復させられ、夏休みなどは日本アルプスまで遠征に行き、山小屋を借りて合宿という名の本格的な登山をやった。

 練習についていくだけでも一苦労で、一年も経たずに俺は辞めた。そこそこに筋肉はついたと自負してはいるが、俺は険しい山を登りたかったわけでも、足腰を鍛えたかったわけでもなく、ただ自然のなかを探索するほうが好きだということに気づいたのだ。
 それでも、筋トレの日課はなくならなかった。学校帰りや風呂に入る前、就寝前に極力、簡単なトレーニングは欠かしたことがない。

 一人暮らしを始めてからも、勉強が終わり、就寝する前に、布団の上でストレッチと簡単なトレーニングをして、そのままダンゴムシのように布団に潜り込む。
 そのとき、なぜかふと春江さんのことが脳裏に浮かんだ。

 彼女は今、元気だろうか。山科で下宿を始めてすぐ、手紙を出そうか迷って、そのまま有耶無耶になっている。かれこれ実家を巣立ってから二ヶ月になろうとしている。そろそろ、勉強の進捗も兼ねて、手紙を送ってみるのもいいかもしれない。
 とはいえ、気恥ずかしさが全くないこともない。両親が興味本位で勝手に封を開けて読むことも可能性として否定はできないし、そもそも論として、書くことがあまりにも薄すぎる。再受験に当たって、こういう問題集を解いています、ということを書いたところで、わずか数行で終わってしまう。どうしたものか。

 春江さんは、俺が小さいころから、俺にとって第二の母も同然だった。厳格な祖父は優秀な兄だけを可愛がり、不出来な俺に対しては冷厳な人だった。
 それでも春江さんは、俺がどんなにテストで悪い点を取ろうが、「出来なかったことは次頑張ればいい」と優しく言い、「頑張った」という事実を肯定し、褒めてくれた。

 春江さんだけはいつ何時も俺を裏切らず、温かく見守ってくれたのだ。今も、大阪高槻の実家で俺のことを案じているだろう。彼女を安堵させるためにも、近いうちに手紙を書こうと決心し、俺は部屋の灯りを消した。

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