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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#12-1

 読者の中には誤解している方がいるかもしれないので、念のために記しておくと、俺も好き好んでこんな放擲ほうてきな生活を送っているわけではない。ちゃんと勉強しようという気はあるし、ちゃんと志望校に合格したいという気概もあるのだ。
 なのに、どうして身が入らないのか? ということを疑問に思うだろう。こういうことを書いてしまうと元も子もないのは百も承知だが、つまりは集中力がないのである。これは俺が「勉強できない」という事実に直結している、極めて大きな問題、喫緊の課題にすべき問題なのだ。幼少のころからわかっていたことだが、もはや認めざるを得ない。

 小学校のころ、和室の文机ふづくえに向かい、学校の宿題を広げたまではいいが、同じ部屋にいた春江さんがテレビをつけるので、それが気になり、気がつけば俺も勉強そっちのけで一緒になって観ていた。母親が帰ってきて注意され、そこで初めて、宿題に手をつけていなかったことを思い出し、慌てて取りかかる。……そういうことは日常茶飯事だった。
 まあ、この例だと、春江さんも悪いような気がしないでもないが、あまり深くは考えないでおこう。要は、俺の集中力のなさが原因なのだから。

 ◯ 
 
 五月の連休が明けてから一週間が経った。夕刻、五限目の講義から帰宅すると、明坂から急に連絡が入った。
「ゼミが長引いて遅れそうだから、先に行って待っていてほしい」という。文末に、山科駅近くの某牛丼屋を勝手に指定してきた。
 全く約束した覚えはないが、無視したらしたで鬼電地獄が待っていそうな予感がしたので、心底面倒に思いながらも、仕方なく行ってやることにした。

 待ち合わせ場所の牛丼屋は、駅前のバスロータリーを渡って向かいの並びにあった。戸を開けて店に入ると、窓際の席にいた西谷がすぐに俺に気づき、無関心そうに目線をテーブルの上に落としながら、さっと手を挙げた。
 まだ店にはほかの客はいず、森閑しんかんとしている。

 俺は黙って西谷のところに向かうと、彼の目線の先を辿った。彼はスマートフォンを見ていたのである。

 西谷の前の席に腰を下ろし、向かい合うが、依然として彼はテーブルに両肘をつき、片耳イヤホンをつけて無言でゲームに興じている。
 直後、店の扉が開かれる音がした。

「やあ、お待たせ」という、明坂の軽快な声が響いた。
 明坂は何の迷いもなく、ずけずけとこちらに歩み寄ってくると、何の遠慮もなく、俺の隣にすとんと座った。
 そして俺と西谷を交互に見交わしながら、こう尋ねた。

「あれ、尾倉は?」

「デートらしい」

 西谷は顔を上げず、恬淡てんたんと簡潔に答えた。

「ちぇっ、リア充め。せっかく誘ったのになあ」

 こいつがすでに西谷や尾倉と仲良くなっていることに、俺は改めて驚いた。

「そういや、尾倉は居合道いあいどう部なんだって?」

 明坂が俺に視線を移し、唐突に話を転じた。

「いや、知らん」

「なんだ。でも、あいつがいつも首にぶら下げてる鯉柄の風呂敷、あの中身ってたしか道着なんじゃないの?」

 正直、「居合道」という競技は、尾倉に聞くまで俺も聞いたことがなかった。英語の授業のなかで、前の席の女子学生が、「私は居合道に所属しています」と英語で自己紹介した際、それを聞いたネイティヴの講師が、「ワッ!? イアイドー? アイドンノウ!」と言ったことだけは覚えている。

「西谷くんは、滋賀県から来てるんだったね」

 明坂は、向かいの西谷にも話題を振った。だが、当の西谷はわずかに首肯するのみで、これといった反応を示さなかった。そんなお座なりな対応をされても、明坂は寛容的――かどうかはわかないが、特に気にする素振りもなく、水を運んできた店員に対して慇懃いんぎんにお礼を言ったりしていた。

 俺はその一方で、先程からの明坂の一挙一動が理解できなかった。意図が全く読めないのだ。これはある種の日常の一部に成り果てているが、彼が何をしたいのかが時たまわからなくなる。何というか、感情にもやがかかってしまう。そんな感覚があるのだ。

 明坂は、俺や西谷に話を振っては煙たがられているのに、自覚がないのか一向に口を閉じようとしなかった。ともすれば一日中、益体もないことをべらべらと喋り続けているのかと疑うほどに。

 これが俗に言う「ウェイウェイな空気」というものだろうか、と俺は考えた。
 酒を飲みながら(※飲んでいない。そもそも未成年なので飲まないが)、居酒屋だのファミレスだのに集まって、中身のないことを延々と夜通し喋る。話に聞くまでは、俺も実態を信じなかった。というか、大学に入学するまで、俺には縁のない空間だと思っていた。
 それでも好きにはなれない。俺はもっと閑静な場所や時間を好むのだから。

 ようやく話すことに飽きたのか、明坂は自分の腕時計で時間を確認し、

「じゃあ、どうしようか」

 と言った後、こんなことを言い出した。

「これから、君の下宿に行こうと思うんだが」

 急な発案に、何も準備がなかった俺は戦慄し、やや身を強張らせた。

「断る! なんでお前を俺の住処に上げなくちゃならん!」

「いいじゃんか。この間、そういう約束だったでしょ」

「いつ約束したんだよ。俺はした覚えがないぞ!」

 俺は舌鋒ぜっぽう鋭く言い返すが、明坂はけろっとしている。この厚顔さときたら、ある意味称賛に値するかもしれない。

 明坂は下手したてに出るように、顔を近づけて俺を上目遣いで見やった。「ノンアルのビール、預けてたよね? あれだけでも回収したいんだけど」と小声で囁くので、俺は渋々承服した。
 生まれてこの方、俺はビールというものを飲んだことがないので、ずっと冷蔵庫のなかにあったとして持て余すだろう。

 明坂は次いで西谷のほうへ顔を向けると、「君も来るでしょ?」と、まるで同意を求めるように尋ねる。西谷は端末の画面を凝視したまま、小さく頷いた。

 俺にとっては災難極まりないが、百歩譲ってすべてが丸く収まった後、俺は明坂と西谷を引き連れ、牛丼屋を出た。もちろん、俺は納得していない。
 冷蔵庫に眠ったままのビール缶を受け渡し、さっさと追い返す算段を俺は目論んでいた。一日のノルマどころか、まだ勉強にすら手をつけていないという事実が、俺の焦りに拍車をかけていたのは言うまでもない。

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