角
2020/6/9(火)
山田詠美著『ぼくは勉強ができない』を読了。
もっと前に、主人公・時田秀美と同じ学生時代に、この本と出合えていればよかった。そうしたら、必ず揺らがされる何かを感じ、自分の思考やそこからくる行動に、少なからず影響を与えられていただろう。
大人になった今のぼくが読んでさえ、“焦燥感”や“自己嫌悪”を覚えるのだから。
秀美と同じサッカー部の植草・誰もが憧れるクラスのマドンナ山野舞子・秀美、赤間ひろ子を取り巻くクラメイトたち。秀美と関わる1人ひとりが、これまで通ってきた〈あのときの自分〉だ。
そのとき抱いた感情に一歩一歩立ち止まらないまま、ここまで歩んできてしまったことを、頁を読み進めるたびに、秀美に思い知らされる。それがあのとき正しかったのかどうかの前に、〈考える〉ことをせず過ぎてしまったんだと。
だからなのだろうか。年齢だけは刻々と大人である今、担任の奥村先生の姿・秀美と接するたびに感じる心の機微が、「こういう大人にはなりたくない」と拒絶しながら、それでもより一層自分を覆い、重なってこようとする。理想と現実の隔たりを突き付けられて、容赦なく秀美の言葉が心にグサグサと入ってくる。
自分で、何か引っ掛かりがあることには気付いている。しかしそれに気付かぬ振りをしていると、〈鈍感でいる〉ことが体に染みつき、癖になる。それがじわじわと、自分の思考も鈍化させ、頭は凝り固まる。自分が今までそれを抱いて生きてこれたのだから、それが〈正義〉なのだと、それ以外を受け入れ難くなる。
その積み重ねが、奥村先生であり、自分という大人たちなのではないかと、秀美は読み手に投げ掛けてくる。
〈考える〉ことに目を背けたくなるのは、それが立ち止まっている・内に塞ぎ込んでいるような感じがするからではないだろうか。秀美には、それがないのがまたいい。朗らかで、陽気で、開放的な感じがあるから、それが人を巻き込むし、間違うこともあるけれど、ちゃんと前に進んでいる。決して後ろに向いてないし、立ち止まってもいない。
考えることそれ自体が、秀美にとってごく当たり前で、自然なことだからだ。
それが自然になったのは、父親がいない家庭環境という、〈角〉を持っていたからだろう。その〈角〉を持っていない人からすると、それはまるで腫れ物に触るような、不幸なことであると決めつける。まるで、それがないぼくらこそが幸せだとでも言うように。
だから、自分も違う〈角〉を持っているんだよ、ということに、なかなか気付けない。自覚がないから、他の人の〈角〉にも、想像力が及ばない。そんな〈角〉をいくつも持って、心は円く、寛容さを捉えられる。
それに気付くことができれば、もっと世界は広くて、多様で、むずかしくて、おもしろいことにも気付ける。それは、自然に考えることから始まっていく。
こうやって文章を打っているだけでも、これは本当に自分で思っていることなのか、人に読んでもらいたいから、良いこと言いたいだけではないか。〈自意識〉と〈自然〉の間を行ったり来たりする。けれど、この本を読んで、考えて、自分の頭を通って出てきた言葉なのは、本当である。
人が変わるのはなかなか大変だけれど、こういうところから始めていきたいと思う。気付けたことに、遅いも早いもなくて、そこから体を動かせたかどうかな気がするから。
だから、学生時代に読むことはできなかったが、世界が混乱している〈今〉、この本に出合うことができたのは、これはこれで良い時機だったなと、読み終わって思う。
出合ったことが遅い早いじゃなく、そこから自分がどう考えて、どう体を動かせたか。その先に人生の豊かさ・世界の広さがあることを問い掛けられた気がするし、それを試して、確かめていきたいと思う。
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