220307
満月だ。
新月を過ぎて釣り針のような細い月がでてくると、満月が来るのを楽しみにしている。月が満ちるとなぜか嬉しい。
夜、コンビニにいくつもりがつい鴨川デルタまで行ってしまった。そこのベンチは特等席だ。何度そこから月を見ただろうか。
十数人の大学生が集まって騒いでいた。若いなと思った。赤マルの箱を開いて残り少ない煙草を吸った。ベンチは木下だった。木の枝が生を主張するかのように四方に伸びている。
『荘子』より。
ひとつの疑問。「僕の知識のていどを知ったうえで」との解釈はいかがか。魚の楽しみがわかるか否かというのは知識の程度に依存することではない。
書き下し文には「女安んぞ魚の楽しみを知らんと云う者は、既に吾れのこれを知るを知りて我に問えり」とある。「これ」とは文脈からして、荘子が魚の楽しみを知っているということであろう。「はやがのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」という荘子の発言を聞いた恵子は、その発言から荘子が魚の楽しみを知っているということを知り、その上で恵子は荘子に問うた、ということである。
「はやがのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」と荘子が発話すると、発話者である荘子は魚の楽しみを知ってしまっているということにならざるを得ないし、その発話の意味の理解は「荘子が魚の楽しみを知っていること」を知ることにすり替わらざるを得ないのではないか。荘子と恵子の議論の噛み合わなさは、それぞれが別種のことを問題としているところにあるように思われる。
逸話のはじめの方に戻る。恵子の「君は魚ではない、どうして魚の楽しみがわかろうか。」という問いを換言すると次のようになるのではないか。それは「君も恵〈私〉と同じように《私》であろう。それならばなぜ君は他者の楽しさを感じることができるのか。」と。
ここで恵子は荘子もそこから世界が開けている《私》であると仮定した上で、《私》というものの定義上、《私》が他者の楽しさを感じることが不可能性であると述べている。(もし荘子が魚の楽しさを感じているのであれば、荘子と魚がひとつの《私》を構成しているのだろうか、あるいは荘子も魚も《私》ではないのだろうか。)
それに対して荘子は「君は僕ではない、どうして僕が魚の楽しみをわかってはいないとわかろうか」と返すのだが、どうもこれは的を外れているように思われる。《私》が他者の楽しさを感じることが不可能性であるということは、経験によらずともそうなのであるからだ。独身者が結婚していることの不可能性は経験によらなず、実際にそうなっているかどうか知る必要がないのと同じことである。
今日はここまで。
追記。あるとき知り合いが「(私に)感情があるかどうかわからない」と言っていた。これは非常に興味深い問題だ。
ある任意の感情があるかどうかわからないということではない。問題となっているのはあらゆる感情であり、そもそも自分に感情があるということがどういうことかわからないということだ。その場合、「以前はあった」と言うこともできない。
感情があるということはいかなることなのか。
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