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#09 立ち直りたくない

 なんと、まだ咳が続いており「これは絶対になにかしらの病だ」と思い、やっとこさ病院へ。『のど真っ赤ですね!薬出しておきまーす!』たいしたことありませんでした。ただの体力気力抵抗力免疫力の低下でしょう。サナコです。

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 4日ほど前、仕事中に珍しく親からLINEが。訃報だった。昼休みに詳細を確認し、人目があるにも関わらず涙がとまらなかった。

 優しくて明るい彼女は、私のピアノの先生だった。6歳から18歳まで習っていたから、考えてみたら、立派に幼なじみとも言える気がする。先生は、47年で人生を終えてしまった。

 最後に会ったのは、私が19の頃、先生に女の子が産まれたと知り、里帰り中の実家へ遊びにいった。その実家がピアノ教室だった。私も地元を出て、先生は市外へ引っ越していたから、その後は会っていなかった。

 会っていなかったことが、なによりも悔しい。先生は元気に子育てをしながらピアノを弾いていると思い込んでいた。

 しかし、そうではなかった。先生とご家族は白血病と闘っていた。そして、あのとき赤ちゃんだった女の子とまだ幼い男の子を残して、旅立ってしまった。

 私自身が平和に幸せに生活しているからといって、いままで知り合った人がみなそうだなんてありえないのだ。なぜか、勘違いしてしまっていた。いつでもまた会える、と。

 人の死について悲しさを比べるのは不謹慎なのかもしれない。これまで親族の葬儀にしか出たことがなかったのだが、いままでの経験したお葬式よりもずっと悲しかった。ただただ、悲しかった。心の準備が全くできていなかったのも大きいが、本当にショックで、死が受け入れられないというのはこういうことなのだろう。

 先生のお母様、旦那様、子どもさん、みな、しゃんと気丈にふるまっておられた。家族で静かに悲しみたいだろうに、私たちに挨拶し礼を述べ頭を下げる。本当に悲しみたいのはあなた方なのに、私は泣いてばかりでなにも言えなかった。無力だ。

 
 次の日からまたいつもの生活に戻った。ふとしたときに、思い出してしまう。涙が胃から上がってきてしまう。悲しみと悔いにもっていかれてしまう。時間が解決するものなのだろうと頭ではわかっているが、この悲しみを忘れると、なにか大切な気持ちまで忘れてしまうのではないかという思いもある。


 また誰かを急に失ってしまわぬよう、いまの気持ちを忘れたくない。ひさしぶりの再会がお葬式になって欲しくない人だらけなのだ。同窓会や年賀状、SNSやお誕生日おめでとうメール、めんどくさいから離れがちだ。

 でも、めんどくさいことが今回のような不幸せを減らしてくれる。失ってはじめて存在の大きさを知る。失ってからでは遅い。よく聞く言葉のようだが、よく聞く言葉は実際によくあることなのだろう。きっと経験者が語りまくっているから皆に届いている言葉なのだ。

 人を大切にするということは自分を大切にすることになるのだ。こんな思いはもうしたくない。強くありたい。

 
 だけどまだ立ち直りたくないのだ。


 







 

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