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『羊と鋼の森』 | 読書記録

毎週水曜日の夕方、私は家の斜め前にあるピアノ教室に通っていた。小学校に入学してから、約9年。高校入学後、通学距離と部活の関係で夜遅く帰宅するようになった私は練習に時間を割けなくなり、しばらくピアノの蓋は閉じられます。

今回読んだのは、調律師のお話。『羊と鋼の森』とは、木材でできたピアノ(森)の中、羊毛でできたハンマーが鋼の弦を打つことで、音を奏でることを表現しているそう。そのタイトルからもこの小説の美しさは感じることができます。

美しかった。まるで、小説なのに音楽を聴いているかのような。いつも心に留めたいページがあると挟む付箋も今回は多く、その中から特に書き留めておきたい部分を引用して、読書記録に残そうと思います。(今回はちょっと、長い。)

知らないとしたら。その言葉の奥には。

「知らないっていうのは、興味がないってことだから。」
「言葉を信じちゃだめっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか」

主人公と、その先輩のみている、みてきた景色は違う。だから、知っていることも全然違う。同じ言葉でも、その人の知識によって、頭に思い浮かべる景色の広さや深さは変わってくる。「やわらかい音」と言われたら、調律師はお客さんが求める「やわらかさ」を探らなければなりません。もしその音の幅が狭ければ、考えられる選択肢はますます狭くなってしまう。だから、どんな知識も調律に結びつくのだと。

原民喜の言葉

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

尊敬する板鳥さんの目指す調律はこの言葉に全てが詰まっている。私もこの文章を読んだとき、とても痺れました。なんて素敵な表現なんだろう。こんな文体を紡げるようになりたいし、そんな人になりたい、とも思いました。

純粋なよろこび

ピアノの音だけで人がよろこぶというのは、道端の花が咲いてよろこぶのと根源は同じなんじゃないか。自分のピアノであるとか、よその花であるとか、区別なく、いいものがうれしいのは純粋なよろこびだと思う。そこに関われるのは、この仕事の魅力だ。

自分の手柄でもなく、何一つ自分に関係がなくてもよろこばしいこと。そんなたしかな「良い」がもっと世界に増えるといいなと思いました。

一歩ずつ、徒歩でいくしかない

調律師の仕事は、ひとりでは完成しない。そのピアノを弾く人がいて、初めて生きる。だから、徒歩でいくしかない。演奏する誰かの要望を聞くためには、ひと足でそこへ行ってはだめなのだ。直せないから。一歩ずつ、一足ずつ、確かめながら近づいていく。その道のりを大事に進むから、足跡が残る。いつか迷って戻ってきた時に、足跡が目印になる。

急がば回れ。過程を大切に。その教訓を「一歩ずつ、徒歩で」と表現しているのが素敵だと思いました。ちゃんと足跡を残すためには地に足をつけて、ちゃんと戻ってくるためには景色をしっかり見ておかないといけないんだろうな。

決意

「ピアノを食べて生きていくんだよ」

ピアノで食べていくのではなく、ピアノを食べて生きていく。プロのピアニストを志すと決めた彼女の言葉がとても心に残りました。手段ではなく、ピアノと一緒に生きていく、そんな力強い言葉。

ただ、やるだけ

「才能がなくたって生きていけるんだよ。だけど、どこかで信じてるんだ。一万時間を越えても見えなかった何かが、二万時間をかければ見えるかもしれない。早くに見えることよりも、高く大きく見えることのほうが大事なんじゃないか」(中略)才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。

才能とか、素質とか、そんなものは考えても仕方ない。ただひたすらに、好きな気持ちに真っ直ぐに、時間を注ぎ続けた者にしか見ることのできない景色があるんだろう、と思いました。

あきらめる理由のないものと出会って

多くのものをあきらめてきたと思う。(中略)でも、つらくはなかった。はじめから望んでいないものをいくら取りこぼしても辛くはない。ほんとうにつらいのは、そこにあるのに、望んでいるのに、自分の手には入らないことだ。
もしかしたら、それでよかったのかもしれない。この絵が好きだと思えればそれでいい。(中略)でも、僕は、あきらめたのだ。絵は、わからない。わかったようなふりをしてもつまらない。それが___あきらめたことが___正解だったとわかったのは、十七歳になってからだ。初めてピアノに触れたときの、あっと叫び声を上げたくなった気持ち。それほどの心の動きを、無意識のうちに僕は求めていたのだと思う。
「才能っていうのはさ、ものすごく好きっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものと似てる何か。」
「いくら弾いても、ぜんぜん疲れないんですって」(中略)___和音が何かを我慢してピアノを弾くのではなく、努力をしているとも思わずに努力をしていることに意味があると思った。

好きや自分の心の動きの基準は時間と共に変化していくけれど、そんななかで理屈ではなく、これだと本能的に求めてしまうものに出会うこと。その対象は人によって違うから、「好きも才能のうち」なんだと思いました。私が心を傾けられるものには、どんなものが挙げられるだろう。

生きていると、時間がたって初めてふと分かってくるものがたくさんあります。あの時の経験はこうやって今に繋がるんだと点と点が結びついたり、自分が無意識に続けていた言動が誰にも真似できない特別なものに昇華されていたり。この20年で気づいたことも、長い目で見ればまだ人生の序章にすぎないのかもしれません。いや、そうであってほしい。

だとしたら、今の私にできることは、本能的に求めてしまう自分の「好き」に時間を注ぎ続けること。そしてそれほどに幸せなことはないと思います。

果てしなく続く森の中で、確かな足跡を残していきたい。とても素敵な小説でした。今度帰省したとき、久しぶりにピアノの蓋を開けてみようかな。


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