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あこがれと自由とルール リストラーズで考える

毎日のように 彼らリストラーズのことを綴りながら まだ充分 気持ちに正直ではない自分に気づいている。
自分の中に葛藤があるからだ。
 
 
一番目の理由は、
一般人であるリストラーズメンバー, リアルで彼らと親しくされている方たちへのご迷惑や 思惑を考えるから。

本業の場でも 黙っておけるレベルでない現在の活動規模は 好むと好まざるとに関わらず、私生活にも大小の影響を与えているのではないか。

また、ご家族から応援されていらっしゃるとは思うが、少しずつ普通どおりには 暮らしづらくなってはいないかなどもある。
家族として 注目されてしまうこともあるかもしれないし、一度SNSやnoteに目を通せば、とてもではないが 一般人相手への書き込みの量でも内容でもない。

自分ならどうだろう?
何度も考えてみた。
とても誇らしい反面、複雑な思いも持ってしまいそうだ。
 

もちろん ファンのほうも ある程度、
これまでの仕事の場や社会の中、 親戚・ご近所での付き合いなどで さまざまな経験値を積んできた 大人が多いように思う。

その経験から 手放しでの発言はせず、少しブレーキをかけながら 応援を
続けていらっしゃると感じている。
主に 「私(わたくし)」の部分には踏み込みすぎないというブレーキ。

特に 法的に問題を起こしそうなことや 私生活に直結するようなことは 書かない、描かない、発言しないという暗黙の自制ルールを 多少の色合いには
差異あっても それぞれ自分の中に持っているということではないかと思う。

だが時折、熱くなりすぎて とても冷静に発言できず、壊れモードになってしまうこと( ← 筆者だけ? )はある。
こういう時は、やってしまった感が強くなってあとでかなり凹む 。

 
二番目の理由は、ファンの感覚は十人十色だということ。

このあとを 伝わるように書けるのか 自信は全くないが、筆者がnote記事を綴るとき、書いていいのかどうか どこまでならいいのかと、いつも非常に
迷う思いなので もう少し掘り下げて残しておきたい。
 
たとえば筆者が 動画のひとつ あるいは画像のひとつを見て、ある見かた
をしたとしても他のファンもそうだとは限らない。

いろいろな見かた 楽しみかたがあって当然で、
かつて「背景のハシゴに目を奪われたって良いのです」と記述をされているのを読んだ時には、笑いながらも安心させていただいた。

公式さん推奨?の見かたでもある。
(顔じゃない本じゃない ギンギラギン振り付け変遷裏話 編集後記 参照)
 
更に その編集後記のさいごに添付されたのはモノクロ写真で 6人の「敢えて後ろ姿」を写したものだった。
(← この書き方には 既に何を どう注目しているのかの筆者の目線が入った
  表現になっているわけで)

その写真の説明は殆どなく、日付けにも 撮られた理由にも シチュエーションにも触れられておらず、ただ「皆様の解釈にお任せしたいと思います」とだけ添えられていた。
 
「自由に楽しむ」というのは
こういうことじゃないのかな と野村さんご自身(公式なので、或いは ほかのメンバーも含んで)が思われている、ひとつの形を提示されていたのかもしれない。
 
世の中に 既に出したものは 丸投げにしておいて、見る人が どこを見ても、何を想像しても どう解釈しても どう結論づけても、一旦 手を離れたなら
管轄外。
縛り付ける強い規制や管理制限など ほぼしないし 思いは各自 ご自由にと。

 
とても ありがたい反面
同時に「自由には責任が伴う」という言葉も思い出していた。

 
当然 それは受け取る側のファンの責任だ。

自由と言われて、お腹が空いたからとコンビニに入り、お金も払わずに
おにぎりを食べたら 罪になる。

どう見るのも自由と言われて、画像に何かを加えて楽しさを超えて茶化したり、失礼にあたりそうな想像上のセリフを足したり。
自由は認められていたとしても、好きなようにやりっぱなしでよいものかということである。
 
何にフォーカスするのか、フォ―カスしたあとに 何を語るのか。
もっと大人になった時や 冷静になって読み返したとき、その判断に自分でOKを出せるのか 後悔する黒歴史になってしまうのか。
 
多分だが Xやブログで発言されているかたは
想像しちゃった挙句 何かを言葉や絵で加える時は、もし対象が自分だったら・・・という基準を ある程度 持っていらっしゃるはずだ。

「ここまでなら気持ちよく笑って見られる」 、「こういうセリフならファン同士が喜んで読む」そういう目線を持って判断していらっしゃると思う。

が、「もし自分なら」の「自分らしさ」の中に、より個性的で、より尖った
感覚を持っていたら? 大多数から見て それはちょっとネ・・・と感じる感覚が普通の範囲を超えて いつの間にか紛れ込んでいたら?


それもまた楽しいと感じ、もっと聴きたい 見たい 読みたいと思う人もいれば、彼らの親の立場から見たり、彼らの子供の立場から見ても、同じことが言えるのかどうか、 思えるのかどうかも「責任」のうちに入ってくるはずだと感じるひともいる。

 
逆に思うのは この考え方は固いということ。
こういうことを考え始めたら「そこまで心配したら面白くない」「肩が
凝る」「楽しめないじゃないの」ということである。

さらに筆者のように noteやブログに書く人やイラスト、アニメを創る人は、自己制限に縛られて 自由な表現ができなくなって 苦しくもなる 。
 
真面目に受け取りすぎて ただの感覚の違いを 難しい問題だ と考えてすぎているフシもあるわけだから。
 
書いているうちに
いよいよ迷路に入ってきたような気分だが、価値観が これまでの日本のように ある程度は民族や言語が統一され、その中で「和をもって貴しと為し
忤(さから)うことなきを 宗(むね)と為す」が 可能だった頃から、あきらかに変化してきている現代社会。
 
今後さらに、国内に生粋の日本人以外の人口割合が増えれば この価値観の
違いを理解し合い、共有することは どんどん難しくなり 複雑化していくだろう。
( ← ご理解いただけるとは思うが、差別や区別の話ではないことをお断り           
  しておきたい)
 
それだけに 大好きなリストラーズメンバーが これからも 自由に 気持ちよく 活動し続けていただけるように 頭の片隅に置いておきたいと思っている。

筆者をふくむ 多くのファンが 彼らに魅かれ あこがれる今、 楽しめる時間を長く持ち続けるために。


 
 
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          好きだから 守りたい どっちもホントの気持ち >

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