反出生主義者、児童館にて

 

 反出生主義者なのに児童館の学童保育で働いています。

 読んで字の如くです。ただ、別に奇を衒いたいわけではありません。

 とりあえず、子供を作るという行為についての私の価値観を話します。まず、私が反出生主義者であると自称すること、これについてはその理由ははっきりしています。この世に産み落とされるその瞬間、そこには子供本人の意思が介在せず(というか、できない)、その点においては親のエゴであるという指摘は、どう足掻いても避けられないからです。親は子を産まないという選択はできますが、子は親を選べません。例えば胎児の時点で重い先天性の疾患が確認された場合にだって、その子がこの世に生を受けるかは親の判断に委ねられます。そういったケースでは、その場限りではない強い覚悟、どれほどの苦難が待ち構えていても支え続けていくのだという信念なしに、安易に子供を作ることは、その子をただ苦しめるだけのものであるとしか私には思えません。これは別に障害があるからどうこうという話ではなくて、健常児であっても、産んだからには社会的に自立できるまで(この期間については進学や就職の時期によりまちまちですが)は当然、育てることが(法的な拘束力とは関係なしに)義務だと考えます(あまりに感謝しない子もそれはそれで問題ですが、育児はそもそも感謝ありきでするような行為ではありません)。
 生まれさえしなければ発生しなかった苦しみが、この世の中には無数に存在しているはずです(生まれたからこそ味わえた喜びがあるのと同じで)。子供を産むということは、それだけの責任を果たせないのであれば、本来許される行為であるとは到底言えないでしょう。モノ扱いするような言葉選びで申し訳ないのですが、いわば「製造責任」というやつです。
 けれども、生まれてくる前のいのちと、既に生まれてしまったいのちとを同列に語るべきではないのもまた事実です。それならば、親が責任をもって自立できる年齢まで育て上げること、親がその監督者として不適であれば、その子に問題なく関われるもっとも身近な者が適切な教育を施すことに注力をすべきだといえます。矯正、つまり「正す」というのは本当に語弊がありますが、例えば「自分がされて嫌なことは人にもしない」という当たり前のことを当たり前にわかるようにさせること、あるいはいずれ当人の強みになりそうな能力を伸長すること、それら外的要因として子供に関わる他者(この”他者”には親も含めた上で言及しています)の行為は、その人生の歩みを少なからず変化させるのではないでしょうか。
 逆にそれができていれば、子を作ることが全て悪であるとは必ずしもならないはずです。したがって、その部分については私は反出生的、優生思想的な態度を貫くつもりはありません。
 つまり、私は「部分的に反出生主義者である」というのが正確でしょう。

 ただ部分的とはいえ、この態度は世間一般とはおそらく乖離したもので、本来ならば子供を相手にするような職場に持ち込むのは望ましくありません(うっかり口を滑らせたら大変です)。
 それではなぜ、私が児童館で働いているのか。それはやはり、この反出生的な態度があくまでも「部分的なもの」であるからで、「既にそこに在るいのちについては、少なくとも子供の間は、親や教育、福祉の尽力によって最大限の援助をすべきである」という信念が、子供への抵抗をなくしているのだと思います。
 自分の持つ発達特性のみにその結果の責任を転嫁するつもりは毛頭ありませんが、私は(特に対面での)コミュニケーション能力に致命的な欠陥があり、これまで面接を経て採用に至ったアルバイトは何一つありませんでした(家庭教師をそれなりの期間やっていますが、派遣会社に登録→配信された案件メールの中から都合の良いものを選んで返信→会社が適任だと判断した場合に依頼の連絡があり、その時初めて社員と顔合わせ、という流れのため、面接で落ちる心配がないのです)。また、マルチタスクの処理は極めて不得意であり、”要領が悪い”ために、多くのアルバイト先で「複数の作業を同時並行でこなす」ことが求められるにもかかわらず、それがほとんどできません。
 そんな中で、面接の結果採用された初めてのアルバイトが、この児童館での仕事でした。人文系に進学したがゆえのリスクヘッジとして教職を取ったとはいえ、家庭教師としてそこそこ働いてきたがゆえに、また先に示した思想信条的な理由でも、子供が別に嫌いではなかったことが、採用にあたって大きく(もちろん、良い意味で)影響したようです。
 学童保育のスタッフとして働く時間は、正直、すごく楽しいです。もちろん遊び半分でやっているわけではないし(当たり前ですが少し目を離しただけで命に関わる事態にもなりかねません。何せ相手は子供なので)、自由気ままな彼らの行動に振り回されて大変に思うときもある(当然その予想外さ、融通の利かなさを鬱陶しく思うような人間には全くもって向かないし、そういう人間がもし勤めたらどっかのタイミングで怒りのあまり子供をぶん殴ることになると思います)のですが、彼らと関わっていてふと味わうことのある喜びは、今のところその苦労を上回っています。退勤時間を迎えて、荷物を持って出ようとしたら「まだ帰らんといて!」とお怒りになられたりします。というか学校から帰ってきた瞬間に「ただいま!」と言いながら殴られます(まあ、小学校低学年相手なのでどうにか……)。
 今の私は他人相手に自分が原因のトラブルを発生させることが煩わしく、同世代の知り合いと予定を作ったり、またはSNSでさかんに関わることがストレスになって、ほとんど誰とも関わらず自室で引きこもっているのが日常と化してしまいました。
 ただ、この児童館での仕事については例外で、その理由としてひとつには「あくまで業務内容として発生する人間関係であり、利害損得に基づいて行動しているのだと割り切れる」ことが挙げられるのですが、もうひとつは、「"そこにただ在ること"を無償で認めてくれるのが現状ほぼ唯一、児童館の子供たち(と、スタッフ)だから」です。まあ正確には無償というか、なにも寄与せずに承認されているわけではありませんが。子供の相手をして、子供のほうから遊ぼうだとかこれ教えてだとか声をかけられて、そして同時に雇用できる人材だと判断されて契約を結んで、またそれらの業務に対して賃金を貰っているのだから(これは家庭教師もだいたい同じ)。
 いま私を最も、そして必要とするべくして必要としてくれるほぼ唯一の相手であり場所なのだから、最大限の誠実さを示すべきなのです。

 時折、「このままどっかの児童館で常勤になろうかな」とか思ったりするのですが、もちろんそう簡単な話ではありません(収入面などを考えると特に)。それでもそんな気を起こさせるほど、天職とはいかないまでも私はそれなりの充実感を覚えながら働いています。
 常勤含めて同僚は中年女性が多く、世代的にはギャップを感じたりもしますが、人当たりのいい方ばかりで居心地はいいです(退勤後に愚痴を言われたりしている、可能性はなきにしもあらずですが、ここまで言っておきながらそのことを考えるのは無粋というものでしょう)。
 こないだは大富豪とUNO、おはじきのルールがわからなくて子供に怒られました。近いうちに覚えないと(前者2つは小学校の修学旅行以来やった覚えがないし、おはじきについてはそもそも知らなかった)。
 あと、若いスタッフが珍しい職場なせいで外遊びに結構駆り出されるのですが、自分の手の大きさを超えるボールを使った球技はすこぶる不得意なのを知ってか知らずか、意図的にそうしているわけではなく(どちらかといえば)女児の遊び相手になることが多いです。しかし、小学生女児は休み時間何をして遊んでいたか、自分の記憶を引っ張り出してみてもあまり見当がつきません(自分自身はできもしないのに見栄を張って外でボール遊びに興じるか、図書室で本を読んでいたので)。気質的に快活なら外でだるまさんが転んだや鬼ごっこをするのだろうけど、屋内となると。ハンカチ落としやフルーツバスケットは机や椅子の移動がややこしかったりで頻繁には見かけなかったし、折り紙はたまに見かけるけど自分が不器用なので役立たずに終わってしまいます。よく考えたら彼女らが好きなのって遊びというより、"おしゃべり"では……? ただ、意外だったのは彼女らが小学生といえども低学年ならまだままごとをしたがるということです。最近だと、私をままごとに参加させた女児2人が2人とも猫になり、飼い主の私は人語を話すその猫2匹に(飼い主なのに)食事を作られていました。なぜ? 読者に女児向けの室内遊びのよいアイデアをお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えてください。
 少し話が逸れるのですが、私は先月教育実習を終えました(このことはまた、のちのち文章にまとめようと思います)。あの3週間で経験したのは正直2度と思い出したくないくらい苦痛なことばかりで、時の流れが遅すぎて1日1日がまるで無間地獄のようでした。しかしそれでも正課中、すなわち生徒たちが学校にいる間にその相手をしている時間は過ぎるのが思ったより早かったです。
 さて、児童館では子供たちが帰ってくる少し前に仕事を始めて、帰ってきたらその相手をするわけですが。今の私にとっては退勤まではあっという間です。勤め始めて単純計算でそろそろ半年(実習の都合で丸1ヶ月ほど抜けたので正確には違いますが)、実はまだ私の名前をきちんと呼んでくれない子供もいたりします未だに「新しい人」「スタッフ」呼びがいるのはちょっと傷つく)。当然、言うことを聞いてくれず何かあるごとに「嫌や!」と返されるのはしょっちゅうです。ミスも多く、彼らからしたら「大人やのにそんなこともできひんの?」と感じる場面ばかりかもしれません。しかしそれでも、不思議と無視はされないのです。本当に私が嫌いで仕方なかったら、彼らは私をいないものとして扱うのではないかと思います(たかが何も言わずにトイレに行ったことぐらい、学校の授業中じゃあるまいしそれを理由に叱るはずもないのに、普段減らず口を叩く子供でもわざわざ律儀にその旨を伝えてから行ったりするあたりが特に)。どれだけ悪態をついても、今のところ彼らは私がそこに在ること自体は否定しないでくれています。
 努力が嫌いな私が今最も頑張れていること、それは間違いなくあなたたちとの関係性の中にあります。この感謝は、最近の私を常に勇気づけてくれているたくさんの笑顔を、形はなんであれ守り続けたいというひとつの祈りです。いつもありがとう。

 最後になりましたが、愛される覚悟というか、自分は好かれて当然のものとする態度を、私は学童の子供たちと関わって徐々に身に着けられているように思います。久しぶりに字を書いたら疲れますね。次は結構先になりそうです。ではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?