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仏教は、宗教ではない。心理学です。

私は、仏教や禅の考え方が大好きです。

そして、その考え方を仕事にも活かすことで、売上(数字)も満足いくものとなり、今まで以上に楽しく充実した毎日を過ごせています。

ちなみに、2021年のワールドマーケティングフォーラムが、神奈川県の建長寺で開催されていることからも、ビジネスの世界でも、仏教(禅)が注目されてきていることが分かります。

ただ、「仏教」と聞くと、「宗教」というイメージがつきまといますよね。

そのために「なんだか怪しそう…」と避けてしまっている方もいらっしゃるのでは?と感じます。
(実は私も、以前はそう思っていました^^;)

そこで今日は、あなたにも仏教の考え方を活かして頂けるよう、「仏教は実は、心理学にすごく近い、実用的なものなんだ」というお話をしたいと思います。


仏教に、神様はいない

一般的に、宗教って「神様にお祈りすれば、いいことがある(天国に行ける、など)」というイメージがありますよね。

例えば、イスラム教にも「アッラー」という神様がいますし、キリスト教では、「イエス・キリスト=神の子」という位置づけです。

しかし、実は仏教には、神様はいないのです。

仏教のスタートは、ブッダ(仏陀)ですが、ブッダは人間です。
(ちなみに、ブッダは実在の人物です。1896年に発見されたアショーカ王碑文に、「お釈迦様(ブッダ)が生まれたこと」が明記されています。)

ブッダのもともとの名前は、ゴータマ・シッダールタ。
ネパール西南部の釈迦族(シャカ族)の国の王子でした。

美味しいものを食べ、きれいな女性に囲まれ、毎日がお祭り。
そんな贅沢三昧の暮らしを送っていたシッダールタですが、心はなぜか満たされない。

そんなある日、以下のような出来事がありました。

【四門出遊(しもんしゅつゆう)】

ある日シッダールタは、お城の東西南北4つの門から、出かけることになりました。

はじめに東の門から出てみると、腰が曲がってヨボヨボ歩いている、老人に出会いました。
生まれて初めて老人を見たシッダールタは、家来に「あれは何者か?」と尋ねました。

すると家来は、「あれは老人です。人間は誰でも、いつかは老いて、老人になるのです」と答えました。
シッダールタは、お城に戻り、考え込みます。

次に南の門から出てみると、道端に倒れている病人に出会いました。
家来に「あれは何者か?」と尋ねると、家来は「あれは病人です。人間は誰でも病にかかり、あのようになるのです」と答えました。

次に西の門から出てみると、お葬式をやっていました。
家来に「あれは何者か?」と尋ねると、家来は「あれは死人です。人間は誰でも、いつかは死ぬのです」と答えました。

シッダールタは、深く考え込みました。

『生ける者も最後は、老いて、病気になり、死んでいくのか。だとすれば、この贅沢三昧の毎日に、何の意味があるのか。私は何のために生まれたのか?本当の意味で幸せになるには、どうすればいいのか?』

思い悩んだシッダールタが、北の門から出てみると、出家した修行僧に出会いました。
とても質素な身なりでしたが、凛とした穏やかな表情をしている修行僧を見て、シッダールタはハッとされられました。

『人間は、いつかは老いて、病気になり、死ぬ。そうだと分かっていても、あの修行僧のように落ち着いて真っ直ぐ生きていける、穏やかな心を育むことが幸せにつながるのではないか?』と。

そう決意したシッダールタは、出家して修行僧となり、後に悟りを開いて、ブッダ(悟りを開いたもの、という意味)と呼ばれるようになりました。

四門出遊

シッダールタは、心の動きをひたすら観察しました。

  • 悩みは不安は、どのようにして生まれるのか?

  • なぜ、心穏やかな人と、そうではない人がいるのか?

  • いつも心穏やかに生きるには、どうすればいいのか?

そして、この「心の仕組み」を解き明かし(つまり、悟って)、その経験を多くの人に伝えたのです。

つまり、仏教というのは、『悩める人間(シッダールタ)が、苦しみ(生・老・病・死)の原因を探り、その解決までの道筋を体系化した心理学』なのです。

私も、仏教や禅を学べば学ぶほど、「仏教は心理学だ」という思いが強くなっています。
(さらに言えば、量子力学などの最新分野にも関連する、すごく科学的な面もあったりします。)

【南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)について】

仏教というと、「南無阿弥陀仏」という念仏をイメージされる方もいらっしゃると思います。

これは、直訳すると「阿弥陀さまにすべてお任せします。どうか極楽へ連れて行ってください」という意味なのですが、これだけ聞くと「なんだ、神様(阿弥陀さま)いるじゃん」と思いますよね。

しかし、この念仏は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人が、1200年頃に唱えたもので、本来の仏教には、神様はいないのです。

親鸞は、「仏教は、修行僧が悟りを開くためのものだが、一番救いを必要としているのは、貧しい一般市民たちだ。彼らは、修行をしている暇はなく、今日食べるものにも苦労している。そんな彼らに、仏教の尊さを伝えたい、苦しみから救いたい」と考えました。

だからこそ、「そうだ、南無阿弥陀仏という念仏を唱えるだけでOK!と伝えよう。本来の仏教はもっと深淵なるものだが、せめてその入り口に立ってもらえるように、そこだけ伝えよう」と考え、念仏を伝えたところ、大ヒット。

今でも知られる「南無阿弥陀仏」が広まった、ということなのです。

しかし、これは(言葉がアレかも知れず恐縮ですが)ある意味、「後づけ」のようなもの。

本来の仏教は、念仏をベースにしたものではなく、あくまで心を探求し続けた「心理学」なのです。

※この解説は、ポイントだけ分かりやすく伝えるために、かなり端折っておりますこと、ご理解頂ければ幸いです。

西洋哲学と東洋哲学の違い

ちなみに、仏教はざっくり言うと「東洋哲学」に分類されます。
それと対比するのが「西洋哲学」ですが、この2つの違いを簡単に解説します。

解決策が、まったく違う

西洋と東洋では、何か問題が起こったときにも、その解決策(アプローチ)はまるで違います。
分かりやすいように、「薬」を例に解説します。

西洋では、病気になると、「薬」が処方されます。
病気をターゲットにし、その病気に打ち勝つために薬を使う、というイメージです。

一方、東洋では、病気になると、「漢方」が処方されます。
漢方は、「病を持つ人」の自然治癒力を高めて病気を治す、という考え方をします。

つまり、西洋は「外にあるもの」を対象にし、東洋は「内にあるもの」を対象にしている、という違いがあるのです。

西洋哲学

西洋哲学は、「外にあるもの」を研究対象にしています。
例えば、以下のような感じです。

  • 善とは何か?悪とは何か?

  • 世界の根源は、どうなっているのか?

  • 絶対に正しい真理は何なのか?

対象を外に向けているので、「科学」や「マーケティング」みたいな考え方にも繋がります。

東洋哲学

東洋哲学は、「内にあるもの」を研究対象にしています。
例えば、以下のような感じです。

自分とは?
悩みの原因は?
この胸のモヤモヤの正体は?

対象を内に向けているので、「心理学」に非常に近い考え方をします。

このように、西洋哲学と東洋哲学は、興味の対象がまるで逆方向なのです。

なんとなく、「西洋哲学=科学的」「東洋哲学=神秘的(ちょっと怪しい笑)」みたいなイメージがありますが、もともとは「興味の対象の違い」でしかない、ということです。

どちらが良い悪い、ではなく、方向性が違うだけです。

こういう意味では、仏教は、『自分の内への興味をひたすら追い求めていった、究極の心理学』とも言えるかもしれません。

【(例)アンチエイジング】

美容の世界では、「アンチエイジング」という考え方がありますよね。

これは「西洋」的な考え方です。
「アンチ=抵抗する」なわけですから、「老化に打ち勝とう!」とするわけです。

しかし、最近のアンチエイジング業界は、変わってきています。
ある意味、「アンチ・アンチエイジング」になってきているのです。

雑誌「アルーア」の編集長のミシェル・リー氏は、誌面で「アンチエイジング」という言葉を使うのをやめました。
そして、「シワも含めて、自分らしい肌になっていくことを称える」という決意を示したのです。

老化に「打ち勝つ」のではなく、「受け入れる」。
シワなどを問題視するのではなく、それすらも自分らしさという誇りにしていく。

これは非常に「東洋」的な考え方です。

「一の矢」と「二の矢」

冒頭でもお話した通り、私は、仏教(禅)の考え方のおかげで、仕事もうまくいっています。

では、どういうふうに役に立っているのか?という一例をご紹介します。

仏教には、「一の矢」「二の矢」という考え方があります。

  • 一の矢:自分に起こる出来事(例:仕事でミスをした、など)

  • 二の矢:一の矢に対する、自分の反応(例:自分はなんてダメなやつなんだ、お客様にもきっと怒られるぞ、最悪クビにされるかもしれない…など)

これについてブッダは、以下のように話しています。

第一の矢は受けるが、第二の矢は受けない。

ブッダ

実際に起っているのは、「一の矢」の出来事だけです。

しかし人間は、ここに「二の矢」という、無駄な意味付けをしてしまうのです。
これが、悩みや苦しみの原因です。

悩みや苦しみを生まないためには、この「二の矢」を自分に向かって射るのをやめればいいのです。
「あ、今自分は、自分に向かって二の矢を射ってるな」ということに気づきましょう。

そして、目の前の「一の矢」を解決することに集中する。

集中することで、余計な悩みや不安にとらわれずにすみ、結果、スムーズに問題も解決するのです。

誰にでも、問題(課題)は起こります。
悟ったからといって、問題(課題)がゼロになるわけではないのです。

でも、それに対する反応が、まったく違う。

二の矢を射ってしまう人は、どんどん悩みの沼にハマっていきます。
二の矢に気づき、射るのをやめた人は、今に集中し、心穏やかでいられます。

ちなみに、幸福論で有名なアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ)は、以下のように話しています。

過去と未来が存在するのは、人がそれについて考えている時だけである。
つまり、両方とも印象であり、実態がない。

それなのに私たちは、過去に対する後悔と、未来に対する不安を、わざわざ作り出している。

アランの幸福論

私も今でも、「あ、今、二の矢を射っちゃったな~」ということが多々あります。

心のトレーニングは、筋トレと同じ。
毎日少しずつ上達していく。そう感じます。

【結果自然成】

禅語に「結果自然成(けっかじねんなり)」というものがあります。
『結果を気にすることなかれ。今に集中していれば、結果は自然に出る』という意味ですが、これも、一の矢・二の矢の考え方に通じますね。

二の矢が、不幸を引き寄せてしまう(量子力学的に解説)

ちなみに、仏教は、量子力学にも通じるものがあります。
つまり、仏教は最近になって、すごく科学的である!ということが証明され始めたのです。

量子力学と言っても、難しいものではありません。

一言で言えば「引き寄せ」です。(あれ、なんだか怪しくなってきた?笑)

「引き寄せ」だと怪しく感じてしまう人は、物理現象の「共振(共鳴)」だと思ってください。

どういうことか?分かりやすく説明しますね。

物質は、すべてが振動しており、それぞれに周波数があります。

そして実は、「喜び」や「不安」のような感情や意識にも、周波数があるのです。

これは、脳波測定でわかったことです。
脳波測定というと、一般的には、下図の左のようなもの(接触型)をイメージするかと思いますが、右のようなもの(非接触型)もあるのです。

非接触型でも脳の意識状態が分かる、ということは、つまり、「感情や思考にも周波数があり、それを測定している」ということになりなすよね。

そして、同じ周波数のものは引き寄せ合う(共振・共鳴)する、という性質があります。

以下のような言葉もあるように、「似た者同士が集まってくる」のです。

  • 類は友を呼ぶ

  • 朱に交われば赤くなる

  • 笑う門には福来る

上記は、プラス面での引き寄せですが、逆もまたしかり。
以下のようなマイナス面の引き寄せもあります。

  • 泣きっ面に蜂

  • 弱り目に祟り目

  • 一難去ってまた一難

つまり、あなたが「喜び」の周波数でいれば、喜べる出来事が。
逆に、あなたが「不安」の周波数でいれば、不安な出来事が起こる、ということです。

このことからも、二の矢がすごく影響していることが分かります。

一の矢だけで終わらせればいいものを、勝手に意味づけしたり価値評価したりして二の矢を射って、不安になる。

この不安な気持ちが、不幸を引き寄せてしまう、ということです。

このことからも、二の矢を射ることなく、一の矢(今ここ)に集中することが大事なんだということが分かりますね。

私が、二の矢を手放して、売上アップできた話

「売上アップ」という問題(課題)について、考えてみましょう。

以前の私は、「売上アップ」に執着していました。
そして勝手に、以下のような二の矢を、自分に向かって射っていました。

  • このまま売上が上がらなかったら、ヤバいぞ

  • 会社が潰れるぞ

  • 愛する妻や子供たちに迷惑をかけるぞ

  • あぁ、お前はなんてダメなんだ

表面的には、売上アップに向かって邁進している、「頑張る社長」。
でも、心の中は、焦りと不安でいっぱいでした。

当然、そんな時に思いつく改善策は、上手くいくはずもなく。
行動も、焦りや不安をベースにしているので、空回り。

頑張っても頑張っても売上があがらない時期が続きました。

そんな時、仏教の考え方に出会えました。

  • 「あ、自分は勝手に、二の矢を射っていただけなんだ」

  • 「自分の苦しみは、ある意味、自作自演だったんだ」

  • 「自分は、"今ここ"でできることに集中すれば良いんだ」

単純ですが、このことにやっと気づけました。

状況は、まったく同じ(まだ、売上は上がってない笑)。
でも、それに対する感じ方や心も持ちようが、180度変わりました。

物事の捉え方ひとつで、こんなにも心が違うのか、と。

そして、今に集中した結果、自分の得意(好き)に気づけました。
その得意(好き)を活かした結果、努力しているつもりはないのに、売上も満足いくものとなったのです。

なお、この「自分の得意(好き)の見つけ方」については、以下のnoteで解説していますので、ぜひ合わせてお読みください。

そんな変化を起こしてくれた仏教への感謝という意味でも、私は、仏教の考え方を仕事に活かす方法を伝えていきたい。

昔の私のように、売上や集客で悩み苦しんでいる人に、そこから抜け出す道をお伝えしたい。
このnoteも、そんな想いで書かせて頂きました。

仏教を、3行でまとめてみた

いかがでしたでしょうか。
仏教について、もっともっとお伝えしたいことはたくさんあるのですが、まとまりがなくなって逆に分かりづらくなってしまうので…

以下、すごくざっくりですが、まとめてみました。

(1)不安も悩みも、心が勝手に作り出した妄想(二の矢)に過ぎませんよ。

(2)人が生きられるのは、「今ここ」しかありませんよ。過去は過ぎ去り、未来は未だ来ないのですから。

(3)「今ここ」に集中しましょう。目の前に心を注ぎましょう。そうすれば、問題にも落ち着いて対応できるし、幸せもより色濃く感じられますよ。

仏教(禅)を学んでいると、『人生は、"今"の積み重ねでしかない』ことに気付かされます。

今この瞬間に集中し、色濃く生きることが、人生全体をカラフルにしていく。
逆に、心ここにあらずでいると、今が灰色になり、人生全体も灰色になってしまう。

例えば、ご飯を食べるときにも、味・食感・香り・音などに集中して味わう。食べること、作ってくれた人、全てに感謝する。
すると、食事の時間がとても豊かになりますよね。

逆に、スマホを見ながら食べると、いくら高級なものでも、味も何も覚えていない。
(栄養学でも、スマホを見ながら食事すると、脳が混乱して、消化が悪くなると言われています)

私も日々、「今」の大切さを実感している、いまだ修行僧です。
いつか悟れる日が来るよう、修行の日々です。

このnoteを読んで、あなたが「仏教って面白そう」「仕事や人生に活かせそうだな」と思って頂けたら、とても嬉しいです^^


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