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義時のラブレター。姫の前に一年以上手紙を送り続けた不屈の男【史料で見る鎌倉殿の13人】

今回は小ネタです。

中世の武士の例にもれず、義時も複数の妻がいたとされています。

そんな義時妻の話を取り上げようと思います。

取り上げるのは、義時が比企藤内朝宗息女に一年以上手紙を送っていたという話です。

有名な話なんですけど、吾妻鏡がなぜこんな話を載せたのか、よくわからないです。

なんでこれ載せたんでしょうね。

吾妻鏡は義時めちゃくちゃ上げる話があるかと思えば、脈絡もなく唐突に名前がでてきて、それいる? みたいな話もあって、よくわかりません。

建武式目などで名前が出てくるのを見るとよくわかるのですが、義時は、後世において「武家政権の創始者」の一人として認識されています。

そのため、吾妻鏡でも義時あげあげな話だけでよいと思うんですけど、なぜか手紙を送りまくったエピソードが載っていたりするのです。

今回は義時の手紙について、史料を見ていこうと思います。

詳細不明な泰時母

と、その前に、詳細がわからない泰時母について少しだけ。

比企朝宗娘の前にも、義時には妻がいたことがわかっています。それは泰時の母でして、彼が生まれている、かつ、比企朝宗娘と結婚する前なので、別人だとわかるということです。

鎌倉殿の13人では八重をすごくフィーチャーしてまして、この泰時母を八重として話を進めています。

北条義時を引き立たせるため、泰時母を八重というフィクションにすることで、良い役者さんを当てるというのはとても面白い演出でした。

八重については文献上では直接泰時母になる記述はないのですが、最誓寺(さいせいじ)の伝承などでは義時と八重が夫婦という話になっているようです。

一応、延慶本・平家物語や源平盛衰記に、伊藤祐親娘が頼朝との仲を引き裂かれた後「江間小次郎」、曽我物語では「江間小四郎」が娶ったという記載があります。

通説ではこの江間小四郎は義時ではなく別人とされているのですが、八重イコール泰時母説を唱える研究者の方もいるようでして、鎌倉殿の13人ではその説を採用したんでしょうね。

曽我物語の記述は紛らわしくて、北の方をめとった「江間小四郎」を討ち取り、その跡を北条時政が賜ったので、江間小四郎とも申した、みたいに書いてあるんですけど、それをどう解釈するかで話が変わるのかなと。

さても佐殿、北の御方とり奉りし江間小四郎も打たれけり。その跡を北条四郎時政に賜はる。さてこそ江間の小四郎とも申しけれ。

曽我物語

これ、そのまま読むと意味が分からないのですが、文章の中で「義時」を補って、「討ち取った江間小四郎の領地を北条時政が賜った。そのようなしだいで(義時は)江間小四郎とも申した」という意味になるのかなと。

筆者はそう読んだのですが、うーん、とらえ方によってかわってしまいそうな文ですね~。

この辺の話は真実はよくわからないよ、いろんな説があるよ、ぐらいでいいと思います。伝承などは、誰かがそうだといいなと思った願望が、そのまま歴史になったりするので難しいです。

新しい史料が見つかると良いですね~。

次は記録に残っている義時の妻についてとりあげます。

義時結婚の記録

この話は建久3年(1192)9月の話です。

1192年の7月12日に、頼朝は後鳥羽から征夷大将軍に任ぜられています。そのため、吾妻鏡では頼朝を将軍家としています。

建久3年9月25日に、幕府の官女が義時の館に入ったよという話です。

廿五日 甲午 幕府官女、〈号姫前〉今夜始渡于江間殿御亭。是比企藤内朝宗息女、当時権威無双之女房也。殊相叶御意、容顔太美麗〈云云〉。而江間殿、此一両年、以耽色之志、頻雖被消息、敢無容用之処、 将軍家、聞食之。不可致離別之旨、取起請文、可行向之由、被仰件女房之間、乞取其状之後、定嫁娶之儀〈云云〉

吾妻鏡 建久3年9月25日

実は相手にされていなかった義時

さて、義時はこの1年か2年、この女性に夢中になり、しきりに手紙を送るも、受け入れてもらえずにいたようです。

せつない。

頼朝がどうもそのことを耳に挟んだようでして、離縁しないという起請文を取って嫁に行きなさいと、くだんの女性に言ったそうです。

なんだか少し気恥ずかしいエピソードですね。

乞とあるので、女性自身も起請文を望んだんですかね。起請文を受け取ったのちに、結婚を決めたとあります。

手紙の件、一両年とあるので、結構な期間ですよね。しかも頻とあるのでかなりの回数ですよね。それでもダメだったということは、文中の起請文のことを考えると、離縁を恐れていたということなんですかね。

結局比企の乱の影響か、乱の直後に離縁しているんですよね。そういう未来予知的な書き方を吾妻鏡はするので、何か意図があるのかなと邪推してます。

比企藤内朝宗息女(姫の前)

義時の正妻は、この比企藤内朝宗息女とされています。

吾妻鏡では、この官女は比企朝宗の娘で、頼朝のお気に入りで、権威無双の女房なり、なんて書かれています。

美人だったと書かれていますが、主要な人とくっつく女性はだいたい美人だったと吾妻鏡には書いてあります。

この人は建久4年(1193)に北条朝時を、建久9年(1198)には北条重時を生みます。

朝時は名越流北条氏の祖になります。

いろんな経緯から朝時が義時の嫡流だったのではとされていますが、比企氏の没落、さらに朝時が実朝の怒りにふれ、義時に義絶されたりして、最終的には泰時が嫡流となり、その後も名越流は長年微妙な感じになるという、なんともめんどくさい話になってしまうのですが、それはもう少し先の話になります。

重時母も比企朝宗娘とされています。重時は朝時と違って、連署にもなり、重時からはじまる極楽寺流北条氏は高い家格だったようです。

さて、その後の経緯を少し追ってみます。

比企朝宗娘が義時と結婚してから11年後、建仁3年(1203)9月2日に比企能員の変が起こり、比企氏はほぼ滅亡してしまいます。そういった関係なのか、この後に義時は比企朝宗娘と離縁しているようです。

また、元久2年(1205)6月22日には、吾妻鏡に義時の後妻である伊賀の方が北条政村を生んだ記事が載っています。ちなみにこの日は畠山重忠が討ち取られる日で、非常に長い畠山重忠の話の後、最後の最後につけたしのように入っています。

今日未尅、相州室〈伊賀守朝光女〉男子平産〈左京兆進也〉

吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条抜粋

その後、比企朝宗娘の件は吾妻鏡では出てきませんが、後日談が明月記でわかります。

京都の村上源氏の源具親の妻になっていたようなのです。

明月記 嘉禄2年(1226年)11月5日条に、除目の記事があるのですが、そのなかで源輔通が関東からの推薦で侍従に任命されています。輔通を説明する割書きのなかに、輔通は具親の子で朝時の同母弟とあります。輔通は朝時と母が同じということで、比企藤内朝宗息女が源具親と再婚していることがわかるわけですね。

除目、侍従源資道、〈具親朝臣子、朝時同母弟、関東挙状、申相刻云々、〉

明月記 嘉禄2年(1226年)11月5日条

尊卑分脈では輔通母が平重時女とされていますが、年齢が全然合わないので、尊卑分脈は間違いですかね。

その後、北条義時の娘が村上源氏に結構嫁いでまして、比企朝宗娘つながりで、何かコネクションがあったのかもしれないですね。

明月記には承元元年(1207)3月30日条には、源具親の妻が昨日亡くなったと記されているため、嫁いで数年で亡くなったと考えられています。

昨日具親少将妻遂亡逝云々、

明月記 承元元年(1207)3月30日条抜粋

おわりに

吾妻鏡は北条氏の正統を義時として、その正当性をアピールしてくるのですが、義時に関しては、なぜかこういう恥ずかしエピソードも入ってきます。

離縁しないという起請文を義時が書く件、必要ですかね? 将来比企氏の乱のせいで離縁するのに、なぜこの話を採録したのかと思ったのですが、将来離縁するからこそ、なんですかね。

筆者が義時を上げる意図で史書を編纂するならば、一年以上の部分と起請文の件は省略しますけどね。なので、何かあるのかなと邪推したくなります。

吾妻鏡の編纂者の中に、義時を上げたい人とディスりたい人が混ざってるんですかね。

もしくは頼朝のお気に入りを義時が取った話を載せたかったとか、執筆者周りに朝時から続く名越流北条氏がいて、実は朝時の頼朝ご落胤説を示したかったとか…、そんなことを書くともう妄想でしかないですね。頼朝ご落胤説はいろんな人にあるので触れると藪蛇感があります。

もしくは重時関連ですかね。

正直よくわかりません。源平合戦から北条氏の話は裏が取りづらいものが多いので難しいです。

この話は、姫の前の悲運の話としてよく紹介されている有名なものですが、話の詳細が本当なのかどうかは判別がつきません。

ただ、なぜかはわかりませんが、わざわざ吾妻鏡編纂者がこんな恥ずかしエピソードを採録してくれたわけでして、そのおかげで義時は、脈が無くてもあきらめずに手紙を送り続けた男として、歴史に名を残してしまったのでした。

これもまた、誰かがそうあってほしいと願った歴史の一つだったんでしょうかね。



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