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映画「月」

※若干ネタバレあり
(noteのつぶやきに分量が収まらないのでこちらに)

 石井裕也「月」について、基本的には三田格氏のレビューに頷くところが多い。

 まあ、これをざっと読んだから見に行ったようなものだからだ、と言われたらそれまでなのだが…それにしても今自分はこれを見なければならないのではないかというカンが働いたのだった。結果、世の中がいっそうイヤになるようなしんどい映画だったのだが勿論作品がつまらないというしんどさでは全くなく、たまたまなのか、脚本と俳優陣の力なのか或いはその全てなのかもしれないが、登場人物たちの抱えるキツさがディティールの具体性故か全て序盤から自分のものとして体に落ちはじめ、かつそれがじわじわと時にどぎつく約2時間半まとわりつく体験は中々なく、巷に溢れるいわゆる「生きづらさ」を描く系作品群(と雑に言ってしまっておく)とはその質と執拗さ・射程が段違いであり、相模原障害者施設殺傷事件を扱うということはそういうことだ、と思う。

 ただ正直、露悪的と感じられてもおかしくはない演出、描写、展開のある種わかりやすさすらあるエンターテイニング具合には乗れなかった部分も多分にあり…まあ、趣味的問題もあるのだろうけど。といったところでそれもまた、わかりやすく人に見せることを意識した戦略であることがインタビューで触れられておりなるほど…とも思うのだが、それもあくまでも健常者視点のものではあるとも感じたり。

 前述のレビューにもある通り、休業中の小説家の堂島洋子(宮沢りえ)とバイトをしながらストップモーションアニメをコツコツ作っている実質フリーターの夫の昌平(オダギリジョー)という、本作のほぼ主人公であり軸である夫婦は、夫婦仲自体は悪くないがそれぞれの仕事があまりうまくいっているように描かれていない=それだけで生計を立てられていないパートタイム・アーティストとして描かれており、障害を負った子どもを亡くしているという過去とのつながりはあれど、堂島洋子が生計を立てるために非正規雇用の形で障害者施設で働くということを通して、相模原の事件とパートタイム・アーティストの夫婦がフィクションとして結び付けられる形になっている。そこから感じられるのは定職にもつかずいつまでもぷらぷらして好きなことをやって夢を追いかけている(と、見られがちである、特に自称)アーティストと障害者が、「社会の役に立たない」「生産性がない」と不当に不要扱いされてしまうことにおいて等しいのではないかとという慄きにも似た視点であり、その思いや意図が作り手側にあったこともいくつかのインタビューからは強く感じられた。その点でもこれはコロナ禍で不要不急とされたアーティスト側の心理に寄り添い、あくまでその側から見た相模原障害者施設殺傷事件を描こうとしたドラマであるのかもしれない。だがそれは堂島洋子が東日本大震災を題材にした小説を書いたことを坪内陽子(二階堂ふみ)に擦られたように(これについてはどうしても北条裕子「美しい顔」を巡る問題が思い出されるし、作り手側の頭の隅にもあったのではないかと邪推する)、(特に自称)アーティスト自身がアーティストは社会に必要な存在か、そもそも必要な存在とは何かということを相模原の事件を題材にしてー「ネタ」にして自問する危うさと隣り合わせの構造なのだが、「さとくん」(磯村勇斗)と堂島洋子の対峙のシーンのまさしく「さとくん」が堂島洋子の鏡となる一連のやりとりであったり、あのように終わらせるしかないだろう、と了解してしまう(ただ個人的には嫌いではない)ラストシーンの感触には、その危うさを自覚し対峙し踏み止まろうとする態度を感じたのも確かで、それは俳優の力でもあり、作り手側のぎりぎりの倫理のようなものも感じたのだった。ただ前述のレビュー同様、堂島洋子が新たに作品を書かない選択肢もあり得たし、夫の昌平が海外の小さなコンペで受賞しないルートー社会的に評価されないアーティストとしての生を生きるルートも(それこそが肯定されるべきだとは言わないまでも)あり得るのではないか、あんな奇跡はそうそう起きないだろう、とも。それは、僕はどうしてもあのタイミングで「コンペで受賞しない」側で生きている人種だという根拠のない自覚があるからだと言ってもいい。ただ、あの賞金5万円という額はリアルだと思った。

 話はずれる。見ている最中に小泉義之「病いの哲学」の下記のくだりを思い出していた。この作品にこのような視点が感じられることはない。あくまでこの社会を構築してきたマジョリティである健常者(のアーティスト側)の視点がある。ただ一方、それが劇中におけるリプロダクティブヘルス/ライツをめぐる夫婦間の描写を尺的にも丁寧に行えていることにつながっているといっていい。それには正直強く心を動かさざるを得なかった(そこには個人的な事情も大きいのだけど)。

障害者、とくに生来の障害者は、生体として捉えるなら、何も欠けるところはないし、何も余るところはない。欠如も過剰もない。一般に、受精卵が子宮・胎盤内で発生し分化を遂げるということは、極めて困難な過程である。(略)だから、この過酷な過程を凌いで生まれ出て来たすべてのものは、出来上がった完成したものとして、アリストテレスの用語では完全現実態として受け止めなければならない。(略)この意味で、生まれ来る障害者には何の欠陥もないのであり、そもそも障害者と呼称すること自体が間違えていることになる。障害はまさに社会的に構築された概念である。

 …とまあここまで色々書いたのも多分に個人的な立場や境遇に依るところが大きい。あと自分にとって、それについて何かを書きたいという衝動に駆られるのは好みかつツッコまれる隙のない完璧な作品よりも、好みから外れてはいても危うい綱渡りに挑んでいる破綻気味の作品なんだなとも改めて思った。とまれ、前述のレビューの通り「重要な問題提起」であることに疑いはなく総じて見ごたえあり、いやー宮沢りえやっぱすごいっすわ、となり、オダギリジョーは今後どんな役で出てきても応援してしまいそうになることうけあいではある。今のところは。

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