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絵本「だいじだいじどーこだ?」から思うこと。


たいじだいじどーこだ?

私が小学生の頃は、まだまだ保健の教科書にだって性教育についてさらっとしかなかったような気がする。
5年生の時、取ってつけたかのように、女子だけが教室に残されて、女性教師(担任は男性だった)が現れ生理の話をし、スポーツブラの斡旋販売があった。
たしか、それ以上でもそれ以下でもない。
私が受けた性教育は後にも先にもその一回だった。

18歳、進学のために家を出る私に母が言った一言が、私に「だいじだいじ」を強く意識させた。
「自分の行動には、自分で責任を取りなさい」
責任をとれないこと、つまりは自分を大切にできない行動はしないようにという教えだった。
42年立った今でも、その言葉の効き目は有効だ。

娘たちの時代になると、学校でもちゃんと性教育をしてくれ、改まって親がする必要もなくある意味ホッとしている。
ただ、性教育がちゃんとされているから安心ということではない。
心も体も全部ひっくるめた自分の「だいじだいじ」は、自分は愛されているんだ、自分は必要とされてるんだ、自分はここにいていいんだと思える事から生まれるんだと思う。

私は決して恵まれた家庭環境にはなかった。私が小1の時に、父は昼間は家業をし、夜は別な家へ帰る生活を始めた。「別な家」とはそういうことだ。そういうことぐらいは想像して欲しい。
その頃に、私は「両親」と言う単語を自分の辞書から消した。「父」と「母」は、それ以来「両親」とひとまとめになることはない。2人が亡くなった今でもそうだ。
ただし、「父」も「母」も十二分に私を愛してくれたから、私はだいじだいじを大切にできたのだと思う。
別居生活40年の2人が、今は同じ墓でこの先永遠に2人きりなのだから笑える話でもある。

今年、女の子の孫ができた。
母になった娘が嫁ぐ時にくれた手紙に
「ひとりの人間として育ててくれてありがとう」
と書かれていた。
きっと、「だいじだいじ」を孫娘にも伝えてくれるに違いない。

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