【短編小説】 僕らの生命線
あいつと出会ったのはいつだったか、思い出せないくらい前から一緒にいた。
20代も半ばを過ぎてくると、幼稚園の頃の記憶は殆ど消えてしまい、好きだった先生の名前なんかすっかり忘れてしまった。
好きな先生がいた、ということしか覚えていない。
曖昧なシルエットばかり頭に浮かんでくるだけで、どんな話をしたとか、どんな遊びが楽しかったとか、何も思い出せないのだ。
その範囲が徐々に小学生時代にまで進出し始めているのがわかる。
元に、僕はどうやってあいつと出会ったのか、ちっとも記憶にないのだ。
靄がかかっているという表現は適切ではない。初めからそんな出来事はなかったかのように、僕の目を塞ぐものはないのに、その先が見えない。見えたところで、その奥だか後ろだか、そこには何もないと本能的にわかる。
僕は、本当にあいつと出会ったのだろうか。
ニックネームは覚えている。クラスのお調子者、人気者だったあいつは「よーごー」と呼ばれていた。スターウォーズに出てくる緑の小さな友達と同じイントネーションだ。
マスターと呼ばれる人に向かって、”小さな友達”とは、失礼だろうか。
まるで暗黒面に落ちてしまった人間の呼び方である。
そう、あの頃の僕は、グレていた。目立った問題行動を起こしたことはないが、ふとした瞬間に映像が浮かぶのだ。
長々と続く説教じみた話を遮り、先生を黙らせて嘲笑している自分の姿。
力自慢の同級生を殴りつけて踏みつけて、勝ち誇った顔をしている自分。
現実では起こり得ない。
自分で言うのもなんだが、僕は優等生だ。
天地がひっくり返っても、そんな行動が許されることはない。
だのに、想像してしまう。
頭の中に一瞬でも芽生えてしまったイメージも、それらを示す言葉も、もし他人に伝える術があったなら、きっと卒倒する人が何人もいるだろう。
あいつに限っては、そんなことはないだろうが。
出会いこそ覚えていないが、あいつには決まった行動パターンがあった。
僕は優等生らしく、登校するなり教室のカーテンを開け、花瓶の水をかえ、椅子や机の整頓をしながら先生や他の生徒が来るのを待っている。
ふと窓の外を見ると、あいつが手を洗っていた。
校庭の隅にある水場。学校の水回りといえば、どうしてこんなにも繋げたのかというほど蛇口が連なっているものだが、なぜかそこはひとつしかない。
地面からニュッと生えた細い柱の先にひとつだけついた蛇口。
「あれは、公務員さん用だよ」と、誰が言い始めたのだか。
僕の記憶にある限り、先生からそのように指導されたことはないが、漠然と”大人が使うもの”として、生徒は誰も近づかなかった。
あいつは、それを使っていた。
それも毎朝。
せめてこっそり、誰にも見つからないように短時間ですませればいいものを5分近く勢いよく水を流して、ザバザバと石鹸もつけずに狂ったように手を洗う。
無害そうな顔をして、鼻歌まで聞こえてきそうな脱力した姿でいるのに、目だけが異様に殺気立っていた。
目を合わせてはいけない。
見てはいけないものだ。
学校の七不思議が実在するなら、あいつはそれに違いない。
読んでいた本の影響だろうか。妙に確信めいた思考に支配された。
早く目を逸らさなければ。
わかっているのに、僕の目はあいつに釘付けだった。
ただ手を洗っているだけのあいつの姿を、毎朝、3階の教室の窓から盗み見ることがいつしか日課になっていた。
クラスにいる時のあいつからは、異様な気配を感じない。
仮に、クラスメイトの前で「あいつは朝、」と話しても、皆嘘だと言って笑い飛ばすだろう。
どこまでも陽気なやつだ。
あいつのことを嫌いな人なんて、きっとこの学校にいない。
そんなあいつと僕が、一体どうすれば親しくなれたのか、いくら脳みそを突いてみても思い出せないし、想像すらできない。
住む世界が違いすぎる。
本来、交わることすらないはずなのだ。
だが、気がついたらあいつは僕の隣にいた。
覗きがバレたのか。あいつが一声上げれば、烏合の衆は一斉に僕を敵と認識しただろう。どのような仕打ちを受けるか容易に想像できたが、実際には真反対のことが起きた。
あいつが親し気に話しかけ、僕を丁寧に扱い始めてから周囲の人間たちの態度が目に見えて変わった。
ただの「良い子ちゃん」扱いだった教師たちも、僕の行動に目を向けて褒めてくれることが増えたし、クラスメイトは小さなことでも礼を述べるようになった。
今まで、僕がそれらのことをするのは当たり前だったから、誰も気に留めてはいなかったのだ。
良い変化として喜ぶ心が僕にあったなら、どれだけ幸せだっただろう。
僕の中には、より過激な”優等生らしくない想像”が増えるばかりだった。
成人した僕は知っている。
僕は想像を現実に反映させたことは一度もなかった。
今後もしないと、言い切ることはできない。
僕の中にそういう思考が、欲望があるのは事実だ。
進学先も就職先も、あいつとは全然違うところに選んだのに、僕たちは未だに手紙のやりとりをしている。
今時、いくらでも簡単に連絡をとる方法があるのに、わざわざ便箋を買ってきて手紙を認めるのだ。
あいつの文字を見ているのに。
あいつの言葉を知っているのに。
この手紙すらも、どこかから急にわいてきたもので、実在する人間が、ましてやあいつが書いたものだとなぜか思えない。
端末を使った文字のやりとりよりも、よほど人間味があるといえばいいのか、対象の存在を感じる手段だというのに、全ては僕の想像であいつなんて存在しないのではと思ってしまう瞬間が多々ある。
僕はあいつの姿を、もう10年以上、見ていないのだ。
浮かんでくるのは、校庭の隅で狂ったように手を洗っているあいつの姿だけ。
それは、こんなに落ち着いた文章を書ける人間に見えないし、まめに僕の体調を気にかけてくれる存在でもなければ、自信なさ気に社会に溶け込んでしまう有象無象でもない。
やりとりをしている相手が誰なのか、実際のところ僕は知らないのだ。
実はもうあいつは死んでいて家族が代筆をしていたと聞かされても、特に驚くこともなければ、悼みもしない、憤ったり傷ついたりすることもないだろう。
ただ、手紙を出すのはやめられない。
僕は、あいつとのつながりを無くしたくない。
今も昔も、あいつは僕が認識できる唯一の人間であり、僕を認識してくれていると信じられる唯一の人間なのだ。
あの日、校庭で手を洗っていたのは、本当にあいつだったろうか。
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