#236 年齢、気にし過ぎ。

 こんにちは、鏑木澪です。

 私は、ついつい著名人のプロフィール、

 この人のバックグラウンドはこうで
 何歳の時にこれをして
 何歳でこんな結果を出して
 今はこれをしている

 みたいなものを調べてしまう癖があります。

「早いか、遅いか」を気にしていると言っていいです。

 より早い人が偉い、格付けしてやろうとか、そんな気持ちではなくて「私は今からやって間に合うのか?(早いか遅いか)」「これを成し遂げた人は、いつまでに何をしていたのか。私は、まだ大丈夫なのか」が常に気になって仕方がありません。

 自分では、「目標設定の参考にする」くらいの感覚だったのだけど、少し前に母と会話していた時に、「(西暦)〇〇年までは、このポジションにいる人は〇年くらい前にデビューした新人で〇〇歳前後の人が多かったのに、最近はデビュー〇年以降、〇〇歳くらいの人が増えてる」みたいなことを言ったら、

 母「澪って、本当に歳気にするよね

 ピシャリと言われて、なんだか、こう、ショックでした。
 自分が、嫌な感じで歳を気にしていることに気がついたからです。

 私は、今(2023年現在)言われている平均寿命の26%くらいが終わっている人間です。

 平均くらい生きられるのなら、まだ残されている時間のほうが長そうなので、「若い」と言ってもいいのかなと思うのだけど、ひたすらに、

 遅れている
(同世代に置いていかれている)

 そう思って生きてきました。

 こう思うようになったきっかけは、今にして思えば大したことではないのだけど、学校で同級生の会話についていけなかったことがきっかけだったと思います。

 ゲーム、漫画、雑誌、アニメ、小説、etc.

 何をとっても、当時、流行っていたものに触れられなかった。
 だから、みんなの話していることがわからない。

 コミュニケーション能力の高い子だったら、友達に「貸して」とか、「教えて」とか言って、問題なく暮らせたのかもしれないけれど、それをするにしても毎回やっていると、

「話の通じないやつと遊ぶのダルい」

 そう思われて当然だと思うし、毎回「私はそれを知らないんだ」と伝えることが、”恥ずかしい”と私は思ってしまっていたし、相手に説明してもらう工程を挟むこと自体、”めんどくさい””申し訳ない”と感じるようになっていきました。

 自然と、ひとりでいる時間が増えました。

 中学までは、こんな私でも相手をしてくれる友達いて、その子たちから教えてもらったことが沢山あったし、今、私がしている活動も、きっかけはその子たちにもらったなと思っていて、当時も今も感謝しています。
(もう何年も殆ど連絡を取れていないけれど、また話せたらいいなと思っている)

 しかし、やはり”知らないからついていけない話題”が多いせいで、疎外感のような、別に嫌われているわけではないのはわかっていたのだけど、どうにも、除け者になるしかない状況があって、寂しかったです。

 大学生になり、アルバイトを始めて自分で自由に使えるお金ができたり、徐々に年齢的な制限が外れていったりして、誰かの支援や許可なしできることが増えたから、「昔できなかったことをしよう」と思い、調べて、道具を買って挑戦したり、作品を観たりしている時に、いつも思うのは、

 みんなは、あの歳でこれに触れられたんだな
(あれからもう何年も十数年も経ったのに、私はようやくここか)

 何事にも文脈があるから、「今の会話」を理解するためにも、結局、「以前の情報」が必要で、わからないとまた置いていかれてしまうから、どう足掻いても子供の頃にできてしまった隙間が埋まらない。

 歳が離れた人との会話で通じないことがあっても、「世代じゃないもんね」で済むことが、歳が近いと「知っていて当然のことなのに、なんで知らないの?」と責められているように感じる。

 ちょっと、想像してみてほしいのだけど、

 全く言葉が通じない、文化も習慣も何もかも違う国にいきなり放り出されたのに、「なぜ、その国で生まれ育った人のように振る舞えないのか?」と囃し立てられ、自分自身、そこにいる人たちとあまりにも違う人間だと日々感じながら暮らすのって、

 わりと、しんどくないかな?

 まぁ、そんなふうに思わなければいいと言ってしまえばそれまでなのだけど、そう感じてしまうから、どうしたらいいのだ、と。

 言語の壁を感じたことがある人には、比較的伝わりやすいんじゃないかと想像します。
(私が感じた中ではこれが一番近い感覚だった)

 例えば、英語を学習したら、とりあえず英語圏の人とはある程度会話できるようになるのだけど、「ネイティブと全く同じ感覚で英語を理解する」ことは、英語非母語話者には、おそらく不可能です。

 学習開始時期が遅いほど、そうなると私は思います。

 成熟期を過ぎると母語話者並の言語運用能力獲得は見込めないなどとよく言われますが、理由のひとつに「発音が聞き取れなくなるから」が挙げられています。

 どれだけ努力しようが、「聞き取れない(聞き分けられない)」音は、自分で発音することができません。

 こうなってしまっては、どうしようもありません。

 遅過ぎた、ってことですね。

 別にね、母語話者並に発音できなくても、多少文法が間違っていて語彙が少なくても、会話はできます。

 しかし、この状態だと常に不安に付き纏われている感じがするのですよ、私の場合。

「相手の言っていること、私はちゃんと理解できてるかな?」
「私の言いたいことは、相手にちゃんと伝わっているかな?」

 しかも、これが日本語だったら「言葉の壁があるから仕方がないよね」とはならない。


 目に見える壁がないから、言い訳ができないんだよ。

 せめて、言い訳させてほしい。

 助けて。


 私はこんな人間なので、著名人の経歴を見て逆算して「私、まだ間に合うかもしれない」と思うものを見つけると安心します。

 しかしまぁ、滅多にそんなものはありませんね。←

 やっぱり、若さには価値があるというのか、失われていくものだと日々感じるようになってきて(身体の不調とか←)、「これからどんどん悪くなっていくだけなんだ」と思ってしまうから、どうしても焦ります。


 悪くなるのを遅らせることはできても、良くなることは、たぶんないからな。


 なんだろう、「学生の頃、ちゃんと勉強しておけば良かった」「何か(部活など)を必死でやっておけば良かった」と話す人がいるたびに私が思うのは、

 遊んでた人のほうが余程、今も昔も幸せそうですけど……?

 隣の芝生が青いだけなのかな。

 自分基準ではあるけれど、少なくとも”目の前にある楽しそうなこと”を取り上げられて、”やるべきだと思ったこと”を一生懸命やってきたのに、全部無駄になったから「それなら、楽しいことだけやってればよかったじゃん?」みたいな。

 あぁ、伝わらないんだろうな、、、

「自分で選んで、好き好んでやった挙句、結果も出てたのに満足できずに勝手にやめたのはお前だろ」って散々言われてきたんだ。

 その通りだと思う。

 もう無理だと思ったから逃げたのに、逃げ場がなくなってたの。笑

 最近さ、あのブラック企業であのまま働いて死んだほうが、まだ幸せだったんじゃないかって、思っちゃうんだな。


 だって、世の中にこんなに楽しいことがあるって知らなかったもん。


 あぁ゛、こういうこと考えるのやめようって思ってるのに、やめられないんだわ。

 これから後、何年? 何十年?

 生きていかなきゃいけないの、憂鬱過ぎるよ。

 まぁ、ほっときゃ、勝手に終わるんだから、ただ待ってりゃいいんだけども、ただ生きてるだけでお金かかるし、他人に迷惑かけるし、ねぇ?


 本当に、生きてて良いことってあるのか。

 ないなら、あるようにするしかないか。


 なんでだろう、このところ、すごく鬱な感じの記事しか書けない。
(鬱っぽい記事の比率が高くなってしまうじゃないか!←)

 いやぁ、これでも「ダメだ。鬱すぎる」と思ってボツにしている記事もわりとあるから、「もういいや。このまま出しちゃえ。(こういう文章を書いている人間が嫌いな人は、これを読んで去ってくれ。さらば!)」と思って投稿する頻度は、できるだけ下げているつもりなのだけど、

 ダメだなぁ。。。

 いつも、付き合ってくださっている方、ありがとうございます。

 いつまでもヘラっているとね、流石にいくら寛容な人でも「もう、この人見てられないわ」と思うだろうから、そろそろ立ち直れるように頑張ります。

 んー、そもそも、気分が落ち込んでいる原因がわからない。←

 たぶん、新曲はできているのに絵が描けないせいで曲が投稿できないから?
(そんなことで、いちいち落ち込まないでくれ←)

 他にも、色々とうまくいっていないことはあるのだけど、別に落ち込むほどのことじゃないし、ちゃんと私が動けば解決することだから、やればいいのはわかっています。

 やればいいんだわ。

 頑張ります!

 ではでは〜


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