#277 ないものねだり

 こんにちは、鏑木澪です。

 私は、自分にないものほど欲しがると言いますか、自分が何も持っていないような気がしているので、自分が想像できる範囲の「こうであったらいいのに」と思うものを持っている人がいると、どうしても羨ましいなと感じてしまうことがあります。

 その人が、どれだけ努力してそれを手に入れていようが、生まれた時から持っていようが、「どうして私にはないのかな……」と思ってしまうわけです。

 自分ひとりの努力で手に入る可能性が高いものについては、自分さえ頑張ればいいと思っているし、手に入れられないなら、それはやるべきことをやっていない自分が悪いだけの話だと思っています。

 人のせいにするのはお門違い。

 自分がやればよい。

 他人に何かを期待して、任せてしまうと自分がコントロールできないことが増えていくから、それで結果が良かったとしても、悪かったとしても、私は納得できないことが、これまでの人生で多かったので、”ひとりで”できることをやろうと、ここ数年もがいています。

 その頃(昔)は、積極的に創作活動をしていなかったので、学校の部活動や仕事の話なのですが、他人を頼ると良いことが何ひとつありませんでした、私は。

 自分の判断で、勝手に期待して相手に任せたことならいざ知らず、何かの圧力で本来なら私ひとりでできることを他人と分担した時、良い結果になった記憶がありません。

 記憶にないだけで良いこともあったのかもしれないけれど、どうしても「良くないことが起きた」印象が強いので、それを押しのけても「私以外の誰かの力が欲しい」と感じる出来事がないと、自分の創作活動において本格的に人を頼ることはないかなと思っています。

 誰かからお誘いをいただいて、私に何か役に立てることがあれば、参加するのはやぶさかではありませんが。


 自分から人を誘えるようになるまでの道のりは、だいぶ険しそうです。


 以前から、「いずれは誰かと作りたいけれど、ひとまずひとりで頑張る」という話は繰り返ししています。

 このところ、私が目にするものに面白い傾向がありました。

 私は、正直、複数の人(多過ぎない人数)が集まって、何かひとつのものを作り上げている状況に憧れがあります。

 ものすごく、憧れています。

 普段、「私は全部ひとりでやりたい!」と話しているのが嘘だったわけではなくて、それとは別のやりたいことです。

 矛盾しているかもしれませんが。

 憧れているから、既にそれをやっている人たちがどういうことをしているのか、特に、自分の好きな活動者が共作をした時の話を聞く機会があれば、積極的に聞くようにしています。

 たまたまなのだろうけど、最近、私が聞いた共作をしている活動者さんたちのお話(公開されたのは全然直近でないものも含まれている)では、

「人に依頼しているけれど、本当は全部ひとりでやりたい」
「いつか、全部ひとりでやった作品を出したい」

 そう話している人が、意外と多かったです。
 驚きました。

 あ、誤解のないように補足すると、この人たちは決して人に頼むのが嫌なわけではありません。

 現在の自分では全てをひとりでやるには能力不足である、とか
 人に頼むことで自分にはなかった要素が加わり作品がより良くなる、とか

 人によって理由は異なるけれど、役割分担することで良い効果が生まれるから、嬉しいこと、喜ばしいこととして、ポジティブに共作を捉えているのだけど、その上で、

 ”ひとりで全部やるのが夢”

 そう語る人を立て続けに見たので、驚きました。

 これまでは、「やっぱり人とやるといいですよ!(ひとりじゃできないことができるから)」と話している人を見る機会が多かったから、個人的に結構衝撃です。

 私と違って、その分野の専門家の仕事を近くで見てきた人たちだと思うから、「ひとりで全部やりたい」のレベルが、私が今やっているようなものではないことは承知しているのだけど、

 ひとりでやるなら、自分がやるだけだから
 いつでもできそうなのに、”夢”なんだ

 なんとも、偉そうな話ですが、そういう意味での驚きもありました。

 その人たちから言わせると、「能力のある人に任せるほうが楽・簡単だから、すぐにできる(もちろん人は選ぶし、選ぶのは大変だけれど、肩の荷が降りるし、決まれば早い)」という話のようです。笑
(コミュ障にはわからないよ、その感覚←)


 入り口が違うだけで、向かっているところは同じなのかな、と個人的に思いました。

 ……なんだか、面白くないですか?


 私のなかで、人を”頼る”ことはある種の”甘え”だと感じるところがあって、自分が安心できる線引きができないと嫌なのも、人に任せることが苦手な理由のひとつと思われます。

 自分の能力不足を

 他人に補わせたことを嫌だと感じるパターンが甘え
 他人に助けてもらって嬉しい・有難いと感じるのが信頼

 そういうことなのかなと、今の私は思っています。

 他人に迷惑をかけて”甘えだ”と感じることが原因で人を頼れないことについては、自分に何か自信を持てるスキルができれば、ある程度緩和されるのではないかと希望的観測をしています。

 一方で、相手を”信頼”できずに何かを任せることができないのは、自分の根深いところに原因があるので、なかなか解決が難しそうです。

 発端が部活の顧問や仕事の上司からの命令でも、自分が信用していない相手に「信頼して任せろ」といわれて、どうにか相手と協力しようと私は、私なりに頑張ったのに、なぜか最終的に私だけが責任を押し付けられることが多かったから、

 それなら、最初から全部ひとりでやったほうが
 よほど楽じゃないか

 無駄な時間と労力を消費しないで済むし

 私も誰にも迷惑かけないし

 まぁ、それで学生時代、人に仕事を振れなくなって、立場上、複数部署の業務を掛け持ち、連日徹夜で食事も睡眠もとらず、どこかでぶっ倒れて授業に出られないような仕事の仕方してたので(仕事はちゃんと期日までに仕上げてた。単位も落としてない)、誰にも迷惑をかけていないとは言い切れないし、良いやり方だとは思わないのだけど、
(目を覚まして、授業が終わっていることに気がついた時の絶望よね。当然、誰も私が倒れていることなんか知らないから助けは来なかったけど←なんのための寮暮らし)

 やはり、助けを期待するより自分で安全運転できたほうがいい。

 どのやり方でも、やり過ぎないように、適度に自分でブレーキを踏みながらやっていくのが大事なのかなと、今は思っています。

 現在、ちょっとブレーキの踏み過ぎで何もできなくなっているから、私の「0か100か」で間がない性格(?)を治せたら1番いいのかな……。


 なんだろうな、「信用できない相手を信頼(過去の私や他人に対する振る舞いを信じられない相手の未来に期待する)」は私にはできないから、中長期的に自分の背中を預ける対象は、まず信用できる相手であって欲しいと思っています。

 重箱の隅をつつくつもりはなくて、重箱の隅を杓子で払え、と。

 それでも、私なりのラインはあるから、それでお互いに納得できる相手でないと、自分の大切なものは預けられません。

 そんな相手を探すのは、かなり骨が折れると思うのだけど、みんなどうやって見つけているんだろう……
(どれくらいで、相手が自分のなかに踏み込んでくることを許しているのか、はたまた、そんなこと全然考えていないのか←人によって基準が違うから、難しい話だよね。「踏み込まれた」と感じる基準も、大切なものも、人それぞれだもんな)

 自分がやることをやっていれば、そのうち出逢える、もしくはもう出逢っている相手に私が心を開けるようになると思うから、目の前のことを頑張って、生きていこうと思います!

 ではでは〜


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