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名君の条件

あと3回で最終回を迎える、「どうする家康」。もう、私も千世さんとのお付き合いがなければとっくに脱落していたでしょう。

何せ、毎回見るたびに何かしら文句をつけ、それを聞いた妹に「そんなに嫌ならば、見なければいいじゃない」(ゴモットモデス^^;)と、突っ込まれる始末。

千世さんのところでも述べましたが、基本的には私は「徳川びいき」です。ただ、その視点からしてもツッコミどころが多すぎて、「歴代ワーストワンの迷作●●ではないかと思っています。なので、多少は家康を上げる記事でも書いてみようかと思い立ちました。


家康の凄みは「則天去私」

はっきり言います。今回の大河は、あまりにも「感情的に行動する」人物が多すぎました。ドラマとしてはその方が盛り上がるのはわかりますが、あまりにも「武士の常識」からかけ離れた人物が多いのが、ずっと引っかかっていました。
先日二本松の「城報館」で「朝河親子展」を見てきたわけですが、そこで持ち帰ってきたパンフレットだかパネルだかに、武士の教育方針として、「感情を容易にあらわにしてはならない」というものがあります。
これは、山鹿流の「トップの条件」にも言えることでして、家康の本当の凄さというのは、これらを踏まえつつ、官僚システムを完成させたところにあるのではないでしょうか。

山鹿流の源流となる「甲州流兵法」は、先に書いたように戦国期、武田信玄の頃にある程度整っていたわけで、その道徳観は「四書五経」を始めとする「儒教」にあります。
南北朝時代から室町時代にかけては、臨済宗の禅宗寺院の寺院を中心に儒学が伝授されることが多かったようですが、家康も、ばっちり儒教教育を受けていたと考えられます。
確か、ドラマの最初の頃に「論語」や「孟子」も扱っていましたね。
※王道・覇道の峻別は「孟子」の考えです。

となれば、「己の激情のままに行動する」などというのは、恥ずべき振る舞い。
繰り返し「どうする家康」の中で取り上げられてきた「王道と覇道」の考え方については違和感はないのですが、「王道」の理由が私的な動機に基づくものが多すぎました。
瀬名・信康への処罰も、「徳川家中の乱れを防ぐためには私的な感情を抑えなければならないのに、己の感情に従って皆を振り回した二人を処罰した」と捉える方が、自然です。

後世の夏目漱石の云う、「則天去私そくてんきょし」。これを具現化出来ていたところが、家康の最大の強みだったと私は感じます。

則天去私
自然の道理に従って、狭量な私心を捨て去り、崇高に生きること。 「てんに則のっとりわたくしを去さる」と読み下す。 夏目漱石の晩年、理想とした境地、人生観として有名で、宗教的な境地とも言われる。

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感情的だった秀吉

反対に、己の感情をうまく演出に利用したなあ……と感じるのが、秀吉です。ドラマではサイコパスのような扱い方をされていましたが、あれは極端にしても、決して「人の情に安易に同調するだけのお人好し」ではありません。むしろ、その「人の情」を巧みに読み取り、己の利となるように即座に演出できるのが、秀吉の強みでした。

拙作で「サイコパス」の人物として描いたのが『泪橋』の治部大輔でしたが、サイコパスと一口に言っても、その全てが犯罪者となるわけではありません。

割と高い知能を持つタイプのサイコパスも多く、医者や官僚などの職についていることも珍しくないそうです。
私が思うに、秀吉は「ソフトタイプ」のサイコパスだったのではないでしょうか。

秀吉の最大の失敗

秀吉の失敗はいくつかありますが、「組織」として考えた場合、「己が欠けても困らない」体制を作れなかったのが、豊臣家滅亡の遠因ではないでしょうか。
弁舌が巧みだった秀吉は、その弁舌で人を巧みに操り、惹きつけてきたのでしょう。ですが、非常時(戦国時代)はカリスマが力を発揮したとしても、その後にやってくる「平和な時代」になれば、その才能を鼻にかける人物は「うんざりされる」というもの。秀吉はそれを知っていたからこそ、「非常時を継続させよう」と、朝鮮出兵を行ったのではないでしょうか。

ですが、秀吉の最後について書かれた諸文献や記事では、「秀頼を支えてくれるよう」五大老や五奉行に頼みながら死んだ記述が目立ちます。あくまでも、「人の情」に頼ろうとしたのでした。
さすがに、「幼子を支えてくれ」という前に、やるべきことがあったのではないでしょうか。

ヨーロッパとほぼ同時期に「官僚制」を導入していた

ここで、少し目を外に向けてみましょう。
家康が幕府を開いたのは1603年ですが、この頃は、ヨーロッパでも「官僚システム」が確立しつつあった時期でした。

血統を頼みとした「封建主義」の時代は家柄の良い貴族などが重職を担っていたわけですが、絶対王政の頃から「能力の有る者を選抜して行政に参加させる」システムに移行します。
割と盲点ですが、家康が活躍した時期とイギリスの名君主「エリザベス1世」が活躍した時期はほぼ同じ。「己の感情よりも国を優先させた」ところも、この二人はよく似ていると感じるのは、私だけでしょうか。

官僚制とは

官僚制とは、規模の大きい組織や集団における、管理支配システムをさします。封建時代は血統重視だったのに対して、官僚制では「合理的・合法的権威」を基礎としていますから、「誰がトップに立っても行政が機能する」という点が、画期的でした。
さらに細かく見ると、官僚制には次のような特徴があります。

標準化:抽象的・一般的な規則に基づいて職務が遂行される
階層性:権限のヒエラルキーが明確である
没人格性:支配者自身も服従者も、非人格的な秩序に服従し、制定された規則の範囲内で命令と服従がなされる

https://mba.globis.ac.jp/about_mba/glossary/detail-12111.html

先日の放送で、家康が秀忠を評して「偉大なる凡庸」と述べていましたが、平時において長続きするシステムであれば、特に「突出した能力」のない人物の方が、好まれやすいといえます。

これは今でもそうで、例えば公務員試験などでは、ペーパーテストでいくら成績が優秀でも、面接で「極度に偏った思想の持ち主」と判断されれば、落とされる傾向があります。

譜代の家臣でも例外ではなかった

このシステムを、家康&秀忠親子は徹底しました。
恐らくドラマでは出ないだろうなあ……と思いますが、「譜代の家臣」でありながら「改易」、則ちクビになったのが、大久保忠隣と本多正純です。

大久保忠隣は、大久保忠世の嫡男です。彼も数々の武功を挙げ、家康の重臣として活躍しました。
ですが、彼の養女の結婚のに「幕府の許可を得ずに結婚させた」ことが引き金となり、改易処分。幕府にとって重要拠点の一つである小田原城を任されていたにも関わらず、それも取り上げられています。
後でこの家系は復活しますが、再び小田原城主に返り咲いたのは、5代目忠朝のときでした。

もう一人の「本多正純」は、言わずと知れた家康の懐刀、「本多正信」の息子です。
こちらは、公式には「宇都宮城の無断修理」が改易の直接のきっかけとなったとのこと。

ただし、もう一つきな臭い噂が。
皆様覚えておいででしょうか。家康の娘である「亀姫」が関わっています。

要は家康の死後、秀忠を始めとする次世代の人材らに疎まれ始めた正純が、秀忠の暗殺を企てたというもの。
この密告を行ったのが、孫である奥平忠昌を左遷?させられた亀姫であると言われています。

幕末でもその威力を発揮

この官僚システムは、幕末になっても生き続けました。何と、水戸藩主「徳川斉昭」ら一族に「蟄居」「謹慎」などの処分を申し付けたのは、当時の幕府の官僚です。そう、井伊直弼を筆頭とする開国派の面々ですね。
「主筋なのに?」と思われるかもしれませんが、官僚制のシステムの中では、自然なことでした。
まあ、官僚制も行き過ぎると弊害が出てくるわけで、その弊害が幕末に爆発したというところでしょうか。

あっさり片付けすぎ

それでも、可能な限り「血統主義」を排除したシステムを確立した家康は、やはり偉いと思います。
「狸親父」と評され、陰気なイメージがつきまといますが、「感情を見せることを良しとしない」武家社会ではごく一般的な振る舞いです。むしろ、ニコニコしながら人の家臣を「ヘッドハンティング」し(丹羽家は、長束正家や溝口氏などが秀吉の命令で引っこ抜かれた)、「非常時」をキープしようとした秀吉や、威圧感で人を従わせた信長よりも、遥かに賢い立ち回りではないでしょうか。

そして、「官僚制」を始めとする組織論が確立したのは意外と近代で、研究者としてはドイツのマックス=ウェーバーが有名です。

この研究以前に、既に「官僚」システムを構築していたことが、「Pax Tokugawana」につながったのではないでしょうか。

アジア諸国が植民地化の波に飲み込まれた中で、独立を保てた日本。やはり、その根底には優秀な人材が生き残りやすい、家康らが作り上げた政治システムがあったと思うのです。

……と、非常に大事なことを、何で数分の枠に納めたのでしょうね。
いくら「ドラマ性重視」とはいえ、もう少し丁寧に扱ってほしかったです、制作陣の方々^^;

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