名無し

丿貫

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最近の記事

◯◯人種など存在しない

この世界に何かに由来した人種などと言うものは存在しない、もしそれを主張するのならばそれは思い込みの中に過ぎない。 民族とか人種はすでに多くの混血を重ねている、また宗教的な理由による人種定義も成立しない。 私は重ねて言っているが聖書が神によって記述された事を否定する。神の意思が働いて人が書いたものではあるかも知れないが私はそれが神の絶対的ルールだとする事に関してはっきりと否定したい。 そもそも何かにルールを与えて定義付すれば必ず矛盾が生まれる。いかに神が万能であっても自らが作っ

    • AIの限界

      AIには生物には存在する根源的な生存本能、つまり欲望が存在しない。欲望を持ってるようなプログラミングはすることができるかもしれない。しかしAIには食べることも自分たちを存続させる欲求もまた成功するという欲求もない。これがAIの限界であるように私には思う。 すべての生物は自分の生存とその種の存続のために行動する、人間に飼いならされた家畜ですら自分たちの生存と種の存続をしてくれるから人間に飼いならされている。 AIにはこの根源的な欲求は存在しない。またそれを作ることもできないであ

      • 奇妙な雇用体系を作ってしまった日本

        今の日本の雇用体系はかつての日本型の終身雇用とも言えず、また米国式のスキル重視の雇用とも言えず。どちらの悪いところを混ぜたような奇妙なものになっている。 まず技術職に関してはスキルによる転職ありきの雇用体系ができつつある、しかしそれはスキルアップを目的とした転職であってジョブチェンジを目的としたものではない。さらに新卒は相変わらず就職活動をしている、アメリカには就職活動のようなものは存在しないが日本には相変わらず新卒カードがあり就職活動が存在する。 これは本当に奇妙で日本型の

        • 性癖を否定するほど性癖は歪む

          真面目な教員や公務員また政治家などが性的な問題を起こしてニュースになることが多い。それはひとえに正しい人を演じる反動から発生する。人間である以上どんなにそれを否定して穴に埋めて隠してもその欲望は表に出てきてしまう。 それは否定して隠すほどにそれはひどいものになっていくものだ。オープンに自分が変態だと言える人ほど実は言うほどでも無かったりする。クリスチャンもこの正しさで歪んでしまう人が多い、しかし振り返ってみると聖書にはたくさんの性的スキャンダルが書かれている。神に選ばれた正し

        ◯◯人種など存在しない

          負ける事を恐れてはならない

          負ける事を恐れるものが行き着く先は敗北である どのような強い将軍ナポレオン•ボナパルトのような人であっても皇帝になり、ついにロシアやワーテルローで敗北した。 勝負し続ける事はいずれ敗北する運命が待っている、それに気がついたとき時にはあえて勝負しないで負けることで相手をおもんばかれるようになる。 勝負しないことは競争をエスカレートさせない。また相手をおもんばかる態度は尊敬を生み、敵であったものと協力関係すら築く事ができる。 負けて勝つそれが本当の勝利であり、勝ちを譲れるもの

          負ける事を恐れてはならない

          許すものは被害を語ってはならない

          神の言う敵を許すとはその敵に復讐しない事だけではない。敵から受けた被害を後世に語り継がない事である。 自分たちが被害者である事を語りつけばそれは後世の子孫たちに復讐させる機会を与える事になる。 許す事は忘れる事であり、忘却のない許しは存在しない。忘却のない許しが存在しない以上、自分たちが受けた被害を語り継ぎ続けることは子孫に復讐を託しているのだからやはりそれも復讐してる事になるのだ。 でないと復讐者はかつての加害者の無関係な子孫を血祭りにあげてしまう。 我々は歴史を正

          許すものは被害を語ってはならない

          抑止力と平和主義の狭間で

          軍事力によって抑止力による戦争を防ぐ効果とそれに対して軍事力を排して平和主義に徹する思想はお互いがお互いに極論に行きつき過ぎているのではないか?軍事力による抑止力と平和主義が共存できる。中間的なラインが存在するのではないか?私はふとそんなことを考えた。 基本的にどの国も強大な力を持つ強大な国家に対する侵略に対して防衛を考える。しかし反面、そのような強大な力を持つ国も大国からの侵略を恐れていてそれから防衛する思想が戦争を招いている。過去のどの戦争もあのナチスドイツでさえ根底にあ

          抑止力と平和主義の狭間で

          それは美なのか

          美しさとセクシャル、これは明白に区分できる事だ。美とは大自然のような普遍的な美しさであり、対して女性の素肌に影響される美しさは一過性のリビドーであるから美ではない。 しかしこの中間の曖昧さが存在する。例えば和装をした女性の美は美なのだろうか? 和装の美しさはある程度普遍的な美しさであり、またそこにセクシャルさはほぼない、ゼロではないにしろである。 よく和装の女性に対してわずかに見えるうなじにセクシャルさを感じると言う意見がある。和装の美しさにはセクシャルさがあるのも事実だろう

          それは美なのか

          結婚は幸せなのだろうか

          キリスト教によくある誤解の中にクリスチャンはよき伴侶と結婚し、よき家庭を築き、よき人生を歩めと言うような認識を持たれている人が多少は居るかと思う。 しかし聖書のコリント人への手紙で7章でパウロははっきりと書いている。 「さて、この前の手紙にあった質問に答えましょう。もし結婚しないなら、それは良いことです。 しかし、普通の場合、結婚するのが一番良いでしょう。男はそれぞれ妻を、女も夫を持ちなさい。そうでないと、不品行の罪に陥る危険があるからです。 夫は妻に、妻が当然受けるものを

          結婚は幸せなのだろうか

          美しき女神像

          それはエーゲ海の小さな島にあった。 勝利を祝して作られた大翼を左右に持つ美しき偉大なる女神像はギリシアの美しい海辺に煌々と飾られていた。その美しさは皆、島に住む人々はそれを誇り、また島の外からくる人々はその美しさに驚かれた。 島は栄えていた。この島の栄光はこの美しき女神像とともに永久に続いていくのだろう。皆、そう信じていた。 時代が移り変わるとともに次第に島の暮らしは窮屈に貧しくなっていった。だが再び良くなる時もあったので人々はまたいずれ良くなると信じた。 しかし、ある時を境

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          平和

          「イスラエル軍元兵士が語る非戦論」を読んだ。この本について多くは語るまい。ただ一つ思ったことは私たちは平和のために武器を捨てる覚悟をせねばならないという事だ。 これは生半可な覚悟ではない。たとえ相手に殴られたとしても殴り返さない勇気を持てと言うことである。 はたとキリストの言葉が浮かぶ「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」これは究極の非戦論に他ならない。殴られても殴り返さない。 たとえ自分ではなく大切な家族が殴られても殺されてもやりかえさない。 これは本当に勇気と道徳心がため

          SNSは誰でも独裁者になる。

          SNSなどでのコメントに対するブロック機能やミュート昨日を使うことはある面においてその人が自分のアカウントにおける独裁者になることができる。 現実で考えてほしい、例えばあなたに耳の痛い意見や苦々しい意見を言われたときそれをもし現実でブロックできるとしたらそれは独裁者にほかならない。 SNSについても私はそれは同じだと思う。最近、ネットの悪いコメントをすることに対して批判的な風潮がある。それによって自殺者などが出ているからだ。 確かにあまりに行き過ぎたコメントや執拗にアカウント

          SNSは誰でも独裁者になる。

          大人は言い訳しない。

          大人になるということは「だって!みんなやってるんだからいいじゃん!俺がやっても!」と言いたくなるような悪いことをしなくなることである。 人間としての成熟には自分への甘えを断つ必要がある。世の中ではちょっとしたズルやちょっとした甘えが出る機会はたくさんある。 何々さんはこれについて楽してるズルしてる得してる。だから自分もやりたいと言う時、その何々さんと自分の倫理観には関連性がなく。 たとえ何々さんがやっていたとしても私はやらないと言う強い倫理観を保つことである。 これはすごく単

          大人は言い訳しない。

          緊張の正体は恐怖である

          緊張して何かが上手くできない。そんな体験をした事があるだろう。 緊張とは恐怖の事である。 何故、恐怖するのか?別に命の危険に晒されてるわけではないのに。 それはそもそも人間が生物として生き残ってきた過程にあると仮説をたてる。 人間が自然とともに暮らしていた時代、私たちは常に危険に脅かされてきた。 殺されたり、襲撃される恐れは常にあった。そんな時代において小さな異変や物音などに敏感に察して逃げる個体が生き残るのに有利だった。 進化の過程において異変などに気がついてストレスを感じ

          緊張の正体は恐怖である

          神に委託しなさい。

          イエスの言う布教は誰かを教会に引き入れることではない。 そもそも、イエスの時代には教会の概念がなかったしキリスト教と言う概念も存在しなかった。 ただイエスの教えは存在した。 喉をを渇してる人に水を与えるように、心が渇している人にイエスの考え方、キリスト教の考え方を教えてあげるだけでよい。 無理矢理、聖書を与えて教会に引き入れてはいけない。それは神の意思に反する。 神は人が自発して学ぶことを望んでいる。 私たちは一人一人が一隅を照らすものでなくてはならない。私たちは光なのだ

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          台湾は中国に飲み込まれるべき

          誤解しないでいただきたいのは私は中国共産党の支持者ではない。台湾は中国の領土であると思うだから中国に帰るべきだ。 ただ、私は中国の専制的政治を支持しない。それ以上に台湾をめぐって戦争になる事を支持しない。台湾は中国に飲み込まれる事で中国の獅子身中の虫になればよい。 香港もそうだが、民主主義に慣れた民主的な考えの中国人がたくさん中国国内に帰る事は良い事である。長期的に考えた時、それは中国の政治に影響を及ぼすだろう。 専制的な一党主義は永遠に続かない、それは日本の自民党を見ても自

          台湾は中国に飲み込まれるべき