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ディストピアを、生き延びる

『1984』という作品を読んだことがあるだろうか。『1984』で有名なジョージ・オーウェルの傑作である。詳細なあらすじは伏せるが、フィクションでありながら現代社会にも通底するような世界を描き出していることで今ひそかに話題となっているという。

具体的な概要を述べさせていただくと、以下のようにまとめられるだろう。思想・言語・恋愛などあらゆる権利に統制が敷かれ、行動のすべてが監視されている世界で人々はどう生きるのか。ビッグデータが幅を利かせたことにより、監視社会が到来した世界で人々はどう生きるのか。「ナショナリズム」が拡大してレッテル張りが加速する世界で人々はどう生きるのか。
一度読み始めたら読み終わるまで結末が分からない非常に面白い一冊だといわれている。私も機会があれば今度読んでみたいと思う。

さて、前置きから分かる通り、世間は今不確実な要素で溢れている。様々なビジネスシーンにおいて将来の予測が不可能な状態のことを指す「VUCA」という言葉が使われ、市民権を得ている現状だ。これまでの常識が次々と覆され、今まで‘機械’とは無関係であった主婦層であってもデジタルテクノロジーへの理解が不可欠となってきている。
最早IT化の波は人家を飲み込みつつあるのである。監視社会は意外とすぐそばまで来ているのかもしれない。

この時代の潮流を乗りこなすにはどうしたらよいのか。今日の友が明日の敵になるかもしれない日々で誰を信じて過ごしていけばよいのか。
まさに‘事実は小説より奇なり‘な世の中で、いつ訪れてもおかしくないで終末世界の到来に震えて眠るしかないのか。否、そんなことは決してない。いつの世でも上手に生きていくための処方箋は存在する。それはこの世がディストピア社会であっても同様である。決して諦めてはいけない。天界からラッパの音が聞こえてきたとしても、前を向いて生きていかなければならない。
そこで僭越ながら、若輩者である私が、今後の人生の指針を考えるうえでの第一歩を提供させていただく。これはきっと息苦しい現代の知恵袋となり、後世まで語られることになろう。これから誰もが寄りかかり、生きていくためのガイドラインを担うこと請け合いのそれは、

『あつまれどうぶつの森』である。

必要のない憂慮、まさに空が落ちてくるのではないかという心配レベルの杞憂だろうが、あなたがもし万が一『どうぶつの森』シリーズを未プレイならば、危機感を持った方がよいだろう。このゲームは
「世界の破滅が訪れてもスローライフでいいんじゃないかぁ」
という心のゆとりを私たちに教えてくれる。DSやWiiなどハードによってそのタイトルは異なるが、どの作品もぎすぎすした人間関係から解き放たれ、素晴らしい毎日を過ごすことができるであろう。私が今回取り上げる『あつまれどうぶつの森』はその最新作に当たり、とある無人島に引っ越すプランを立てるところから物語は始まる。この島は懐が深い。たとえ心に傷があろうとなかろうと誰でも受け入れてくれる懐の広さを持っている。

もしあなたが現世でITの仕事に悩殺され、休みの日ですらパソコンと向き合わなければならない日々を過ごしていたとしても、島に移住を決意すればその日々とはすぐにでもおさらばできる。ストレスフリーな社会へようこそ。無人島の上では木の枝と石ころをポッケいっぱいに集めることがあなたの仕事になる。もちろん十角形の館はないし、誰もいなくならない。朝起きて木を揺らし、石を叩いて、飽きたら辞める。それだけでいい。

生憎家に鍵がかからないため、他の住人が貴方の活動を確認すれば昼夜を問わずどんどん訪れてくるのは玉に瑕だが、田舎のような平和さを感じることができる良い機会であるし、本来のあなたには元々プライベートなんて無かったのだからなんの問題なかろう。

しかしそれでも、いきなりの無人島生活は不安でいっぱいかもしれない。今まで懸命に敷いてきたレールから外れ、小学生のころに夢見た人生とは異なるルートを歩んでよいのか、島がプリミティブすぎて日本と落差を感じてしまわないか、「石を集める」とはどういうことなのか、などなど挙げればきりがないだろう。

そこで無人島歴3年の私が明日から移住しても困らないように、現代の英知の一角である経済学の知識を用いてどうぶつの森世界に考察を加えることで、そのギャップを埋めることに一役買いたいと思う。私は大学時代に経済学を専攻していたが、賢いわけではないのでその点はご留意いただけると幸いである。また、今もなおどうぶつの森を全く持って知らない方にはここでブラウザバックを勧める。

今回着目したいのは島で流通している通貨についてである。
「どうぶつの森の世界は贈与交換経済で成り立っている」ということについて反論が来ることはあまりないだろう。現実世界では部族社会によくみられるような、恩や貸し借り、信頼をベースにした形態である。

島の住人は貴方や労働者の狸等を含めて15人前後とコミュニティとしては比較的小さいが、その分「誰に何をしてもらったか」や「誰に何をしたか」を記憶しやすい。
実は上記のような地域社会を構成できる最大数、言い換えれば人間が作り上げることのできるコミュニティの限界数は最近の研究で判明している。「ダンバー数」と呼ばれるそれは、具体的には150人、イメージがつくように別の表現を使えば「スズキのジグサーの排気量」と同じである。

それを大きく下回っているどうぶつの森社会では贈与交換経済が成立しうる環境であるといえるだろう。例えばコミュニティで誰を信頼するべきか困ったとしても、伝聞によってそれを補うことができる。うわさ話に耳をちょっと傾けるだけで、ネットワークが持つ強みを思う存分に利用できる。つまり大学で自分だけレジュメが回ってこないのは、自業自得というわけだ。

更に住民たちの手による信頼構築を活用することで、交流上のリスクを減らすことができる。信頼できない動物はどんどん村八分になっていく。住人たちとしばらく会話しなければ彼らはこぞって狼狽するが、これは「自分がコミュニティの和を乱していると警告されているかもしれない」と考えているからではないだろうか。村社会の厳しさが垣間見える。

また、興味深いことにこの集団はある一定の人数が集まるとそこから決して増加することがない。これは島に宗教らしい宗教が存在していないことの裏付けにもなる。深く論ずるつもりはないが、人が把握しきれない数(150人以上)にメンバーが膨らんだ際、組員をまとめるのに役立つため宗教が誕生したと考える学者も存在する。

確かに、神のような存在を信じるか信じないかで人々をカテゴライズすれば、味方とそれ以外の判断がつきやすくなるためいちいち全員の顔と名前を覚える必要は無くなるだろう。「共通の信仰を持っているか」だけを判断材料にすることで、脳のキャパシティを復活させたとするこの学説は非常に興味深い。ただ一方でプラグマティズムチックな、効用のみで物事を判断するこの考え方は尖りすぎているのかもしれない。


さて、ここからより核心的な部分を述べていく。つまり、お金についてである。ここまでどうぶつの森未プレイなのにちゃっかり読み進めてしまった人にとっては意外に感じるかもしれないが、島の文化レベルは意外と高い。島では通貨「ベル」を用いて洗濯機やピアノなど、想像可能なほぼすべての家具を手に入れることができる。

この「ベル」であるが、生憎長年研究してきた私もその実態はつかみ切れていない。皆が「日本円」について理解できていないのと同じである。ただ現実世界と近似するなら、ミクロネシアのヤップ島で使われていた石貨をイメージすると近からず遠からずになるだろう。ただしゲーム内で「石」と「ベル」、ひいては「金」と「ベル」は明確に区別されていることから、何か特別な物質、酸に強い何かで構成されていると考えられる。

補足情報として述べるが、(どうぶつの森の)舞台が村であろうと町であろうと島であろうと同じように使用可能なことから活用している範囲がとても広いらしい。

ここまで基本的に「ベル」についての基本情報を述べてきたが、肝心で戦慄するようなことを話すのを忘れていた。ただひたすらに恐ろしいのは、「ベル」は岩や木からどんどん採取できてしまうことにある。もっとわかりやすく言えば、島民全員が造幣局となっているということである。


言うまでもなく、日本の銀行券は国家によって守られている。本来ならば何の価値もない紙切れ同然の偉人が描かれた長方形を、気軽に商品交換に利用できるのは理由がある。国家がその流通を担い、市場流通量を制御することで価値を担保し、私たちがそれを信頼しているからである。ちなみに、現在貨幣の発行は政府の権限下にあるのは当然の事象だと思っているかもしれないが、昔からそうだったわけではないことを博学な読者所見はご存じだろうか。かつては誰でもどうぶつの森のように「金」を採掘して貨幣にすることができた。そこに、

「それじゃあ流通量が分からないから商品とのレートとか計算するの無理だしぃ、市場が無茶苦茶になっちゃうよぉ」

と考えた政府が現れ、金の供給を独占する措置を講じたということらしい。しかし、原則的に金の採掘は誰でも可能だった、というのはマメ知識である。ツブ知識ではない。

それでは、「ベル」に関しては誰がその価値を保障し、誰が量を調整し、私たちは誰に対して信頼を寄せているのか。これが分からない。
本来貨幣の価値を支えるのは希少性である。「金」の希少性に関しては世界中に現物の量が少ないことで保たれていたということだ。

 一方で木を揺らせば落ちてくる、石を叩けば湧いてくる、風船に乗って流れてくる、まさに生み出したい放題のコインなのに対し、なぜ住民たちは誰も「通貨としての基盤が二重の意味であたしンチグラグラゲームだ」と思わないのだろうか。

そんな心配事が山ほどあるのにもかかわらず、どこ吹く風で島には一切のインフレやデフレが生じていないというのは驚きである。日本ですら卵や野菜の値上がりが激しく主婦の財布を苦しめているのに、である。

いついかなる時に島唯一のショッピングモールであるたぬき商店に訪れても、同じく唯一の服屋に訪れても、取引価格は全く変わらず、相も変わらず「ベル」でやり取り可能な状態である。最早驚嘆の域である。彼らは狸だから「独占」という状況が理解できていないのかもしれない。皆言い値で買うしかない状況なのに、かなり良心的な固定価格で取引に応じてくれる。

島には埋めた額の3倍の「ベル」が育つ金の生る木の存在が確認されている。それを抜きにしても恐らく貨幣流通量は激烈に増加の一途をたどっているはずである。それでも通貨の価値が一定ということは、それに追いつくだけの経済発展が裏でなされているということなのだろうか。それとも鬼のような企業努力で商品の価格を維持しているのだろうか。世界は今一度どうぶつの森に立ち帰るべきなのではないだろうか。

 ここまで議論を重ねた一方で、不動産仲介業を営む会社で流通している社債である「ポキ」は、日々異なるレートで「ベル」と交換がなされているという事実が私の胸に飛び込んできた。変動相場制ということだ。もう私にはわからない領域である。島についてまだまだ研究の必要があるといえるだろう。ペンとサジを投げることで、お話の結びとする。



これが今回の内容である。執筆途中に「島での生活」と打ち込もうとしたところ、「死までの生活」と変換されて驚いたこともあった。日本語は大変エシカルでエッジが効いた言語の側面を持っているといえよう。

言葉の鋭利さに辟易し、島に逃れた私たちに、さらなる混沌が待ち構えていたのであれば、それはもう諦めて一緒に波打ち際で夕陽を見るしかないのかもしれない。

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