テラーの輪転機 異世界部族調査員と開花の少女 第2章 0~4

0 サンヨ(神話)

 ――原初に一柱の神があった。
 
 神はすべてを統べ、すべてを手にしていた。はじめには一なるものだけがあり、それがすべてであった。

 やがて原初の神の体から他の神が生まれ、そこに子孫が国をなした。分かたれた世界で神々は戦いを繰り返しことごとく潰え、原初の神は亡くなってしまった。
 
 この大地、星、太陽を。
 すべてを生み出した原初にして一なる神の姿は無残に引き裂かれ、神の戦争の記録は失われた。


 ただ一柱生き残った神は、原初の神の亡骸を集めて4つの陸地とひとつの巨大な島に分かち、二度と神々の戦乱が起こらないようにした。これが4大陸の起源である。

 新たなる神は神たる他のものが出ることを望まなかった。
 
 神はみずからの忠実な働き者として、神の姿を模したものを造り、住まわせた。
 また神は原初の神の姿を留めるため、もうひとつ同じ形をしたものを生み出した。
 
 これらのために、神は二度に渡り、その体を引き換えにし、そのたびに新たな体を得た。これを転生という。
 
 そのふたつの天地は同じ場所にありながら交わることなく、またそのすべは神から教えられることもなかった。

 ただひとつ神のみが使える入り口を作り、ふたつの海と大地を神のみが行き来できるようにした。原初の神の亡骸が海に流され形が変わっていったが、新たな神が造った天地は朽ちることも流れることもなく、元の姿から変わらずあり続けた。


 神の名はテラーといったが、神を模した者はみずからが完全な姿でないことを恥じ、神の名をそのまま呼ぶことはなく、テラレの民と称しその命に服した。
 
 神はすべてのテラレの民に告げられた、我が祖先たる神々はみずからの意思のみにたのんで野蛮をなした。そのためテラレの民には運命を授ける。神の命ずるままに生きよ、と。これがテラレ族のはじまりである。


 一方、朽ち果てた原初の神の亡骸からは、神の姿を模しただけの不浄なるものが生まれた。これがエオ族のはじまりである。
 
 その性格は自然に任せるだけの、野蛮にして卑賤、加えて淫猥《いんわい》なものであった。
 
 彼らは海を渡って、ありとあらゆる卑怯な手を使い、テラレの民を蹂躙し、テラレ族が神の意を汲み成していた高次の文明を徹底的に破壊、略奪してまわった。神をもってしてもその腐った者たちに対抗する力を蓄えるために実に五〇年の月日を要した。

 ここに神は三度目の転生を決意し、また新たにテラレの民を造り、エオ族と戦った。互いに多くの亡骸を出したが、勇敢なるテラレの庇護者は類まれな指揮で、輝かしい勝利をもたらした。
 
 その悪鬼エオとの戦いを永遠にとどめると共に、輝かしい勝利と、我らが神の栄光を記念し、大いなる石に刻む――
 
 
 これが、『シャエラの大碑文』と呼ばれる巨大な石で刻まれた文字を解読し浮かび上がった、神話と戦乱の記録であった。


1 カワイイ

 異世界『オ・アエセ』にやってきた彼がその初日、祝宴のあとにしたためた日記は、このような書き出しで始まっていた。


 ””この異世界に太陽が存在するならそれはどのような位置関係にあるのだろう。
 どうやって日が出て、また落ちるのだろう。
 太陽が自分たちのいた世界と同じように天を照らすとしたら――
 それは本当に異世界なんだろうか。
 本当は地球上のどこか、未踏の地を異世界と言い張って騙しているだけなのではないだろうか。

 それとも、次元の歪み? 
 
 わからない。わからないことだらけである。
 
 けれど窓から射し込む朝日が、僕を包み込んでいるという事実は、間違いなく今ここにある。異世界『オ・アエセ』の朝は、あちらの世界同様にあたたかく感じられたようであった””


「ほんとに……夢じゃないんだな……」

 ベッドから身を起こし、手のひらを眺めるツネ。
 異世界に住むことになった現実を、彼なりに整理しようとしているのであろう。


 王都・テラレトエン。
 トレンとはタウン、すなわち『街』を意味する。
 テラレ族20万が暮らす、事実上の首都でもある。その北側・ヘンマン地区にある2階建ての家が、彼にあてがわれた「現実」。
 これはVR――バーチャル世界として作られたかりそめのものでは決してない。

 起きてすぐ、部屋を出て階段を降りようとしたところで、彼は忘れ物を思い出す。

「しまった、アレがないと……」

 職場の上司である西風舘(ならいだて)小鳥からもらったテラレ語の発音規則を記した紙。本人が書いたというその小さなメモ書きは、着崩した姿とは裏腹に育ちのよさが出ている字であった。

 そこにはテラレ語を使う上での注意事項が手書きでコンパクトに記されている。ある程度は頭に叩き込んだつもりであるが、昨夜の酒が抜けない状態では不安が残るのであろう。
 その小さな紙をワイシャツの胸ポケットにしまって部屋をあとにする。


 ええい能書きはいい! はようおなごを出さんかおなごを! 
 お前の話は長くてまだるっこしいんだよ! 
  
 ――というような天の声が聞こえてきそうである。


 語り手というのは、幸いにして語りたい話と語らなくてもよい話を選別できる。
 そろそろテコ入れも必要というものであろう。
 とはいえ物事には順序というものがある。
 どうか、あと少しだけお待ちいただきたい。


 ヘンマン地区は直属の上司である小鳥など、関係者が利用するためのさまざまなものが取り揃えてある、いわば『日本人街』。
 数は多くないものの、すでにこの地にツネや小鳥以外にも事業関係者たちが根付いている。けれど新人であるはずの彼だけが2階建てなのはもちろん――共に住む人がいるからである。


「お……オホヤエ・コソアモセ(おはようございます)……!」


 ツネが1階のリビングに降りてきたことに気づいて途端に緊張したのは、昨日彼の嫁――ということになった白髪の少女・ソエラであった。

 発音規則とすぐさま突き合わせようとした彼であったが、手元が狂ってその紙を落としてしまった。どうやら彼女の緊張につられてしまったみたいである。
 
 あわてて拾おうとしたところに、互いの手が触れ合う。
 
 改めて触れてわかるその華奢さと、柔らかさ。
 彼はつい条件反射で手を引っ込めてしまう。

「ごっ、ごめん!」

 とっさに日本語が出てしまう。彼女には通じるはずもないのに。彼女は触れた箇所を片方の手できゅっと覆い被せて、首を横に振る。そして健気にも不慣れであるはずの言葉を使って気持ちを伝えようとする。

「あ……ア、ヤ、マラ、ナイテ……ク、タ、サイ……!」

 テラー族の言葉であるテラレ語は、多少の例外はあるものの、日本語から一部母音の段をずらすだけでわかる。
 なので慣れれば瞬時に変換するのも難しくない言語である。

 それはつまり、テラレ語の話者が日本語を解することも比較的容易ということ。彼のとっさの反応などと合わせれば単語を類推することはできよう。

 けれど一回りほども違いそうなほど幼いソエラが、学問的素養がある松岡常一よりも柔軟に適応できているというのは、彼女の賢さを示す好例ではないだろうか。

「……ごめん。あ、つい……」 

 謝らないで、と言われたスキにやってしまうツネのほうに余裕のなさがうかがえる。結婚、ということを必要以上に意識しすぎているのだろうか。耳まで赤くしている彼の姿を見たソエラは緊張も解けたのか、メモ用紙を拾い上げて彼のポケットにしまい、はにかみながら耳元でささやく。


「……ツネ、カワイイ」


「――!?」

 一回りも下に映る少女からそんなことを言われては、彼の顔は赤みを増していくばかり。この少女は、もしかしたら小悪魔的な素質があるのかもしれない。
 
 彼女は立ち上がり、何事かを告げてリビングの奥、キッチンとおぼしきところへとパタパタと歩いていった。

 ツネはあわててポケットからふたたび例の紙を取り出す。


 ――朝食はパンとトマトスープですよ。


 意味を理解したツネは立ち上がらぬまま顔を両手で覆い、ぽつりとつぶやく。

「オラアン(ありえん)……」

 かわいすぎか――と。 


 異世界新婚生活初日の朝。
 背中から受ける日差しはあたたかく感じられたことであろう。

 かわいい幼妻は料理も上手。
 なんだこれ最強か。バブみを感じてオギャれと申すか。
 異世界の果ての村で運命的――いや実のところきわめて必然的なのではあるが――な出逢いを遂げた少女・ソエラ。その小さな身体にとんでもないスペックを具えている。


 ツネの両親は大学2年の時、旅行に出かけると言い残して突如行方不明となった。彼が自動車免許も取れないほど困窮《こんきゅう》していたのにも理由があったのだ。

 それ以来、以前から親交のあった乙訓《おとくに》法子《ほうこ》とその家族、および我が同志である大学教授・相模欣也などに公私共々助けてもらったのであるが、「家族」と呼べる存在と長らく食事を共にしていなかった。
 いつも、どうしてもその空虚感だけは埋めることができずにいたのである。

「この子が、僕の新たな『家族』――」

 たとえ彼女を保護するための、形式上のものといっても。
 異世界来訪2日目、幼妻から振る舞われた食事は、『家族』というものの温もりを思い出させるには充分であった。
 
 彼の目から涙がこぼれ落ちる。どうしたらいいかわからず困惑する幼妻。

「……ト、トエサトン・タセト(どうしたんですか)……?」

 テーブルで言葉を失いうつむく主人を、目と鼻の先まで顔を近づけて案じるソエラ。

「ご、ごめん……!」

 それに気がついたツネは、オーバーにのけぞる。まだ幼い少女のアクションにまだ慣れることができないらしい。

「……もう、大丈夫……と、トアショエぺ(だいじょうぶ)」

 涙を拭うツネ。
 その時、彼女の無色素な髪の隙間から覗くあるものの形が人ならざることに気がついたのであった。それは――

「……エルフ……?」

 口をついて出ざるを得なかったであろう驚き。
 日本型ファンタジーではすっかり定番化されたような、先端の尖った形。

 しかしながら、定番化したといってもそれはフィクションの中での話であって、現実に見かけたらぎょっとするのもやむなしというもの。
 異世界だから、そりゃあエルフのひとりやふたりいたところで……どうりで人間離れした容貌をしているわけだ……等々、さまざまな思いがツネの脳内を行き交う。
 
 
 そんな時であった。
 ――コンコン。


 ノック音と共にこの新居の住人を呼ぶ声が聞こえる。朝から騒がしい。

「ヨオ! ツネちゃん、起きてるぅぅ?」

 声の主は、西風舘小鳥。
 この上司、いくら本社の目が届きにくい異世界とはいえ2日目にしてくだけすぎである。ツネはなかば呆れながら、けだるげに扉を開ける。

「オハヨエ(おはよう)! よく寝られた?」
「ええ、おかげさまで目が覚めましたよ」

「そんなあからさまに邪険にしなくてもいいんじゃない? 一応これでも上司よ、上司。ん……この匂いはトマトね? ふぅん、なるほどねぇ」

「……なんですか先輩」

「これはあくまでトリビアとして聞いてほしいんだけど。トマトは南米からヨーロッパに持ち込まれた作物でね。当初は観賞用が主で、時には愛のリンゴと呼ばれ媚薬としても用いられたのよ」

「び、媚薬!?」

「そうよぉ。んふふ、ただのトリビアだけどね、ただの」
「またそうやって僕をからかって!」
「あ、わかっちゃった?」
「わかりますよそれくらい……! そんな話をしに来たんですか?」
「もちろん! バチコーン☆」
「……じゃあそういうことで」
「こら、こら……ぐぎぎ、閉めようとしない。悪かったわよ夫婦水入らずのところ邪魔して」
「……」
「わかった、わかったわよう。仕事よ仕事」


 それまでのくだけた態度をピシッと整える西風舘小鳥。
 日本人にとって前人未到だったこの異世界で、そうツネと年は変わらないはずなのに局長であるのだから、仕事となれば有能なのであろう。
 スイッチオンオフの切り替えが早い。
 人懐っこい口調こそそのままであるが、目は笑っていない。

「今日はキミにこの街――テラレトエンを案内しようと思ってね。フィールドワークのためには、一日でも早くこの地に馴染んだほうがいいでしょ?」

 これ以上立ち話しちゃったらせっかく新婦が腕によりをかけたスープが冷めちゃうからね。そのご飯を食べて片付けたら出発よ、とツネに食卓に戻るよう促すと、そのまま家に上がってくる。

「ちょっと、何ナチュラルに住居侵入してるんですか」
「いいじゃない細かいこたぁ。ほらほら冷めちゃうわよ」

 まったくこの人は、どうしても少し苦手だ――そう思いつつも、確かにせっかく作ってくれたものをそのままにするなんてツネには考えられなかった。先輩と2人でテーブルにつく。

「あ、ソエラちゃんおはよ。今日もカワイイわね」
「お……オラコトエ・コトアモセ(ありがとうございます)……」

 主語や付属語がわからなくとも、カワイイという部分はしっかり伝わったようで、ソエラは恥ずかしそうにする。

「なんだか妹ができたみたいでかわいいわぁ。あ、ついでにパンひとつくださいな」

 後輩の家に勝手に上がり込んで朝食を無心する上司ェ。


 それにしても、妹――か。

 
 そういえば、とツネは向こうの世界の知り合いを思い出していたようだ。
 乙訓(おとくに)法子(ほうこ)の妹・珠海(たまみ)ちゃん。
 世話の焼ける姉にかかりっきりで妹のほうには何も言わずにこちらに出てきてしまったことに気づいて、少々バツの悪さを覚えた。

 加えて、ツネはこの小鳥という人の雰囲気に既視感を感じていたのだが、その正体にも今気づいたようである。

 この女性、ほーちゃんに似ている――見るからに家事ダメそうなところもそっくりである。女らしさとは、とツネが深く考えたくなるくらいに豪快に口を開けてパンを平らげた。

「はぁー、実は朝食食べてなかったのよね。助かったわ、ありがとう。ソエラちゃんはちゃんと朝食摂った? チョエショケ・トット?」

 ソエラは彼の方を一瞬チラッと申し訳なさげに見たあと、控えめに首を横に振る。それを感づかれたくはなかった、といったようである。

「ダメよぉ。あなたも行くんだから。トマ・ヨ。オノト・モ・アケン・トコロ」

「え゛」

 そんな話聞いてなかった。といったふうに、2人は一様に驚く。
 小鳥の目は笑っていなかった。仕事モードのスイッチが点いたとみえる。


「……昨日も話したかもしれないけれど」


 『サロ』の少女は差別の対象となっている。この一帯は比較的安全とはいえ、彼女一人では何が起こるかわからない。そんな彼女の話を、ソエラはうつむき震えながら聞いていた。そんな少女を案じて、つとめて穏やかに語りかける。

「安心して。我々はテラレ神の御使いと認められているから、テラレ族庶民はそうそう手を出せないわ。かえって私たちと一緒に外へ出たほうが安全なのよ。それにね」

「……それに?」

 ツネは次の言葉を固唾を呑んで待つ。

「新婚ホヤホヤの2人をいきなり引き離すなんてしちゃかわいそうだし? あたしのことはそこらへんのモブだと思って、もう馬車でバンバンイチャついていいのよ☆」

 ツネはコロコロ変わる先輩のテンションにガクリと脱力する。

「しませんよ! またからかって……!」
「とまあ、そういうわけだから。悪いわね。あたしは馬車を待たせてあるから、いったん出るけど。松岡君、彼女と一緒に来るのよ?」


 小鳥は用件だけ伝えて、そのままその場をあとにした。
 嵐のように現れて去る、というのはこのこと。
 ツネにはすでに疲労感が重くのしかかっていることであろう。心中お察しする。

 ツネは、朝食の片付けを済ませたソエラと共に、小鳥の元へ向かった。
 
 聞いていたとおりに、馬車を家の前の通路につけて待機していた。
 ファンタジーに出てくる馬車といわれてよく思い浮かべるような、幌(ほろ)という厚い布で覆われた大きな四輪車であった。

「あ、来たわね。あ、この人は現地テラレ族のコマ。うち専属の御者なんで、あたしがいない時でもどんどん使ってやってちょうだい」

「うっす! コマっす! あなたが松岡様ですね。お話には聞いているっす! よろしくっす!」

「あ、ど、どうも……」

 流暢な日本語、ではあるが……またえらく元気で、恰幅のよい男性だ……と、ツネはその体育会的テンションに圧倒される。
 小鳥にお似合いかもしれない、とツネは思ったが、それはあえて心の奥底にとどめておくことにした。

「どう、この馬車? 立派でしょ?」
「はい、そうですね」

 ツネは素直に感心していた。馬車に乗ることなんてめったにできない体験だけに、ひそかに心躍らせていた。

「見ての通り外からは見えにくい構造になってるから。思うままにイチャつきなさい! あ、あたしにお構いなく! バチコーン☆」

「だから! しませんって! そうやってまたからかう!」
「ふふ、冗談よ。さっそく乗って。行きましょう」


 このようなやりとりのあと、御者コマが後方3人の乗る車両を走らせはじめる。
 側面の窓となっているところをめくると、街の様子を落ち着いて眺めることができた。彼は昔から他人の車なり電車なりから風景を見るのが好きだということもあってか、こどものように身を乗り出して新しく出逢う風景に見入っていた。

「……はぁ。松岡くん、キミは団子より花のタイプなのね」

 小鳥からしてみれば、新婚なんだから奥さんを見てあげたほうがいいのでは、と案じていたところなのであろうが――同乗する少女も彼と同じように外の様子に見入っていたのを見てぽつりとつぶやいた。

「まあ、いいか……心配するまでもない、かな」

 馬車の中の時間は、穏やかに過ぎていった。


2 オコ(紅)

 ――王都・テラレトエン北部ヘンマン地区
 
 さながらヨーロッパ旧市街の名残を抱かせる佇まいが整然と並ぶ。
 日本人が憧れるような、中世から近代にかけてのヨーロッパ像に影響された異世界の姿をそのままそこに持ってきた形である。
 王国の大部分を構成する南洋的なデザインなどとは清々しいほどに無縁であった。
 『テラー王国』と通商関係が開かれた直後から赴任している人もいる。
 多少の不便さがあろうがこんな風景の街に住めるならば、異世界暮らしに心地よさを感じるあまりここから出たくなくなる気持ちも沸くというものであろう。
 
 そう、NTB職員である藤井にネタにされていたあの上司のように。

 車も持っているのになぜあえて馬車なのか――とツネが聞いたところ小鳥はこう回答した。

「国王はテラレ文化の再興を第一に考えているので、彼らの文明に根ざしていない技術である自動車のむやみな導入は見送られたみたいね」

 ――その一方で積極的に活用されているうちらの現代的技術もあるけれど、と付け加えられた。テラレ部族には極薄携帯端末のフィルムメディアが普及しており、Wi-Fi環境などではむしろ日本より発達しているのだという。

「ほんとだ……信じられない。普通にネットができる」

 ツネにはまずそれが驚きであった。
 王が転生者ということもあり、決して現代文明にまったく無知な存在ではなく、まして『未開』であろうはずもなかった。

「まあ異世界という関係上、どうしても向こうとつながることはできないけどね。でもこの異世界とどうつながっているのか、そもそもこの世界はなんなのか。それがわかりさえすれば、充分実用可能なはずよ」

 あたしには難しいことはわからないけどね、とおどけてみせる小鳥。

「パンジーだ。こんなところにも」

 スミレ科スミレ属パンジー。
 異世界の入り口でツネたちを迎え入れた色鮮やかな風景であるが、当然、首府テラレトエンにもある。

 高名な文化人類学者クロード・レヴィ・ストロースの著作『悲しき熱帯』表紙に描かれたのは、サンシキスミレ。
 同じスミレ科として量産に適したパンジーが異世界『オ・アエセ』の象徴的な花となっているのは、なんだかツネにとっては示唆的に感じられたようである。
 


「いろんな色があるね。えと……アロンノ・アロコ・オレナ? ソエラ」

 彼は無言のまま隣で眺めている少女に声をかける。
 彼なりの、精一杯のコミュニケーションなのであろう。
 それ自体は非常に微笑ましいものである。

「――? アロ(色)? ……そ、ソエタセナ(そうですね)……」

 少女はたどたどしく答える。
 このなんでもなさそうなやり取りに、小鳥の表情が一転して険しくなる。

「……引き返すわ。コマ!」

 そうかと思えば、幌の外に頭を出して、大きな声で御者《ぎょしゃ》に指示を送った。

「おっす! 姐さん、どうしたんすか?」
「忘れ物よ。引き返すわ。今すぐ」

 ただならぬ雰囲気を感じ取ったツネがおそるおそる小鳥に尋ねる。

「ど、どうしたんですか?」

「いくらなんでも、と思ってたけど、杞憂とはいかなかったわ。引き返すわ。あるものを取りに行く」

「あるもの……?」
「コンタクトよ」

 いまいちピンと来ず、疑問符を浮かべ座り尽くしているツネをよそに、ずいっとソエラに顔を近づけて、二言か三言、何かを聞いていたようである。
 小鳥の顔は険しさを増すばかりであった。

「あの、さっきからいったい何が……?」

「『サロ』の少女には色覚異常があるのよ。しかも、かなり特殊な、ね。白い髪に素肌、見るものを嫉妬させる美貌――これらの特質よりも、差別の根源にあるものよ」

「差別の、根源……!?」

「そう、彼女たち『サロ』はすべての風景が白と黒の濃淡――モノクロにしか映っていない。ただし、あるものを除いてね」

「あるもの、それは……?」


「生き物の、血よ」

 ツネ――松岡常一が所属する、コンタクトレンズメーカーとして有名なメニアイルホールディングス。

 今はそれ以外でも、携帯端末を薄くする特許を持っているおかげで極細携帯端末・フィルムメディアと呼ばれる分野でも世界的に高い地位を占めるてはいるものの……なぜ直接異世界への事業などに参画するのか。
 
 その理由としてこの『サロ』特有の色覚異常が大きく絡んでおり、同時にメニアイルがこの異世界で大きな地位を占めている説明になるであろう。

 ともあれ、広大な王の都・テラレトエンへ向かっていたツネたち一行であったが、急遽引き返すこととなった。
 

「……血?」

 いきなり物騒な話になる。
 『サロ』の少女・ソエラはただ無言でうつむくばかりであった。

「そう。彼女たち『サロ』は生き物に流れる血液の色がぼんやり透けて見えるそうよ。さながら血液の流れだけが赤く映るレントゲン写真のようにね」

「……そ、そうなんですか?」

 その話をどんな理屈で受け入れようとしても、特に血に見慣れているわけではない男の彼は、生理的にこう感じているようであった。
 
 気持ち悪い――
 
 その嫌悪感そのものは、ヒトの痛みに対する防衛機制がきちんと働いているということである。彼を責めても仕方あるまい。

 問題は、それでも、とその先を知ろうとすることができるかである。

 グロテスク耐性のない人だっている。避けるのもやむをえない。
 新婚間もない彼は『サロ』の秘密を聞いても、それでも、といえる人であるか。
 異世界生活、いきなりの試練である。


「そして生物の身体から流れた血液は、彼女たちにとって唯一の色彩。耐え難く美しく映るみたいね。紅い『色彩』は死期の色で『死期彩』。テラレの部族は死期を見通し、死を呼び寄せる『オナ』――オンナともいうわね――『鬼』として忌み嫌うのよ」

「そ、そんな……! でもそれは生まれつきでしょ? そんなの迷信じゃ」

「そうね。あたしたち部外者なら、そうも片付けられるでしょうね。だけど、テラレ族は一度エオ族の大侵略を受けて壊滅している。その災いを招いたのは彼女たちのせいだ、とでもしないと異民族から受ける屈辱と無念のやり場がなかったのでしょう」

「……悲しすぎる」

 そういう防衛機制は、歴史上よく見られる。
 自分たちではどうすることもできない理不尽から目を逸らすためには、虐げられてしかるべき「とされる」最下層の存在を創作する必要があった。
 
 その最下層の存在とされるのが――『サロ』である。

 当事者でない立場で聞くのならば、神話の成り立ちをうかがい知ることのできる、学問的興味にあふれる話なのであろう。

 けれど松岡常一は、今ここでは当事者である。
 とても客観的な気分で聞いていられる話ではなかった。

 そしてそれは、ツネ以上に、ソエラにとっても。
 少女は怯えて、ふたりを避けるように目を合わせようとしない。

 想像以上にヘビーな話に馬車という狭い場は重苦しく軋んで、いたたまれなさを感じずにはいられなかった。


 そんな陰惨な歴史のフタを開けたのが小鳥であるならば、それを閉じて平穏をもたらすのもまた小鳥であった。抑揚は上がり、語り口は明朗になる。


「でも、そんな歴史も終わったのよ。あの転生した英雄王と、その御使いたるあたしたちによってね。これまでの話で、聡明なキミならわかるはずよ。あたしたちコンタクトレンズメーカーの出番でしょう?」

「……あっ!」

 やっぱり、と脳内で相槌を打つツネ。

「そう、あたしたちがメニアイルがそれを克服して通常と同じ色彩で見ることのできるレンズの製造に成功したのよ! 見たか! 目に感動体験を――メニアイルは『目に愛涙(あいる)』と書くのよ、ふふんっ☆」

 西風舘小鳥、なぜかここでドヤる。
 いや、それは新入社員とはいえツネも当然承知しているはず……
 
 一通り説明が終わったところで、縮こまっていたソエラの眼前でしゃがみ込み、屈託なく笑う。

「だから、大丈夫なのよ。トアショエペ」


 ソエラの不安は、取り除けたのだろうか。
 ――それは、直後伝った涙と、笑顔を見れば一目瞭然というものであった。

 よかった……と、小鳥とツネ、どちらが先ともなくつぶやく。

「そろそろ着くっすよ! ヘンマンに!」 

 御者が大きな声で伝える。
 先程まで耐えられなかった軋みでさえゆりかごのように心地よく、幌の隙間には明るい日射しが差し込むのであった。

3 アウラ

 ツネ――松岡常一の上司である西風舘(ならいだて)小鳥――メニアイル異世界テラレトエン局長。
 彼女が普段暮らしている広大な邸宅に到着した。
 白い壁と青い屋根で彩られた内装が美しい。ツネなどに割り当てられたほかのヘンマン地区社宅とは明らかに一線を画すデザインであった。

「サントリーニ島……ですか?」

「そう! やっぱりわかってくれた? あのエーゲ海の幻想的な雰囲気が好きでね。将来絶対あんな家に住んでみたいと思ってたのよぉ。あ、あの高い山に囲まれているというところは除いてね」

 ツネは苦笑いした。
 要はいいところ取りしたいということである。よくも悪くも、日本的だ。
 
 ほかは素朴な旧ヨーロッパ的雰囲気で揃えてあるのにここだけ異彩を放っている。サントリーニ島が美しいのはあの青と白の景観が統一されてみごとに断崖絶壁と調和しているからであって。
 それっぽいのがひとつポツリとあったところでそれ自体が美しくても悪趣味……という率直な感想は、あえて言わないでおいたらしい。懸命な判断である。

 ツネやほかの人に割り当てられた社宅より圧倒的に建物も敷地も大きいのは、馬を育てるための厩舎を備えているからである。事実上、彼女の住まいがメニアイル支部局のような役割を果たしている。

 ツネら一行は王都テラレトエンの中心に向かおうとしていたわけであるが、ある特殊なコンタクトレンズを取りに、わざわざ引き返して来たのであった。


 ところでそのレンズは『アウラ』――異世界語で云うと『オエロ』というらしい。

 おエロ。
 なんだか色々と楽しい景色が見られそうな語感をしているではないか。
 変換した時なぜか面白い音感になる。テラレ語の妙である。
 マジメな話をするとこれはヴァルター・ベンヤミンの重要な概念から採用された、きわめて学術的な由来のある商号なのであるが、それは本題と外れるとして。
 小鳥はソエラと共に馬車を降りる。

「松岡くん。キミはここに残ってて。ちょっとソエラちゃん借りていくわね」
「え? は、はあ」

 間の抜けた返答。

「ついでに色々と、あたしが手ほどきしてあげるわ。色々と、ね……」

 妖しく微笑んで、小鳥は鼻歌交じりにソエラとふたり巨大な住宅に吸い寄せられるように入っていった。

 
 小鳥の邸宅の奥に彼女個人の部屋があった。
 普段は接しやすいくだけた性格をしているから忘れやすいが、元は深窓の令嬢として育った女性である。個人の部屋にも、それとはっきりとわかるような高価なもので敷き詰められていた。

 かたやソエラは身寄りがなく、一人部屋でこれほど広い場所に入ったことなど一度もなかったと思われる。用意されていた座席にちょこんと収まりながら、あまりもの豪勢さと広さに放心していた。

 なおこの小鳥とソエラのやり取りは本来すべてテラレ語で行われているが、わかりやすくするためすべて日本語に直していることを先にご了承いただきたい。


「おまたせ。顔を洗ってスッキリした? ささ、こっちの化粧台の前に座って」

 小鳥は何やら別の部屋から持ってきたものをいくつか化粧台の上に置く。
 うながされて、ソエラはよくわからないままに白いドレッサーの前に腰掛けた。
 まず彼女の興味をひいたのは、目の前にある鏡であった。

「これは……?」
「ああ、見たことない? 鏡っていうのよ」
「鏡……」
「不思議でしょう。自分自身を見るっていう感覚」
「……」
「自分の顔は、嫌い? 好き?」
「……よく、わかりません……そんなこと、考えたこと……でも」
「うんうん……でも?」

「わたしはみんなから嫌われているから、この顔も、髪も――肌も。きっと……よくないんだと思います」

 それまでにこやかに聞いていた小鳥は、笑顔のままで、やんわりと否定する。

「……それは違うわ。ソエラちゃん。あなたは美しい」
「……そ、そんなこと、ない……わたしは……ひゃぁっ!」

 小鳥は両手でソエラの長く伸びた後ろ髪を梳き上げる。
 メラニン色素のみられない真っ白な髪がふわりと舞う。

「そんなことあるの。ソエラちゃんはせっかくキレイなのに、何もおしゃれをしてないなんてもったいないわ。ああどうにかしたい! っていうあたしの中の女子力がどうにかなっちゃいそう」

 ソエラはきょとんとしていた。彼女にとっては聞いたこともなければ意識したこともない単語であった。

「女子、力……?」

「そうよ。男は心を飾り、女は体を飾るのよ。いつまでも美しくありたい。美しく見られたい。愛する人になら、なおさらに――ね」

「愛する、人……」

 ソエラは膝の上に重ねていたみずからの手をきゅっと締める。

「正直あなたすごいのよ。あのおっかない託児官たちすら振り切ってここまで来た。しかもその理由はたった一度、しかもついさっき逢ったばかりの人を追いかけたかったから……って。どうしてそこまでしようと思ったの?」

「……どうして、でしょうか。わたしにも、よくわからないんです。でも、わたしはここから出てあの人を追いかけなきゃならない。それだけは、強く、思ったんです」

「……そう。やっぱり、すごいわ。わたしはやっとの思いでトリカゴから逃げたつもりだったけど、もっと大きなものからはいまだのがれられずにいるもの」

「……?」

 ソエラが首をかしげる。小鳥はしまった、という表情を一瞬だけ見せたのち、笑顔を作り直す。

「あ、ごめん。関係ない話だったわね」
「いえ、ふふふ……」
「笑った。どうしたの?」
「いえ、すみません。……そうやって謝るところが、似てると思って」
「ああ、アイツに? 本当に……好きなのね」

「――! そう……なんでしょうか……」

 ソエラの白い顔がほのかに色づく。慈しむような目で、小鳥はいじらしい少女を見つめる。

「いいのよ。女はそれで。さ、これを目の中に入れるのよ」

 そう言って小鳥はコンタクトレンズの入った容器をスッと差し出し、ジェスチャーで手本を見せる。ソエラは自分の身体に異物を入れるということ自体考えたこともなかったようで、すっかり萎縮してしまっていた。

「そ、それは……硬いものですか? そ、そんなものを、中に……!?」
「最初は怖いかもしれないけど……大丈夫、すぐ慣れるわ。あなた自身で入れるの」
「で、でも……」

 不安で泣き出しそうになっているソエラの両手に、小鳥はそっと手を添える。

「あたしを信じて。……あなたの見える世界が、きっと幸せな色に変わるはずよ。あなたの好きな人と同じ景色が、これで見えるわ」
「同じ……景色……」

 小鳥の後押しに、ついにソエラも意を決する。

「……わかりました……させてください」

「よく言ったわ。エラいわね。いきなりだと痛いから、しっかりと濡らすのよ……そうそう。もう入れても大丈夫ね。じゃあまずはここをパカっと広げて……」

「……こ、こうですか?」

「そうよ。しっかり入れやすいように……それからこれをあてがって……」

「ん……んぅっ……こ、これでいいですか?」

「怖かっただろうに、よく頑張ったわね。ならもう片方も……いけるわね?」

「は、はい……いきなり両方なんて怖いですけど……でも、少し、楽しみです」
「その調子……はじめてなのに、うまいわ」


「………! な、なに……これ……!」


 ソエラは初めて見る景色に、思わず声も出なくなった。


「見える? それが新しい、極彩色の世界よ」


 彼女は、これまでに見たことのないほどにむき出しで、ありのままの笑顔を、新たな世界に向ける。

「わああ……! あれも、これも、それも! みんな、違う! こんなに……色っていうのが見るものを変えてくれるなんて――!」

 無邪気な心からの感動が、小鳥にはまばゆかった。

「どう? これがメニアイルの技術を総動員した、超々極薄フィルムメディア内蔵型コンタクトレンズ・『アウラ』! ソエラちゃん、今あなたの目にはあたしやツネとほぼ同じ、原色の風景が映っているはずよ」

「……あの人と……同じ」

「これであなたを差別する大きな要素は根拠を完全に失った。偏見は根強く残るでしょうけれど、ツネが、そしてあたしが。守ってあげるから。共に進んでいこうね」

「……はい! ありがとうございます……!」

 心なしか、彼女の声色も明るくなっているように小鳥には感じられた。


「おっ、ちょっと明るくなったわね。化粧のノリもよくなるってもんよ」

「化粧?」

「そうよ。頑張ったご褒美に、今からちょっとあなたを変えてあげるわ。少女から、大人の女へね」

「……大人の……」

 少女はみずからの胸が高鳴るのを、はっきりと感じていた。

「肌に塗るものは水分の多いものから順番に、そして油分の多いものを。サラサラからヌルヌルへ、と覚えるといいわ。……まずは化粧水と美容液をよく吸い込ませて……ついで乳液。最後にクリーム」

 実に慣れた手つきで少女の肌に、彼女にとって未知のものであろうさまざまな化粧品を、やさしく撫で回しながら施していく。

「下地を整えて……それからファンデは……正味あなたほど元が白い人ってそうそういないから、衝動で買ったものの地肌との差がアレすぎて埋もれてたヤツ使うわね」

 まさかこんなところで役立つなんて……などとブツブツ言いながらも、素早くも的確に化粧品を扱うさまは、流石に育ちのよさを感じさせる。

「こ、こんなに色々、塗るんですか?」

「まあ、ソエラちゃん地がいいし若いから、正味お化粧なんて覚えなくてもいい年齢。そのままでも充分ちゃあ充分なんだけどねぐぎぎ……あっ、今のは気にしないで。まあ今回は特別ってことで。すぐに覚える必要はないわ」

「そ、そうですか……」
「まあ見てなさい。お姉さんプロの腕前を見せちゃうぞ☆ キラッ☆」
「は、はぁ……」

「ちょっと目元を失礼して……よし。じゃああとは口紅なんだけど……こどもだし、色白だし……クドくないように……うん、完璧ね。できた! どう?」

 長い時間をかけて化粧を終えたソエラであったが、正直なところ困惑していた。

「……ごめんなさい、よく、わからないです」

 どう言えば喜んでもらえるかどうかはわかっていたが、果たしてそれは正解かどうかと問われば、今は正直な感想を求められているのだろう――とこども心に色々と考えていたようである。

「う、うぉぉおぅ??? ……そ、そう……。ま、まあ今までやったことないんじゃあわからないわよね。ともあれ、おつかれさま。長い間そのまま座らせちゃってごめんね。疲れてない?」

「い、いえ……大丈夫です」

 彼女はつとめて悟られないようにしていたが、眠気をつねに抑えようとしていたのを小鳥は見逃さなかった。おそらくはあまり寝られなかったのだろうと見当をつけることは容易い。だけど、今ここで指摘することはあえてしなかった。

「それじゃあ、行こうか。彼もきっと、喜んでくれるわ」

 小鳥はソエラの手を取る。そのまま手をつないで、ふたりは青と白で塗り固められた邸宅をあとにした。



 その頃、ツネ――松岡常一はといえば。

「ト、トア……ショエ、えーと濁音は半濁音に。でウはエ段に変換して……」

 小鳥からもらった発音規則表とにらめっこしていた。

「それから、オラコトエ……これはア段をオ段だからオなんであって……」

 口に出しながら、一秒でも早くテラレ語の発音規則を頭に叩き込もうという練習に余念がなかった。共に待機している御者のコマはそんなツネの様子をただ見守っていた。

「勉強熱心だなぁ……オラとはエラい違いっす」


 そうこうしているうちに、小鳥とソエラが準備を終えて待機していたふたりの元へと戻ってきた。はじめツネはあまりにも集中していたのでふたりのことには気が付かなかったのであるが――

「オ(あ)、オノ(あの)……ッ!」

 少女の、めいっぱいの呼びかけ。そこで彼はやっと、自分の胴体ほどの背丈しかない少女の気配を察知したのであった。

「戻ってきたわよ。んで、何か気がつかない?」

 小鳥に言われてツネは改めて、契約上婚姻関係にある幼い少女と顔を合わせる。

 遠慮がちに佇んでいたのは――少女、というにはあまりにも次元の違った何者か。あらゆる不純物を取り払った作り物と錯覚してしまいそうなほどに綺麗だった。

「ほら、なんか言いなさいよ、新郎さん。それとも奥さんが美人すぎて、何も言えないかい?」
「……」
「お、おぉい? うぉぉい? 生きてるか? 生きてるか~~?」
「……」
「ダメだ、固まってる。こりゃ重症だわ」

 ソエラは反応のないことへの不安こそあったが、それ以上に。
 
 世界、なかんずく想い人の姿がこれまでになく豊かな色でそこにある。ということを知覚できることが、何よりも嬉しいのであった。

 今度はソエラのほうから、ツネの手を取った。

「アコエ(行こう)! ツネ!」

 まばゆいばかりの少女の笑顔に、彼の胸は高鳴りっぱなしであった。 

「……っ、ほんとに、キミは……!」


 ツネとソエラ。
 ふたりはお互いにとって、たしかに前とまるで違っていた。
 

4 オモヨトラ(雨宿り)

 先の行路では、揺れる花びらと街の絶景が見事に重なり合うテラー王国の風景に魅入られていたツネ――松岡常一であったが、今回はといえば身近に咲く花のほうが気になっている様子であった。

 一方の少女はというと、である。そんな男心を知ってか知らずか、しきりに外のいろいろなものの色についてひたすら尋ねてくる。

「ツネ! オラ・ノ・アロホ・ノナ(あれの色はなに)?」
「ナ(ね)? オノ・ホノホ(あの花は)?」

 少女は新たなものを知る喜びで、身体が密着していることなんか気にも留めない。

 少女の身体は確かに未発達であるが、さりとて女性らしい魅力に欠けているというわけではない。
 なだらかな膨らみを持つ有機体がふわふわとした弾性を返すのが、彼にはありありとわかった。断言しよう、天保山も確かに山なのである。

 目を合わせれば彼の顔面は瞬間湯沸かし器のように沸騰してしまいそうになる。
 だからうまく目を合わせることもできず、泳ぐ焦点。
 屈託なく好奇心をさらけ出す少女が指さしたものがなんであるかを追うことでなんとか誤魔化しているという有様である。

「……ロリコン」
「だから! 違いますって!」

 一行は再び超巨大首都圏テラレトエンの中心部を目指していた。
 やがてシャエキエという一角に差し掛かったところで、突然の大雨に見舞われてしまう。

「困ったっすね、一度付近の村に立ち寄って雨宿りとするっすか?」

 一行は御者の提案を全面的に受け入れることにした。
 エオ族は水の属性を持っていたらしく、雨は滅ぼされたエオ族の涙であるとも、呪いであるともされている。

 なおテラー族は水に強い土と石の属性であると言われるが、赤と火、厄災の象徴であるといわれた『サロ』に乗っ取られた結果、水に弱いエオ族によってたやすく滅ぼされてしまったという『迷信』がまかり通っている。

 ほどなくして、ノトほどの規模の小さな住宅街に到着した。
 宿屋もきちんとある。
 
 とはいえ木造2階建ての簡易的な施設である。トイレとお風呂は共同。
 一部屋あたり三畳あるかどうか、本当に寝るだけという狭苦しいものであった。
 けれどバックパッカーとして、日頃困窮したフィールドワークをしていたツネからすれば、むしろこのくらいの宿に泊まれるだけで正直ありがたいというもの。
 もっとも、そんな無茶は法子や教授のいない一人の時限定であったが。

「仕方ないか。今日はいったんここで寝泊まりしましょう」

 小鳥の決定に一行は従う。
 宿屋の人が『サロ』の少女を一目見るなり顔をひきつらせ数歩後ずさりしたのを見たツネは、差別の根深さを感じずにはいられなかった。

「そうですね。と、ところで、部屋は……」
「決まってるじゃない。キミら夫婦は相部屋よ」

「は!!!???」

 思わず大きな声をあげてしまうツネ。
 小鳥はお構いなしとばかりにパパっと御者のコマに指示を出していく。

「あ、あのそれはいくらなんでも」
「なに? 静かにしてよ。不満なの?」
「い、いや僕じゃなくて彼女の心配をですね」

「は? むしろ一人にしておく方が心配じゃないの。新婚なんだからいいじゃない。あ、でもテラレの決まりでは一線を超えちゃダメだから、ムラムラしても襲っちゃダメだからね? バチコーン☆」

「お、襲……し、しませんよ! こんな幼い子に!」

 そうだそうだ、Yes ロリータ No タッチ。

「そうだと思ってるわ。キミはロリコンだけどそのへんは信用してるからね☆」
「はぁ……だからロリコンじゃないと……」
「え、じゃあもしかしてあたしのことを……!? よ、夜這いはダメよ! 若いからってそんな、欲望のままだなんて!」
「……まったく。しませんって。というか先輩だって若いでしょ」
「あら、ありがと。にしても、噂にたがわぬ草食系ねぇ」
「そういう反応も飽きましたよ……慎重に越したことはないでしょう?」


 ツネも性的なことに興味がない、というわけではない。
 けれどそういうことはやっぱり結婚を前提に……といういささか古風な考え方を持つ青年であった。

 少子高齢化で若者の取り分がどんどん減っている中、結婚してこどもを作って、というライフスタイルを描くことには相応のリスクがつきまとう。
 貧乏な自分はそんなことに興ずる権利もない。
 少なくとも稼ぎが安定しない限りは――とまあ、そのように考え、あえて避けているようなフシもある。

 それは、互いに同じ部屋で寝泊まりするほどに気を許しながら特に付き合っているわけでもない、という乙訓(おとくに)法子(ほうこ)との関係性に顕著であろう。
 まあおかげで法子は数年にわたり生殺し状態なわけであり、彼も引け目を感じているのであるが。しかも彼女のあずかり知らぬところで形式上とはいえ、幼い子と結婚までしてしまった。

「自分だけがいい思いをしてはいけないですから」

 と、そのような心理的ブレーキも作用しているようである。

「……マジメね。でも、だからこそキミが選ばれたんだけどね」
「――? それはどういう……」

「なんでもないわ。ともかくソエラちゃんをよろしくね、新郎さん! 夕食後はそれぞれの部屋で各自就寝。お風呂はそうね、客はあたし達だけみたいだし、コマから順番に、最後は松岡君とソエラちゃんペアで。朝は6時に起きて集合ね。それじゃ」

 要件だけパパっと述べて、そのままツネとソエラの部屋の隣へと入ってしまった。
上司の西風舘小鳥は一度決めたと思えばテコでも動かない。
 たかだか数日共に過ごしただけであるが、ツネはだいたい察するようになった。

「はぁ……」

 彼は深いため息をつく。そんな彼のことを心配そうに見つめているのは、白髪の妖精・ソエラ。不安にさせてしまっていることに気づいた彼は笑顔に切り替えた。

「ごめんごめん、大丈夫だよ。と、トアショエペ」

 ソエラは彼の右側をちょこちょこと歩く。ふたりはようやく、自分たちに割り当てられた部屋へと入っていくのであった。



 わずかな通り道のようなスペース以外は本当にベッドしかないような狭苦しい部屋へ入ってからのふたりは、ソエラの興味の向くまま、ツネが色について教えていた。

 ソエラはフィルムメディアを所持したことがないらしく、もの珍しがった。

「ケアロ(黄色)! チョアロ(茶色)! オコ(赤)! エオ(青)!」

 ツネは対応表のメモを片手に、そしてもう一方で音声補助とを駆使しながらフィルムメディアを使ってせわしなく操作する。彼の操作でフィルムメディアが映すものが変わるたびに、ソエラは喜んだ。

 ベッドの上に座った彼の、膝の上に彼女がすっぽりと収まっている。両方の腕で彼女を覆っているような形である。
 
 彼は今、こどもとじゃれるような感覚で接しているのであろうか? 
 それとも、恋人のように? 
 であるとすればなかなかに進んだ関係性でないと取れないような姿勢のはず。
 ……少なくとも彼女が心からの笑顔を見せるのは、知的興奮のせいだけではないのは明白であった。

 ノックする音がしたので、ツネが立ち上がって扉を開ける。
 その先にいたのは西風舘小鳥であった。
 ほのかに上気した頬に、身体から沸き立つ湯気。美しく垂れ下がる髪。本来の育ちを思わせる姿に、ツネは思わず見入ってしまう。

「先にお風呂あがったわよ。じゃあ次はキミたちね」

 時間が過ぎるのを忘れてしまっていたらしい二人に対して、小鳥はこれまでの調子でからかってみせる。

「……ああ、ついにあたしの魅力に気付いちゃった?」
「いえ。黙ってればキレイなのにな、と思っただけです」
「余計な一言はいらないと思うんだけど?」

 彼も適当ないなし方を覚えてきたようである。

「まあいいわ。ふたりでパパッと入ってきなさい」
「……はい? ふたりで?」
「なによ今更。最初にそう言ったはずだけど」
「そ、それはさすがに問題ありません……?」
「だいじょぶだいじょぶ、日本で出版される時はこの部分カットしてあげるから!」
「ほら大丈夫じゃない! というか僕たちをネタにして出版する気なんですか!?」
「だってこんな面白いネタないじゃない」
「いやいやいやいや。そんな個人のプライバシーを売るようなマネは」
「いやむしろここは読者サービスだからカットしちゃいけないわね。というわけで観念しなさい!」
「やですよう!」

「……冗談よ。あたしはキミのサポートをするだけ。キミの書きたいことをキミなりにまとめるといいわ。それが、三度目の転生王ことテラー王陛下のおぼしめしだしね」

「……三度目?」

「細かいことは気にしないの。はいタオル。あ、ソエラちゃん下着ちゃんと準備してね。うん、そう、サトカ(下着)。キミの下着は……ああこれね」

「ちょ、人の荷物を!」
「はいどうぞ、行った行った。お風呂は逃げちゃうわよ」

 小鳥はなかば強引にツネとソエラを外に引っ張り出した。
 いやお風呂は逃げないでしょ、というツッコミすら彼は許してはもらえなかった。

 ――かくして。
 ソエラとツネは成り行き上、一緒にお風呂に入る事となってしまうのであった。


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