テラーの輪転機 異世界部族調査員と開花の少女 第2章 9~11
9 カンカ(禁忌)
異世界『オ・アエセ』4大陸の東側・セトモッケに国を構えるテラレ族。
彼らの習俗は、部族調査員の私から見ても世界に類を見ない特殊性を持った民族であると考える。
テラレ族が、神テラーが転生した姿であると信じられている国王の権威によって、他の文明をはるかに凌ぐ高度な管理社会を築き上げている。
テラレ族は管理社会であると先に述べたが、それはまず少年少女の取り扱いにおいて顕著である。
すべての少年少女は親との定時の面会をのぞき、ほぼずっと『トクサ』と呼ばれる託児院で管理、育成される。これは市民の皆保育制度として、現代の世界に大きな示唆を与えるだろう。
一定の年齢になれば親元の家で過ごすことになるが、彼らの婚姻は早い。基本的に親子の関係性はそれほど濃密ではないといえる。
それよりも重視されるのは夫婦関係だ――
「ふう……」
目の付け根を押さえる。さすがに日中机に座っていたのでは、疲れるというものであろう。ツネ――松岡常一は現在、妻とふたりで暮らす一軒家で、論文用プレゼン資料の作成に追われていた。
彼が異世界へ出張してから、気がつけば3ヶ月が経とうとしていた。
いかに膜――フィルムメディアと呼ばれるまでに端末が小型化・薄型化したといっても、職業研究家にとってはキーボードでの入力が欠かせない。
特にツネはキーボード入力時にカタカタと小気味よく鳴る音が好きで、これでないとどうしても作業が乗らないという、歳不相応に古いタイプの人間であった。
もっとも、単純にそのほうが安いという事情もあることであろうが――
フィルムメディアを立ててかざし、石の壁に特殊な光をあててやると、画面が映し出される。ちょうど暗がりの中で布地に光を当て映像を出すプロジェクターの役割である。
これは学校などの場で見たことのある人が多いと思う。
この技術では特に明かりを消したりしなくてもきれいに映し出される、といったところが技術の進歩といったところであろう。
せわしなく指を動かし、映し出された画面に文字を次々と浮かび上がらせていると、部屋のドアをノックしてひとりの小さな女の子が入ってくる。
「ツネ、おつかれさま。コーヒーです」
ソエラ――彼、松岡常一の妻である。
この3ヶ月でネイティブ同然にまで日本語を使いこなすようになった。
彼は傍らに立つ幼妻からの気遣いを受け取る。
「ありがとう」
彼女は一礼だけして、静かに部屋を下がった。つくづく、気の利く女性である。幼くして良妻賢母の資質を具えている。
おそらくは小鳥から習ったのであろうか、この日もラテアートが添えてある。
今日はハート型。毎度毎度、供された側が飲むのを惜しんでしまいたくなるのも頷ける、かわいらしい遊び心である。
それでも眠気を吹き飛ばすためにすするのであるが――
相変わらず日本で呑むコーヒーの味とまるで変わらないことに、彼は驚いていた。
いや、コーヒーだけではない。
ソエラは毎日腕によりをかけた料理を供してくれるのであるが――あまりにも日本人であるツネの口に合うのである。
洋食をベースにして魔改造された、日本人好みのクセのない味。
異文化の食事ならばひとつやふたつ自分に合わないものがどうしても出てくるはずであろうに、まったくない。それ自体が気持ち悪いくらいである。
まあ日本人に合う味をと研究してくれたのかもしれない。
いつかは研究の対象にしていきたい――とりあえずそう思うことにして、彼は口にするもののことを考えるのはやめたようであった。
今彼が集中しなければいけないのは、目の前の資料であった。
ソエラと3ヶ月、さまざまなところを周った。
はじめはどこに行っても『サロ』の彼女を恐れていたが、根気強く誤解を解いていくうちに、ソエラへの差別はなくなっていった。
あの最初の時以来さしたトラブルもなく、おかげで想像以上にスムーズに多くの調査結果を得ることができた。
その成果を持ち帰って、全世界に公表し本として印刷しなければ――と自らの使命を改めて胸に刻むのであった。
「よし、やるぞ! ……えーと……親族の構造は、と――」
ブツブツ独り言をこぼしながら、彼はキーボードを打つ作業へと戻った。
――親族の構造は、なにぶん特殊だ。
それにはテラレ族特有の婚姻制度が深く関係している。
こどもが徹底した管理におかれる社会であるという説明は先程おこなったが、それと同時にストイックという次元をはるかに超越し、性のあり方そのものが人類史上類を見ないほど徹底した禁欲主義で貫かれている。
テラレ族は、夫婦間で自由に子孫を増やすことが禁じられている。
これは、テラー王の名前を呼ぶことと等しいほどに、重く課されたテラレ族の禁忌なのだ。
かつては医学が未発達であったため、神官の厳粛な監督のもと(!)子孫を増やしていたが、メニアイルホールディングス、アマテラス製薬、神聖会病院グループなどのもたらした先進的技術によって、テラレ族はようやく望んだ形に規範を整えることができたのだった――
それは臭いものにフタをするような禁忌の話ではなく、どこまでも倫理の話であると思っていたから。
彼の上司・西風舘(ならいだて)小鳥からそれを聞かされた時、ツネは驚きを隠せなかった。
「だから言ったでしょ。ここの結婚は形式的だって」
「で、でもいくらエオ族のすべてを否定するためといっても、あまりにも夫婦関係に踏み込み過ぎでは……」
「キミはあのロリっ子と関係を持とうと思ったことはある?」
「なっ!? なななな」
ツネの顔が瞬く間に赤くなる。随分ストレートな聞き方である。
オブラートに包み込むようなまだるっこしいことは嫌いな人だということは彼にもわかっていたけれど。
「そんなこと考えたことも……まだ早いでしょ、早すぎますよ」
「早すぎ、ねぇ……彼女とは一切関係を持てないと思っておいたほうがいいわね」
「一切……!? 僕個人のことはともかくそれで反発は起こらないんですか?」
「市民は、ただれた性的関係が蔓延した結果管理しきれないほど増えすぎ神の不興を買ったからエオ族は滅んだ、と信じているからね。むしろ理性的であるみずからを誇らしく思っているんじゃないかしらね」
「でも、それでも人によっては欲望が抑えられないんじゃ……」
「あら、そうなの? やっぱりキミ、ムッツリなんだ」
「だ・か・ら! 人によっては、って言ってるでしょ!」
――気付けば、いつぞやのそんなやり取りを思い返していた。
「結婚、か……」
彼は天井を見上げ、ぼそりと呟いた。
この日はいつもにまして独り言が多い。
「もし自分たちの子孫さえ思い通りに残せないのなら……それは、結婚と呼べるのだろうか……?」
コーヒーに描かれた白いハートは、もう形が崩れていた。
最初は気にも留めなかったが長く過ごしているうちに、この世界はあまりにも不自然であるように、彼には思えてならなかったようである。
「普通の決まりごととは逆で、テラー王国は、まるで結論が先にあってそれに合わせて世界のルールが造られていったような――……考えても仕方ないか……」
コーヒーのおかげか、この日はいやに目が冴えた。
夜が更けても、休むことなく彼は机に向かい続けるのであった。
10 ココロノコサ(心流し)
ツネ――松岡常一はソエラたちと王国南部・港湾都市ヨエモンへ来ていた。
四大陸の中でも最も小さいと言われる南東のセトモッケではあるが、こちらでいうオーストラリアほどはあるらしく、北部にある首都テラレトエンとは数千キロも離れているそうである。
鉄道などは整備されていないため、陸路では車で行ったとしても数日を要する。
そのため、今回の移動では海路を採った。
なので今回は馬車の運転はなく、コマはお留守番、といったところである。
船はまさしく現代の大型豪華客船そのものであった。
大航海時代を思わせる、木造の帆船は一切なかった。
小鳥いわく、旅行会社NTB所有の船であるそう。
首都テラレトエンの港には大小いくつかの船が停泊している。
ほかの大陸との交流はほぼないに等しく、すべてテラー王国内のものである。
車は普及させず船については最新のものにしているというあたり、テラーの文明観はあいかわらず歪に感じられもしようが、これには『海の民』エオ族の侵入をやすやすと許し滅ぼされた歴史があるからだという。
道中船酔いを抑えるのに必死であったツネに対して、ソエラは元気そのもので、広大な海の風景をもの珍しそうに眺めては年相応の娘のようにはしゃいでいた。
到着してもしばらく気持ちの悪さが抜けなかったツネ。
「は、はぁ……はぁ……まったく、情けないわね……フィールドワーカーとしてこのくらい耐えないでどうするのよ……うぷ」
「せ、先輩……煽ってるつもりでしょうけど説得力ないですよ……」
ツネと小鳥が二人してダウンしていたため、まる一日大人しく宿で休んでいなければならかなった。
翌日。
ゆっくり休んだ一行は満を持して朝早くから宿を発つ。
「まあ雨は降らなそうだけど。あいにくの空模様といったところかしらね」
「そうでしょうか? 僕は、悪くないと思いますよ」
「……ふぅん、なるほどね。そうかも、しれないわね」
今までのフィールドワークでもここまで遠くまで出たことはなかった。
新しいところへ来た驚きと喜びを、彼女はその小さな身体でいっぱいに表現する。
ツネは元々曇り空が好きではなかったが、今は悪くないと感じていたようである。
色白で、陽の光に弱いソエラにとって、わずかしか陽の光が射さないような白く覆われた空こそが、もっとも自由でいられる環境。
太陽と死は直視できない、というのはラ・ロシュフコーの言であるが――
強すぎる光は時としてあまりにも眩しく、つらいのである。
大多数の部族民は周囲数十キロの生活圏から移動しないし、また、フィルムメディアとインターネット網の発達により遠くの人たちとのコミュニケーションができるため、それほど遠くへ行こうというインセンティブが生まれにくい。
なんだか現代日本の若者の消費行動を思わせるような話である。
「異世界に行ってまでそんな話を聞かされるなんて……」
ツネの胸中は複雑であった。
しかし、そのような志向を持っている人たちでも年に三度あるお祭りにはすすんで参加するという。
三つある祭りのうち、もっとも大規模なのが、この海に面した町・ヨエモンで開催される『ココロノコサ(心流し)』と云われる祭りである。
今回ツネたちがこの地にわざわざ足を運んだのも、その様子を仔細に調査し、記録するためであった。
さすがにお祭りとなるとごった返している。多くの露店が立ち並び、活気に満ちている。
「テラレシャエの市場よりも多いですね」
「そうね。元々はエオ族との戦いに勝利したのを祝うと共に、海と川の流れに感謝を捧げ、水神であるエオの神を鎮める、いわば鎮魂祭を起源にしているんだけど……テラレ族側の鎮魂祭は別の三大祭りにあるし、エオ族はもう実質滅んだようなものだしね。その意味は薄れ、もうすっかり思いのまま楽しむための開放的な場という感じね」
いつもよりも南国らしい、大胆に上半身を露出した女性も多い。
花をかたどった髪飾りや、首飾りをしている人も多く目立つ。
夏らしく海岸で泳ぐ人も少なくないらしい。
ここぞとばかりに披露される、ビキニとパレオをまとったまばゆい肢体。確かにどこもかしこも楽しさであふれていて、参加するぶんには気持ちのいい雰囲気ではある。
けれど、ツネにはどうしてもひっかかるものがあるらしい。
「それでいいんでしょうか? もしエオ族の人もいたら……」
「心配しすぎよ。お祭りなんてワイワイ楽しめたらそれでいいんじゃない?」
「うーん……いち市民としてはそれでいいですけど、研究者としては……」
魅惑的な雰囲気すぎるのか、どこか気持ちが乗れていないツネ。
それにしても……子孫を残すことに大きな制限が課せられているほど禁欲的であるにしては、あまりにもギャップのある雰囲気である。
率直にその疑問を語ったら、小鳥は笑いながらこう話すのであった。
「余計なことを気にしなくて安全だからこそ、自由に好きなものを着れて、開放的になれるのよ。開放的なことと性にストイックなことは、必ずしも矛盾しないわ」
「そういうものでしょうか……?」
「そういうものなの。もっとも身体的な性差は厳然としてある。どんなにストイックさが求められているとしても、自身の性的な魅力で喜んでもらいたいという欲求は、抑えられないものがあるでしょうね。あるのよ。ほらアレよアレ、日本には処女ビッチって言葉もあるでしょ!?」
そのたとえはどうだろう、とばかりにツネは顔を覆う。
「ね? ソエラちゃん」
「……え!? そ、そう、なんでしょうか……?」
「……先輩のよこしまな考えをソエラに吹き込まないでもらえますか?」
「なによう人のことを変態みたいに――あ、ここだここ。シャエラ(勝利)の大碑文」
ツネたちの目の前に現れたのは、彼らの数倍は長大な石の柱であった。碑文という通り、テラレ語族の文字がびっしりと刻まれている。
「……すごく、大きいです……」
「大碑文? 先輩、これは……?」
「古くはインドのアショーカ王碑文、ロゼッタストーン、好太王碑……王の功績を称える石版を作る事例には枚挙に暇がないわ。まだそこまで研究が進んでないけど、過去のそうした事例と同じく、おそらくはエオ族との勝利とテラー王の偉大さをテラレ語でつづっているんでしょうね」
「……これはすごい。さいわいすぐに解読できるでしょうし、さっそく……」
「こらこら。すぐに解読できるんなら今じゃなくてもいいじゃないの」
「でっ、でも」
「でももすもももない。とにかく今日は遊びなさい。上官命令よ!」
「こういう時ちょこちょこ上官命令してますけど、自分が遊びたいだけですよね?」
「ギクゥ! ま、まあいいじゃない一日くらい。ずっとここにいるなら。じゃ、そういうことだから。あとでここで待ち合わせましょ。時間は後でリネっとくから!」
そそくさと人混みの中へと消える小鳥。
こういう時の身のこなしは、部下のツネも呆れるほど俊敏である。
なおリネる、とはもっとも普及している『リーネ』(LEANE)という個人連絡用アプリを使ってメッセージを飛ばすことである。
「はぁー……また勝手な」
ツネが溜め息をついたタイミングで、メッセージが飛んでくる。差出人は、もちろんあの人である。以下のような内容であった。
というわけで、邪魔者は消えたから
ゆっくりいちゃついてねbビシッ☆
「はぁーーーーー………」
彼のため息が、ひときわ大きなものとなる。
「まったく、あの人は……」
「……小鳥さん、なんて?」
ソエラはひょっこりとツネのフィルムメディアをのぞき込む。
本能的にツネはサッとフィルムメディアを隠してしまう。イチャつけだなんて書いてあるのが見られたら、と思うと恥ずかしい、というのであるとしたら、今更ではないだろうか。
「あー……まあふたりでゆっくりしといて、だって」
「じゃあわたし、海岸に行きたい。その……水着も……見て、ほしいから」
この控えめながらも的確にウィークポイントを攻めてくる少女の言葉を耳にした時の、彼の心境を述べるとしよう。
あああああああかわいすぎかよおおおおおほおおおおお
ツネの学問的探究心はここに陥落、彼女の願いを優先するに至ったのである。まあこの流れ、いつものことであるが。
「ど、どうしたの? く、苦しいの?」
「……うん、苦しい。つらい」
僕の嫁がかわいすぎてつらい。
どこかのWEB小説ならばこのようなタイトルをつけたくなるほどに甘々な、彼女のセリフ。
――今日は彼女のために楽しむことを、心に決めたのであった。
11 トテサン(突然)
ツネ――松岡常一と『サロ』の少女は『ココロノコサ』という祝祭の只中にいた。
少女はとても嬉しそうである。時折立ち止まってはお菓子などを買って食べながら、露店の連なる道を練り歩く。
「おっとと。ちょっと、ちょっと早いよ」
「ご、ごめんなさい」
ソエラは申し訳なさそうに、一度彼に合わせて歩みを止める。
フィールドワークである程度慣らされたとはいえツネは運動の苦手な青年である。
こどもの元気さに合わせてついていくにも一苦労といった様子が見て取れる。
「でも、わたし……お祭りっていうのはじめてで」
曇《くも》り空とひとつになってしまいそうなほどに白い彼女。儚げにつぶやく。
「……こんなところ、来れないと思ってた。みんなの楽しみをわたしだけ知らない。わたしには関係ない。そう思って、世界を、閉ざしていた」
臆することなく、過去の話をするようになった。
その次には鬱屈した表情はきれいさっぱり消え去っていた。
過去も受け入れられるようになったようである。女の子は大人の想像をはるかに超える速度で、成長していく。
「……でも、ツネが。すべてを変えてくれた。白と黒、そして紅。それしかなかったわたしに、いっぱい、いろんな色を教えてくれて。こうしてお祭りにも連れてってくれて……わたしは、しあわせだな」
彼女の照れ笑いは、太陽の力を借りずとも、まばゆく感じられた。
「僕は何もしてないさ。君が強いからだよ。……でも、そうだね。僕も、君と出会えてこうしていられる今の時間が、とても楽しいよ」
この子と形式的に、というだけであったはずの新婚生活は、思いのほかに充実して、楽しかった。共に過ごすほどに、愛おしさがあふれてくる。
この異世界はただの出張で、すぐにでも帰ろうと思っていた。
彼にとってしてみれば、一時的な滞在であろうはずなのに――
戻りたくない、という感情が、日増しに強くなっいるのであろうことは、我にも見て取れた。
その思いが強くなればなるほど、テラレ王国で生きていこうとして、本当にいいのだろうかという迷いも、少なからずあるらしい。
テラ―王国という国の制度はよくできている。
そう、まるですべてがロボットによって操作されているがごとく、うまくいきすぎている……ように、彼には感じられてしまうのであろう。
もっとも、その直感は非常に正しいのであるが――
「――ツネ?」
「い、いや、その――まぁ、僕も、幸せだなあって――」
とそこへ、かつて見たことのある少女と思わぬ形で再会する。
ツネと共に暮らすソエラと同じ『サロ』の――セマラという少女であった。
彼が以前逢った時と違っていたのは、長身の剣を佩刀していたということくらいであろうか。彼女の方から明るく声をかけてきた。
「あなたたちもいらしてたのですね。私のことを覚えていらっしゃいますでしょうか、セマラでございます」
「こんにちは。セマラ……さんもここに? 王の護衛はよいのですか?」
「これも陛下からのご命令でしてね。……何か嫌な予感がすると」
なぜだか、この一言にツネは胸をざわつかせたのであった。
「……嫌な、予感……?」
「今はエオ族のような脅威もありませんし杞憂だと思いたいですけれど。恥ずかしいことにスリのような軽犯罪はございます。充分、気をつけてください。――では、このあとも巡回がありますので」
「あ、あの」
ツネはセマラを呼び止めた。
「――? なにか?」
「……セマラさんは、遊んだりしないんですか? こういうお祭りとか。その、なんというか、無理してません?」
彼女は毎日このような感じで、小さな身体でテラー王国のあちこちを飛び回っているのだろうか、と考えると、セマラの実を案じずにはいられなかったようである。
彼女自身のために心から楽しむような時間があるのであろうか――?
彼女はソエラよりは大人びては見えるが、まだ親元から離れられない年頃のように映る。そんなくらいの歳で、王と国のために働かなければならないという境遇が、不自由なものに思えて仕方なかったのであろう。
しかしその手の質問は愚問である。
セマラは質問の意図そのものがわからない、というようにキョトンとしていたが、しばらくして白い歯を見せて笑う。
「ははっ、なるほど。そのような心配をしてくださったのはあなたが初めてですよ、松岡様」
――オラコトエ(ありがとう)
と、テラレ語で感謝の言葉を告げたのち、こう続ける。
「ですが、ご心配には及びません。私は、これでよいのです。私が陛下とこの国をお護りすることで、私以外の皆さまが笑顔になれるのであれば――それだけで充分ですよ」
セマラはそれだけ言い残して去っていった。
ソエラは海岸に行こうと言い出した。
「セマラさんの分もわたしたちが遊ぼうよ。それがあの人のためにもなる」
「……そう、だね」
そうしてふたりはついに海岸へと足を運ぶ。
海の向こうに行くにつれ、エメラルドグリーンの海岸線がラピスラズリのような青へと変わる――そのような自然のグラデーションを描いている。
浜辺の砂もが雲間と、そして彼女との境界を隠してしまうほど白く美しい。
突然、彼女は上着を脱ぎはじめる。
下にまとっていたのは、以前市場で小鳥と買っていたビキニであった。
女性らしい丸みが少しばかり出てきた年代特有の体形美。
こうして改めて彼女の白い素肌を目の当たりにして、大小おびただしいほどの傷跡が生々しく残っていることに気付いてしまったツネはショックを隠しきれなかった。
彼女の傷に横切る人が気づくたび、見てはならないものを見たとばかりに露骨に目を逸らしていく。そのたびに気まずさを感じてしまう。
「わたしが気にしていないんですから、ツネは堂々としていてください。わたしは、平気ですから」
「……あっ、ご、ごめん……」
つくづく強い子だ、と彼は己を恥じた。
ツネは気を取り直し、海で遊ぶことだけを考えるようにした。
そうすると不思議と、周囲の視線なんて、いつの間にやら気にもならなくなっていたようであった。
水を浴びせ合ったり、一緒に泳いだり潜ったり。砂浜で寝そべり、なんでもないことを語り合ったり――そんな風にふたりで海で過ごしていると、時が過ぎるのを忘れてしまっていた。
わずかな雲間から夕陽が射し込んできたのでふと時計見ると、小鳥との集合時間ギリギリになってしまっていた。
「……おっと、もうこんな時間か。そろそろ行こう」
「そうだね」
「楽しかった?」
「うん。時間が過ぎなければ、もっといたいくらい」
「楽しかったけど、僕はもうヘトヘトだなあ。帰ってゆっくり休みたい」
「ふふ、ツネはなんだかおじさんみたい」
「……おじ……」
「冗談です。ツネはすぐ疲れちゃうけど、そんなところも含めて、かわいい」
「……もう、また男の僕にそんな――」
「ふふっ」
歩きながら、会話が弾む。
ふたりの距離がいっそう縮んだように感じられた、そんな海の祝祭であった。
きっとこんな時間を過ごせるということが、幸せということなんだとツネは思ったのであった。
けれど――幸せの崩壊は、突然に訪れる。
人だかりの中であった。ソエラと何者かの肩がぶつかる。
あまりにも予期せぬことであったから、それが誰であったかなど、まったく気に留めなかった。そう、事態はそれほどに突然、動き出したのである。
「……ツネ」
「ん? なんだい?」
「わたし、久しぶりに見たよ……このコンタクト越しで、も……きれいに……」
――ドサッ。
それまで傍らで歩いていたはずの彼女。
その彼女が、突然、ツネの視界から消えた。
いや、正確に言えば消えていたわけではない。けれど、その瞬間の彼には、その時起こったことを、正しく理解できなかったのである。
「い、いやああああああああああああーーーーーーーッ!」
女性の悲鳴。
人々がいっせいに逃げ惑う。
先程まで開放的で平穏な雰囲気に満ちていた祭りの会場は、大パニックに陥った。しかし、ツネは呆然と立ち尽くすばかりで、その原因を理解することができない。
倒れている。
少女が、ひとり、うつぶせに。
その少女の左手は、愛する人のつま先を握りしめようとしてかなわず、脱力するに任せている。背中にはナイフのようなものが突き立てられている。そこからは、氾濫した川のように、紅々とした色彩がとめどなく流れ、白く平坦な海岸をにじませる。
それらの視覚的情報はツネの中に余すところなく入っている。はずである。
けれどそれでも、やはり彼はその場で立ち尽くすほか、なかったのである。
「あ、ああごめん、ソエラ。帰ろうか、いっしょに。でもなんでだろう、膝が笑っちゃってさ。ここから、動けないんだ……不思議だろ? ははは……」
予感も予測もできずに訪れる、唐突な日常の終わり。
彼はどうしても、それを受け入れることができなかったのである。
「そうですね……帰りましょうか」
幼い少女の生気のこもった声とともに、ナイフは引き抜かれた。
彼女自身によって。
紅々とした死期の彩りが、羽のように拡がっていく。
ここに与えられたはずの死は、その事象の結果として世界に現前することなく、彼女の持つ特別性によって引き延ばされる。
それはさながら、見た者をオノノカセル秘儀のようであった。
彫刻のような白さの彼女は、何事もないかのように、すっと立ち上がる。
そう、彼が無意識に望み続ける通り、まったく何も、彼女の命を脅かしはしなかったのである。
「帰りたい。……でも、その前に、やらなくちゃならないことが、できました。すぐに、終わらせますから……こんなわたしでよければ、どうか……」
言いかけて、彼女はうつむいた。
血でべったりとした手のひらでコンタクトレンズを外し、砂浜に投げ捨てる。
「……いえ。やっぱり、わたしは……望んじゃ、いけなかった」
彼女の肌も、髪も。みずからの血で紅く染まっていた。
それらをぬぐうことなく、『サロ』の少女――ソエラは、まるで蝶が羽ばたくように、人気のいなくなった海岸を駆け抜けていく。
「――さよなら」
紅い飛沫のほかに、かすかに透明な水滴が彼の眼前に浮かび上がったのを、彼が気付いていたのかどうかは、わからない。
この瞬間、異世界『オ・アエセ』がこれまでとまったく違った世界として松岡常一に立ち現れたことだけは、間違いなさそうであった。
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