既存のキャラクター概念を突き抜ける「おもしれー女」たち
Twitterではおもしれー女※の話題で持ちきりとなっております。
※侮辱の意味で用いる意図は一切ありません
こないだ長い沈黙を破ってリリースされた『ウマ娘 プリティダービー』というゲームに出てくるゴールドシップ(通称ゴルシ)の「ハジケ」ぶりが大きな話題となっています。
ともすればウマ娘といえばいままで「ゲーム本当に出るの?」と怪しまれ嘲笑する向きさえあった作品でしたが、ゴールドシップが火付け役となる形で、作品名くらいは知っている、という層を見事に作品世界にのめり込ませることとなり、いまいちばんアツいコンテンツなのでは、ともいえるブームとなっています。
これはプロジェクトを長い目で見て動かし続けていたサイゲームスさんの粘り勝ちであり、そうそうできることではないすごい快挙だと思います。
また『ウマ娘』ブームは競走馬を取り巻く「史実」という言葉がある種のパワーワードとなっている感が強く、かつての『艦これ』とプレイヤー層がかなり重なっているムーブメントなのではないか──と感じるところがあるのですが……今回の本題はそこではなく、あくまでも「おもしれー女」というジャンルについて語っていきたいと思います。
ゲーム版『ウマ娘』におけるゴルシことゴールドシップは誰も予想だにしないような突飛なことを言ったりやったりしてはトレーナー(プレイヤー)の周囲を明るく振り回しています。
その様子は破天荒さながら。実際にいたとするならば、次1秒後どうなっているのか誰にも予測し得ないでしょう。そう本人も言ってますし。
このように、キャラクターの反応が「誰にも予測できない」からこそ、「おもしれー」のです。
「おもしれー女」、という用語というか概念は、少女マンガでイケメンが女性主人公に興味を持った時に発しがちなセリフとして、男性オタクがネタにしてネットミーム化させたのがはじまりです。
このフレーズ私も面白がってつい多用しがちなんですが、これにはまた別のムーブメントも関わってるのかな、というのをなんとなく感じるのですよね。
それがバーチャルYouTuber、略称VTuberと呼ばれる人たちが起こしているムーブメントです(バーチャルライバーとも呼ばれる)。
私がまず「おもしれー女」として思い浮かぶのは、月ノ美兎委員長や名取さな等をはじめとした、バーチャルYouTuberの方々なんですよね※
※繰り返し申し上げますが悪い意図はないです。終始いい意味で使っております
かつてのキャラクター像は、たとえば「ツンデレ」のような、まずはキャラクターの類型というものが強固にあり、それに沿う形でキャラクターがあったと思います。
しかしバーチャルYouTuberと呼ばれるいわば2.5次元(私は2.3次元くらいだと思ってますが)の存在が出てきたことで、オタクの中で見えない大きな変化が発生しているのではないかな、と感じます。
それは、それぞれのVTuberの「魂」は生きているのであってキャラクターの類型にハマっているわけではない、という気づきです。
キャラクターとしてあったとしても、たとえば「ツンデレ」といったような一言二言で収まるような単純な人格ではない、というふうにも換言できましょうか。なんならみずからのキャラクター像をみずからぶち壊しにかかるくらいです。それを悪く言う意図はなく、むしろそこにこそ新しさを感じるのですよね。
従来までの「物語」像では、物語の作劇上必要であるため、「ツンデレ」のロール(役割)が期待されたキャラクターが、舞台に配置されます。
つまりキャラクターよりも、そこに付随する「物語」が優越し、こうこうこういう物語があるからこのキャラクターがここにいて、こういうような行動を取るんだ、というふうに縛られていたわけです。
物語を展開させるために、「ツンデレ」のキャラクターは期待された役割を演じ、物語を回していく。
非常に長い間キャラクターはあくまで「物語」をより魅力的に見せるためのアクセサリー、付属物であり、多くの創作はその大前提に立って作られていたのです。
これは「世界には理屈で説明し得る確かな構造がある」といったある種の神話が非常に長い間信じられてきたことの名残なんでしょうね。
しかし、アプリゲームの仕様上、キャラクターガチャ(ガシャ、建造、祈願など、各種コンテンツによって名称は異なる)で利益を出すことが求められ、「物語」よりはキャラクターを全面に押し出した展開が求められるようになりました。
もちろん、たとえばウマ娘ならばトレセン学園のような『ウマ娘』固有の世界という「物語」の大枠に身を置いているわけではありますが……
その中で「物語」はあくまでキャラクターを構成するフレーバーテキストにすぎず、キャラクターが物語に優越するようになったのではないでしょうか。
考えてみれば世界というものは人の営みがあってはじめて存在し得ているものであり、キャラクターないしそこで暮らしている人間の存在のほうが上位であるのは当たり前なんですよね。
まず物語世界があるのではなく、私たちの存在があってはじめて「世界」が形成される。信じられている世界のほうが先ではないのですよね。
この違いは21世紀を20世紀的なものにしないために非常に重要な部分だと思います。
アプリゲームの隆盛でキャラクターが主体、物語がその付属物となった物語構造が当然のように受け入れられるようになった時代だ、という前提があった上で……
キャラクター的な見た目をしていながら従来的な類型にハマらない『バーチャルYouTuber』という存在が現れたことによって、今までなら当たり前に信じられてきたキャラクター像に急激な変化がもたらされた。そのように感じるのは私だけでしょうか。
人の会話や行動は「物語」のように決められた役割をこなす、といったような単純なものではなく、1秒先は誰も予測できないものです。
何を当たり前の話を、とお思いでしょうけど、これが大事なことです。
この「予測できなさ」がこれまでのキャラクター造形を大きく凌駕、根幹から揺るがし得るものであった。
だからこそ、単なるニコ生配信者の延長、ではなく、そんな次元をはるかに超えた新たなキャラクター像の未来を予感させてくれるのですよね。
その意味で「バーチャルYouTuber」という存在がまず先にあって、その別解釈として生み出されるであろう物語『ホロライブオルタナティブ』にも、従来の物語といった枠を超えた面白さがあるに違いないと期待しています。
まあ変なトラブルが続かないかだけが気がかりですが……
話を元に戻しましょう。
ゴールドシップというキャラクターは、単なる破天荒キャラ、「変人枠」として生み出されたのではない。実はバーチャルYouTuberたちが築き上げてきた下地によって誕生したのではないか、というのが今記事の結論です。
……製作者インタビューなどによって否定されたりしたらこのドヤ記事がクソ恥ずかしいですけどね!(
実際VTuberを視聴しているクリエイターの方々が多いこと多いこと。また自身もVTuberである方もいらっしゃいますしね。
彼ら彼女らバーチャルYouTuberに影響を受けながら創作をしているとすれば、創作上のキャラクターたちも大きく影響を受けるのもうなづけるというもの。
当のゴルシ自身も古参のバーチャルYouTuberとして、延期が重なっていたゲーム本編の不在を補いコンテンツを支え続けていたというのも示唆に富みますね。
バーチャルYouTuberたちは時に与えられたキャラクターとしてのロールをたやすく越境してしまうくらいの魅力を持っています。
「物語」を作り出していくクリエイターはこれからその「魂」たちに負けないほど魅力的で、予測不可能なキャラクターを生み出さなければなりません。非常にハードルが上がったと感じますが、そのぶん、やはり燃えますよね。新たなムーブメントを刺激にして、創作の糧にしていきましょう。
まだ完全に思考が整理されているわけではないので、思いついたままに書いてみましたが、見当違いでなければよいんですけど。
ちなみにこちらは私の過去作『物語共有論』ともちょっと重なる部分があるというか、こちらで得た気づきを元にしています。
けっこう前のお話が主体ですが、お時間がありましたらこちらもどうぞ。
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