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出会うための、自発的ロックダウン

ここ関東では、何やら振り続けている雨が夜更け過ぎに雪へと変わるだろうという予報のようだ。

随分とまぁ唄のような話だが、随分と寒いわけである。冬タイヤへの交換をすっかり忘れていたので、明日にでもタイヤ屋さんへ行こうかと思ったが、そういえば明日は休日出勤日であった。明日は、バスか徒歩で駅へと向かうことにする。


出会う、という言葉がここ最近のキーワードだ。

コロナで人と人との関りが薄くなり、1年以上経った。緊急事態宣言下では、2019年までのように、対面で人と会うことが難しくなり、かつ、感染拡大の恐れのあるような集会や、飛沫が飛ぶような行いがネット上で叩かれるようなギスギスとした世の中に変わった。

人と人とが距離を取り始めて1年以上経ったことになる。見渡してみると、この件に関しては対応が大きく2分されている。

一方では、ウイルスの恐怖に怯え、自粛ムードでただただ耐える人たち。
もう一方では、ウイルスに負けまいと変化し、闘う人たちだ。

僕は、根っからの闘い好きな性格もあって、後者の人たちが好きで、例にもれず同じように、ウイルスに負けまいと闘ってきたのだが、どちらかが正解という事はない。

ウイルスの恐怖に抗えないことを責めることは出来ないし、世界中の一人一人が明日にも感染し、死に直結するかもしれない状況で、正解も何もない。各自、自分の命を守りやすい選択をすればよい。


僕はこの二つのバランスを取りたいのだ。内向的な思想をもって生活し、ウイルスから身を守る。同時に、外交的な思想をもって行動し、ウイルスが人類を疲弊させ続ける状況に抗いたい。

矛盾しているようだが、インターネットというツールがそれを十分可能にしてくれているし、感染対策が当たり前になった世の中では、人々の感染対策リテラシーが高く危険度が大きく下がっている状況で、オフラインの行動にもある程度の秩序をもって対応することが出来ている。


何を隠そう、この新型コロナウイルス感染症が発生した期間のほうが、僕自身は数多くの人と出会った。

ネット上では、様々な手段で人と人が出会おうとしていた。その波を感じたし、その波に乗ろうとした。

人々は、SNS上の繋がりを二つに分けた。「開かれたインターネット」と「閉じたインターネット」の二つに分類しだした。

開かれたインターネット」とはこれまで通りのインターネットだ。ニュースサイトやそれに対するコメントの応酬、芸能人の不倫や、恋愛リアリティショーで気に食わない行動をとった人々への誹謗中傷など、2019年から続くゴシップ的な非生産的で非創造的なコミュニケーションをする場として、まぁ言わばただのストレス発散としての活用の場として扱われた。

一方で「閉じたインターネット」では、コミュニケーションの相手を限定した。インターネットがグローバル化だとすれば、鎖国のようにコミュニケーションの流通を封鎖する、という手段を取ったことになる。ウイルスの感染が拡大し、町をロックダウンしたかと思ったら、コミュニケーションもロックダウンし出したのだ。

これには、現実の封鎖とは別の意味合いがある。封鎖することで、より「密」になろうとしたのだ。

インターネットを閉じる、そうして生まれるコミュニケーションは、狭い空間でのより小規模な社会を形成する。

例えば、子供のころを思い出してほしい。小学校のクラスの中のコミュニケーションは、あまりに世界そのものではなかっただろうか。子供たちにとって、あの小さくて狭い「社会」での人間関係は、かけがえのないものであり、コミュニケーションをないがしろにしたならば、村八分を食らう。

田舎出身の方なんかは、良く分かっていただけると思うが、狭い社会は、コミュニケーションの伝搬が速い。理由は、互いが互いの言動に注目し合っているからだ。

あの家の奥さんはどうたらこうたら、あの家の旦那さんは遊んでばかりでどうのこうの、あの家のお坊ちゃんはやんちゃ坊主で困ったものねぇ、など、当事者からしてみれば、何で知ってるの?暇なの?というようなレベルの把握力を発揮する。

「閉じたインターネット」はそれを再び手にするための効率の良い手段だった。

再び手にする理由は、コロナによるストレスの過負荷で崩れがちなコミュニケーションの質を再び上げるためだ。

個人的にも世の中を眺めていて強く感じたのは、もう、外に出れない以上は、究極的には家で誹謗中傷しかすることがなくなってしまうという危機感だ。

行政に、芸能人に、周りの人に、コロナ離婚などという言葉が流行ったが酷いケースではDVなどの家族に手を出すことも見られた。

そうやって鬱憤を晴らすことには意味はない。より不幸になるだけだと察した賢しい人々は、コミュニティを形成し、インターネットからの自発的ロックダウンを試みた。

村社会に似たそのコミュニティ内では、トラブルの発生率が異常に低い。何を隠そう、僕が今所属しているコミュニティは、合計で5つほどだが、全てが平和そのもので優しい世界が広がっている。応援と承認と思いやりの、優しい社会がそこには実現しており、最低限のルールをもって運用しているだけで不安はない。

オンラインサロン、Webコミュニティなど、優良無料で様々形態があるが、今や、仕事上の会社組織と、家族、そしてこれら第3のコミュニティに、且つ複数に所属していることは、心の平穏を保ち、何より人間らしい活動を伴った精神状態を維持するには必須の行いだ。


閉じたインターネット。開かれたインターネットを情報収集ツールとして利用し、コミュニケーションには利用しない。

そして、閉じたインターネットのほうが、格段に人と出会えることが分かった。

オンラインサロンでは、互いに共通のアイドルという共感覚を得た状態が始点としてあるため、コミュニケーションのハードルが異常に低い。様々な職業の方と出会ったし、仕事のオファーもし合うなど経済圏も形成し始めている。

学習系のコミュニティでは、行動力を与えてくれた。お互いに応援し合う文化であるからフォローはしやすい・されやすいという状態で、僕の異能vationの採択もこのコミュニティから繋がった。精神的な距離が近く、背中を押してくれる仲間がいる、これは開かれたインターネットでは得ることのできにくい資産だ。

音声配信プラットフォームstand.fmは、インターネットに公開されてはいるものの、肉声でのやり取りが特殊な効果を持っており、誹謗中傷のない優しい世界をフォロー・フォロワー間で形成している。半・閉じたインターネットともいえる状態だ。

声でダイレクトで届ける優しさに涙する方もいるほどで、この音声配信から始まったTwitterでのやり取りなどは、互いに尊重する度合いが違うようで、これまでとは密度の違うやり取りを交わしている。

個人的には、社内のやりとりも、「いつでも会える」というオフラインが無条件に開放されている状態よりも、「今だからこそ会える」という状況のほうが仲良くなれる人が多かった。

Zoomで開催する親睦会も、家に居ながらにして、遠くの人たちと会うことが出来、リラックスしつつ稀有な機会を互いに大切な時間にしようという気づかいが自然と発生しており、非常に有意義な会になることが多かった。初めて話した人とも深夜までどっぷり語り合ったことも少なくない。


何かしらこのような「制約」があった上での、出会いが、それまでの無条件での出会いよりも貴重な機会になるというバイアスがかかることは間違いないだろう。

今最も避けたいのは、こういった機会損失かもしれない。「コロナで辛い時に出会った人たち」というステータスは、アフターコロナでは二度と手に入らない。今こそ行動し、人と出会っておくことの重要度と優先度は高いと考えて間違いないのではないだろうか。

注意したいのは、下手すれば単に依存先が増えただけで、勘違いに終始する恐れもある。一人じゃない。そう感じることは大事だが、時に人は、一人にならなければならない。

コミュニケーションに甘えるだけでは生産はされない。行動し、生み出してこそ経済が循環するからだ。


明日は、雪の中、出勤することになるが、帰りに余裕があればまた書店を巡り、素敵な書店や書店員さんとの出会いを求めて探訪しようと考えている。

社会情勢に相まって、重苦しい悪天候下の出会いには、もう少し強く可能性のバイアスがかかるであろうなんて、無理やり意義を見出して、休日出勤の動機にしてみるのである。

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