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「プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」 - 0to1と二次創作の最大の違い -

公開翌日に観に行った「シン・エヴァンゲリオン劇場版」。

記憶にも新しいが、独特な画が特徴的で、「そんなアニメないやん」みたいなシーンがちらほらとあったが、「なるほど、そういうことね」と思ったのは、この番組を見ての感想だ。

ここ最近、個人的に気落ちしていたというか、やる気が出ない日が続いていて、調子が出なかったのだが、この番組を見て一気に上がった。

理由は、0から1を生み出すクリエイターの姿を見て感動したからでもあるし、自分の内にあるのかもないのかも分からない、材料を集め、編集し、構成していくその作業に勇気をもらったからでもある。

そんなクリエイターの人々の姿は、事業化に取り組んでいる自分の今とも重なるところもあった。

プロフェッショナルという言葉の魔力

番組のネタバレでもあるが、庵野秀明の最後の言葉が印象に残っている。

この番組では最後にお決まりでこう聞くのは有名だ。

「あなたにとって、プロフェッショナルとは何ですか」

回答は、
「そんなこと考えたことない。
 そもそも番組名にプロフェッショナルという言葉が入っているのが嫌いで、変えて欲しいくらいだ。」

とのことだった。そういう番組の密着取材だ、っていう話だったと思うのだが、随分な全否定である。

この人が嘘をつくとは思えないので、心底正直な感想なのだと思うし、どこか「ギクリ」とさせるような言葉だった。


前職のエンジニア業では、「プロフェッショナル」であることに強い意味をもたせ、新人教育ではその思想をしつこく繰り返し意識づけてきた。

中堅社員からマネジメント職、経営者含めてもこの「プロフェッショナルであること」という思想は根底に強くあったし、自分たちをそうマインドコントロールしていたかのように盲信していた。

しかし、この「プロフェッショナル」は、「単に仕事でお金を頂いているからプロだよね」という共通認識があるぞという文脈で使われていたというのが背景に隠されている。

要は、「プロフェッショナル」であることを言い訳にしているかのように、教育やビジネスマインドの共有に取り組んでいた。

この言葉の本質はそこであるかもしれない。そして、エヴァンゲリオンという壮大な物語を産み出した親である庵野秀明は、そんな安っぽい言葉で自分たちの行いを定義されたくないのだろう。

どれだけ、0から産み出すことが困難か、
どれだけ、人間の、特に自分の内面を向き合うことが苦しいことか、
そこから物語を抽出すること、そしてそれをスタッフや観客という他人に伝えることが難しいか。


プロと言われるほど整然とした仕事をしているわけでもないし、
プロと言われるほどカッコいい作業をしているわけではない。

そんな思いがこの「プロフェッショナルという言葉が嫌いだ」という表現にあるのではないかと受け取った。


「分からない」に支配される創作活動

番組内では、「分からない」という言葉が連発する。

「このシーンの演出が分からない」とは、監督の鶴巻和哉さんの言葉だ。庵野秀明の頭の中にしかない、いや、あるのかすら"分からない"その映像の表現方法に悩み苦悩するカットがあった。

また、制作スタッフが作ったプリヴィズ映像を見るや否や、「何が正解かは分からないけど、これが正解じゃないことはわかる」とは、庵野秀明さんの言葉だ。

「じゃあどうすればいいのよ?」と誰もが抱く疑問には、庵野さんからの指示や回答はない。


また、脚本の大幅修正が発生した件もこのドキュメンタリーの中で語られる。そして、スケジュールは押しに押し、むしろぶっちぎってしまったんだろうということは、度重なる公開延期で私たちはよく知るところである。

中でも、結局のところ映画のDパートの脚本ができないという部分がインパクトが大きかったそうで、脚本ができあがらないまま、他パートのアフレコに入ったそうである。

曰く、「話が降りてこない。神様から降りてこない。」という神頼み状態での待機期間みたいなものが、庵野秀明の制作期間に訪れてしまった、的な話である。


「最後のエヴァンゲリオン」には、スタッフも特別な思いだ。

「最後だから庵野秀明の納得できるものを作って欲しい」とは思えども、予算とスケジュールはある。待っている人もいる。

当の本人も何が納得する形なのか分かってない中、焦りだけが広がっているという光景だ。

そしてその光景には、少し覚えがあった。

ゼロtoワンと二次創作の最大の違い

自分が先日参加した、JBA bootcamp 2021 springというイベントだ。このイベントでは、事業アイデアを2日間でブラッシュアップし、プレゼンし、評価を受け、壁打ち権や起業費用などを支援いただけるという賞が待っているもの。

このイベントでは、「何か事業を作らなければいけない」という命題があるなかで、さぁ何をやろうか?というアイデア出しからなのだが、(もちろん暖めているアイデアがあったなら突き進めば良いのだが)私が即席のチームで取り組んだ結果、この状況と非常によく似た光景になった。

結局、誰かの頭の中にあるイメージを具現化しなければならないのだが、三者とも「何が正解か分からない」というどこか逃げの姿勢があり、アイデアを出せども出せども、「違うなぁ」ばかりで決定しないのだ。

そうこうしている内に時間は無常に過ぎていくので、結局は元から会った自分のアイデアを進めていくことになったのだが、この状況もまさに「分からない」に支配されていた。


ゼロから産み出す作業というのは、「正解」なんてないもので、特にスタートアップビジネスはその93%が日の目を見ずに消えていくと言われる。

今まで私が前職でやってきたことといえば、誰か作ったプロダクトで、誰かが用意した案件を、マニュアルに記載されている手順を組み合わせて、誰かが作った開発言語で組み上げていくというような、二次創作でしかなかった。

そこは圧倒的に「正解」が存在する世界で、「それは違う」と等しいほど「それは正解」という概念が存在した。

しかし、起業家やクリエイターはそれとは住む世界が違うのだがということが、この番組でよく分かる。

常に「分からない」という中で、暗い海をずっと岸に着くまで泳ぎ続けるような、そんな苦しい戦いの中に身を置くのだ。


この大きな制作活動の違いに気づいて、脳の回路が入れ替わったかのような錯覚を覚え、やる気を失っている場合ではないなと心から思えた。

甘い、甘い世界で自分が生きてきたことが分かるし、彼らの深い苦しみを理解して、初めてこれから自分がその世界に足を踏み入れる覚悟が足りていないと言うことを思い知らされた。

一人の人間の可能性

番組内で、庵野秀明に呼びだされた番組スタッフがダメ出しをされる、と言うシーンがある。

「俺をとってもしょうがない」と言うシーンで自分にカメラを向けられているのが気になると言うのだ。

密着取材なのだからそりゃそうじゃないの?と思うのだが、どうもその真意は違う。

要は、番組として面白いのは、シン・エヴァンゲリオン劇場版を産み出しているのは、庵野秀明ではなく、スタッフ一同だと言うことを言いたいようだった。

そして、彼らの努力の様を魅せることで、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」自体も面白いと期待させることを目的とした番組であって欲しいと言うことだった。

端的にはそう言うことだが、ここにも深い考察がある。

要は、制作活動をチームでやっていることには意味があり、特にこの作品ならではの「分からない」の多さ。これを解決するのは、庵野秀明一人の力では成せないと言う感覚があったのだろう。

一つの「分からない」に、誰がどう言った答えを出すのかは、予想出来ないと言うことが背景にあり、自分とそのほかのスタッフのやりとりや、その空間から滲み出る「正解が生まれる雰囲気」自体を捉えることが出来たなら、ドキュメンタリーとしては大成功なのではないか。

そんな意図の垣間見えるお呼び出しだった。

人と人のブレインストーミングで作品を作っている。
人と人の思いを融合して、ゼロからイチを産み出す活動である。

一人で作るものには限界があって、複数の人が集まって初めて至高の作品が生まれると言う思いがその背景にあるのではないだろうか。

それは、どこか、作品ともリンクする部分がある。

人類補完計画。

何やら人と人の境を無くしてしまえ、何ていう危なっかしい話だったが、実の所、こう言った普段の仕事にもその見えない力を信じている感覚があったりはしないだろうか。

それは、苦悩する自分たちが理想とする世界設定だったりしないのかなとも思わせる、そんな泥臭い制作活動の風景だった。


一人の人間の可能性には、一人分しかないけれど、重なることでもっと大きな何かを創造出来る力が人間にはあることを信じている、そんなダメ出しの模様であった。


NHKプラスや、オンデマンドで配信されているので、未視聴の方はぜひ。

エヴァファンならきっと楽しめると思います。

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