お金に殺される。

私達はお金に殺される。
そんな私達が死ぬとお金が入るのだ。
それはとても皮肉なもので『お金がない』『生きていけない』と嘆く人ほど死から遠いのだ。つまり私達メンヘラはしぶといのだ。
普通の人なら自殺する様なストレスやトラウマに遭遇したとしても過去にそれ以上に傷付きそして立ち直り『今』生きている。言わば勝者なのだ。

迫り来る死期を目の前に通帳を眺め、あと何日生きれるだろうかと模索する。
そして追い詰められた結果自殺するのだ。
そんな人間の葬式はコソコソと噂話が尽きない。都会ならまだしも田舎で若く死ぬととにかく目立つのだ。その異常事態に。

私達はお金に殺される。
社会的弱者の私達は唯一そこからの脱却方法を知っている『自殺』なのだ。 
お金なく餓死したり夏エアコンが入れられず熱中症で死ぬ前に自ら命を断つのだ。それが唯一お金に殺されない方法だと私は信じていたい。甘い夢をみていたい。死ねば楽になれるのだと。

だがその若くして自ら命を断つ行為には大きな意味がある。

私達はこの一度きりの片道切符の爆弾をいつでも使うことができる。自分自身の命に刃物を突き立て脅すのだ。死んでやる、困らせてやる、後悔させてやる!と、しかしその脅しはとても弱い。
付け焼き刃なのだ。ぼろぼろと刃毀れしていて側から見ると滑稽なのだ。だがしかし私達はそれでも死を振り回して必死に暴れるのだ。

『あゝ本当は死にたくない』

そして私達はこの行為をもってこの世界に、家族や友人や恋人そして私にストレスを与えてきた存在に争うのだ。死をもって反撃をするのだ。

このぼろぼろの刃で最期に皆の心を刺す。

『死ぬなら迷惑をかけない様に死になさい』これは私の家族からの言葉だ。

私は何度も死に損ねていた。
流石に自らの手で我が首をズタズタにした時は死ぬんだと思った。しかし未だに生きている。若いメンヘラはよい。まだ可愛さもある。だがしかし歳増の男のメンヘラなど目も当てられぬ程の醜さよ。その醜さにまた死にたくなる。こんな醜悪を晒すぐらいであれば樹海で首を吊るのがテンプレではないだろうか。

この国では年間約2万人が自殺をする。
異常な事態だとわかっていても何も変わらない。かく言う私もまた最近になって自殺したいと願う。カミソリを握りしめ独り泣く日もある。

この約2万人は孤独に死ぬ者が多い。
孤独な夜にゆっくりと静かに居なくなり逝ってしまう。周りの者は何をしていたのだろうか?誰か1人でもその人の異常に気付き話をしていればきっとその人は今でも生きていた。死んでから『あの時私が、、』とか『そんなそぶりなんて無かった』などとよく言えたものだ。反吐がでます。

私が死のうとする時に後ろ髪を引かれるのは私自身の葬式や遺体を目に出来ないという事なのだ。
他人の葬儀には出れるが自分の葬儀ばかりは出席出来ぬというジレンマなのだ。

たとい私がこの文字をネットの海に放った後に死んだとしても誰が悲しむのだろうか。
これが遺書になろうと誰が立ち止まるだろうか?

私はやはり思うのだお天道さんの下を歩いている様な人間には私達の苦しみの味も痛みも理解などされないのだ。

この世界(と言っても日本という小さな水槽の中での話だが)では私達は生きていけないのだ。いつか願わくば早めにわたくしに死を。

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