見出し画像

燻し燻される時間

木曜の夜は特別だ。僕は毎週出張していて、月曜の朝家を出ると家に帰るのは木曜の夜だ。月曜の昼食は妻の作った弁当なのだがそれ以降は外食なり、次に手料理を食べられるのが木曜の夜なのだ。そしてこの夏以降、月に一度程度やってくる普段よりさらに特別な木曜の夜が僕には存在する。

自宅に辿り着くと勢いよく玄関を開け、まっすぐ冷蔵庫に向かう。冷蔵室のドアを開け定位置を確認する。下から二段目の一番左にはジップロックに包まれ液体に浸されたブロック肉が鎮座している。豚バラ肉の燻製、すなわちベーコンの制作中なのだ。

肉はお気に入りの精肉店で100g165円の宮崎県産の豚バラ肉で、いつも通り量り売りで購入したものだ。「バラ肉500gブロックでお願いします。」と私が言うと、宮崎県の畜産家の息子であろう軽い九州訛りの店主は奥の冷蔵庫から巨大な塊肉を取り出し巨大な肉包丁を振い見事な手つきで一刀のもとに指定量を切り分ける。さすがプロだな、目分量で正確に質量がわかるのだという私の気持ちとは裏腹に「600gありますがよろしいですか?」と聞かれる。ちょっと残念な気持ちになりながら「構いませんよ。」と伝え会計をする。手元にあるバラ肉のラベルには668gと記載されているのだった…。極端に高級ではないものの我が家周辺のスーパーで買える肉とは明らかに異なり、特に脂の旨味が抜群だ。店主のキャラクターを含めお気に入りの精肉店だ。

液体は白だしをベースとし肉の質量に対して5%の塩分となるように塩を追加し調整してある。同じく2.5%の三温糖、白だしの半量のウイスキー、適量のコショウが添加してある。液体の中、肉の表と裏には庭で採れたローズマリーが添えてある。

漬け込みを開始したのは前の週の土曜で、都合5日間冷蔵庫に保管されていたことになる。ソミュール液による塩漬けの工程がちょうど出張帰りの木曜に終わるように段取りしてあるのだ。

ジップロックを開けると中からは白だしとウイスキーが混ざった香りが漂う。肉を取り出し流水で軽く洗い、ボールに張った水の中に肉を投入する。味付きの液体から無味無臭の水へと移された肉はまた同じように冷蔵庫へ帰っていく。5日間かけて塩分による浸透圧で水分を放出し続けた肉は、今度は一晩の間水に浸され塩を抜かれるのだ。

***

燻製を始めたのは3年程前だ。8年に及ぶ単身赴任が終わり、月に1度しか許されなかった自宅で過ごす週末が毎週になった。それに併せて妻が前々からやりたいと思っていたことに挑戦し始め逆に忙しくなった。僕が厨房に立つことが増え、元々料理が好きだったこともあり様々な調理法に手を出してった。燻製はその中の一つだった。とはいえ今のように本格的にベーコンを作るようになったのはこの夏からだ。漬け込み液の作り方や種類、燻製に使うチップの種類、温度管理の仕方等々覚えることも多い。要するにハードルが高いと思っていた。そんなイメージを一気に変えてくれたのがこの夏に購入したオーブン燻製器だった。

画像1

燻製器の情報は友人からの相談が最初だった。数万円という値段で買うのを躊躇していた彼が、これどう思う?と僕に聞いてきたのだ。調べていくうちに僕の方が欲しくなってしまった。気づいたら買う決意をしていてあとはタイミングの問題だけになっていたところで、お国から配られた「10万円」が最後の一押しになった。ステイホームで膨らんだ可処分時間は燻製に費やされていった。この燻製器の特徴は頑丈で、温度が安定し、二室構造で燻煙が循環しやすい等、挙げていけばきりがないが、とにかく気軽に使え失敗が少ない。

まず始めたのはスモークチーズ作りだった。燻製器についてきたレシピに従うだけで簡単においしいスモークチーズが作れた。一ついいものができてしまうと次の挑戦へのハードルは下がっていく。販売元が提供してくれる情報も多岐にわたりレシピサイト、レシピ動画、インスタまで。わからないことがあれば駆け込む場所も同時に手に入れることができたことでますますハードルが下がった。今作っているベーコンもここで入手した情報をベースとして僕と家族の好みで独自のアレンジを加えたものだ。

***

「さらに特別な木曜の夜」の翌朝はちょっと忙しい。まずは冷蔵庫からボールを取り出し塩を抜き終えた肉の水気をふき取り浸透圧シートで丁寧にくるむ。浸透圧シートとは分厚い二重のラップのようなシートで食材から水分を奪い二重構造の中間層にジェル状にして取り出してくれるものだ。燻製前に食材をいかに乾燥させるかが燻製のキモだ。燻煙は水溶性なので水分は必要だが多すぎると苦味が強くなったり色付きがまばらになったりする。その難しい乾燥工程を簡単にしてくれるのがこの浸透圧シートと冷蔵庫の組み合わせなのだ。自然風の陰干しで乾燥させるのに比べ時間が約半分で済むうえに、鳥や猫からも被害を受けない。ここから24時間、冷蔵庫で三度目の眠りについてもらう。この作業は必ず出勤前に終わらせなければならない。

土曜の朝。いよいよ燻製工程に入る。燻製器の底面にチップを入れ汁受け皿をセットする。網の上に肉をのせ燻製器の中へ投入。蓋をし、熱電対を差し込み電熱器と繋いだサーモスタットを63℃~68℃にセット。あとは3時間放置するだけだ。

出来上がったベーコンはすぐにでも食べたい衝動に駆られるのだが、実は出来立ての燻製はまったくおいしくない。煙臭さとえぐみ、苦味が強すぎるのだ。ここから4度目の眠りについてもらう。軽く表面の脂をふき取りジップロックに投入し冷蔵庫へ。食材中にわずかに残った水分を伝わって燻香が中に染み込んでいく。いわゆる熟成工程になる。実際に食べられるのは日曜の昼食からだ。こうして出来上がったベーコンはその後数週間にわたり、ほぼ週末のみを家で過ごす僕に、ささやかに贅沢な昼食を提供してくれるのだ。

画像2

***

燻製の作成は実作業時間が短く、期間が長い。仕込みに10分、塩漬け数日、塩抜きに半日、乾燥1日、燻煙作業3時間、熟成に1日。計画的に段取りを組むことが必要になるし、作業日には家にいる必要がある。特に燻煙作業中の3時間というのは、どこかに出かけるのには短く、何もしないには長すぎる、不自由と自由の中間にある時間だ。この中途半端な時間が実はかけがえのない時間ではないかと感じ始めている。

土日の昼間に突然3時間の自由が与えられると、昼寝をしたり、ただぼーっと過ごしたり無駄にしてしまうことが多い。燻製中は火等の高温の熱源を使うので長時間厨房から離れるのは憚られる。この適度な拘束により燻製の計画を立てると同時に中途半端な3時間に何をするのかを事前に決めておくことで有効に使えるようになってきているのだ。天気が良ければランニングに、悪ければ積みあがった本や観たいアニメの消化に充てられる。同様に木曜の夜、金曜の朝晩、確実に家にいてやるべきことがあるがそれ以外のことは自由だ。飲み会などの予定は入れられないが家でできることなら自由にできる。この文章もそんな半分自由で半分不自由な、中途半端に拘束された時間の中で書いている。肉を燻すことで僕の時間も燻されていき、身体や心を整える熟成時間が作られているようだ。木曜夜から始まる、燻し燻されるこの時間が今の僕にとってはとても大切なのだ。

***

自分好みのベーコンと、不自由時間の確保のために、今日も僕は精肉店に行く。700gを注文した僕の手元には872gとラベルに記載された淡いピンクのブロック肉がある。

画像3


この記事が参加している募集

#買ってよかったもの

58,812件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?