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私が「おじさん」を再考する理由

 本稿では、私が現代日本の中年男性を研究対象とする先にみている問題、「おじさん」をめぐる評論文の抜粋と検討、現時点で考えるポジティブな展望について整理する。まず200字ほど、近況を整理しておく。

 大学院での生活が2年目に入った。昨年のインプットの密度に比べると、実感として倍程度の質量の文字の上を眼が走っている。私が好む「共同性のある学び」が実践できる頻度が増し、言語・思考を介して他者とやりとりできている感がある。

 以下が、3月下旬以来触れてきた言語・思考の例挙であり、無意識にも私の思考を刺激し続けるトピックである。朝井リョウの『正欲』から許容される/されない欲望の棲み分けがいかに奇妙で虚しいかを感じた。映画『あの子は貴族』から都市における若年女性の連帯と分断を読み取った。日本の教育で使われる「能力」をめぐって、小松光&ジェルミー・ラプリーの『日本の教育はダメじゃない』、本田由紀の『教育は何を「評価」してきたのか』、志水宏吉『学力格差を克服する』、中村高康『暴走する能力主義』、苅谷剛彦『コロナ後の教育へ』を通読した。鹿野政直の『沖縄の淵』から、同化政策の陰惨さと伊波普猷らの日琉同祖論を学んだ。


現代日本の中年男性を研究対象とする先にみている問題

 私は教育学研究科の文化社会学コースに所属している。研究対象は社会運動に参加する男性たち、と限定をかけてフィールドを定めている。本稿で書くような射程はより広い。論文では扱えない広範な射程としては、日本の「おじさん」の(曖昧だが)「学習と適応」をめぐる実態と議論をテーマに、現在も続く構造的な困難性と、個別事例に見出せる包摂の糸口を明らかにしたい。これを明らかにしたいのは、私が上述の実態と議論を熟知しておらず、かつ、「おじさん」が絡め取られているであろう構造と手付かずにされている性質、および異性(女性やLGBTQ)や他の世代(「若者」や前後期高齢者)からの包摂策について、検証や導入がなされていないからである。

 まず、中年男性をめぐる感情的な忌避から説明しよう。「おじさん」になることの忌避感とは、①ライフコースの典型への拘束に拠るもの、②身体的・因習的な後退に拠るもの、③特権的・排他的存在と見なされる文化的パターンに拠るもの、と大別しておく。

 ①のライフコースの典型についてだ。毎度逡巡するのだが、「中年」の年齢区分を設けるとき、私はさしあたり35歳から59歳と設定する。厚生労働省は年来、「中年無業者」の呼称を用いて、35歳以上の無就業・無就学者を定義してきた。「中年」の年齢上限については、玄田有史が「孤立無業(Solitary Non - Employed Person)」を指す和製英語を「中年ニート」の定義に採用しており、これを踏襲する。60歳からは老齢厚生年金が受け取れる場合があり、「高齢者」とみなす制度が存在することも加味している。この典型に影響を及ぼしているのが、安定した労働人口としての位置付けである。日本国の制度や法律が、35歳から59歳を若年者とも高齢者とも独立の、職業労働と再生産労働に従事する社会の主たる担い手として設計されていることが窺える。このライフコースにおいては、稼得能力や権威・地位や職業スキルの熟練度が他の年齢層と比べて高いことが想定され、中年期の終焉に向かって、そうしたステータスが下降に向かう時期にあたる。このライフコースの拘束のパターンは男女とも強固であるが、こと賃金労働での評価が重視される男性については、中年期に漸進的に上昇し、どこかで訪れる分岐点をもって下降に転じていくような一様なライフコースの道程が明確に想定される。社内における昇進は段階的に進み、左遷や天下りは概して一方向的と認識される。ライフコースの典型を自身に採用するとき、中年期の男性の「転落不安」および「下降への落胆」は普遍的なものであろう。「中年男性=賃金労働者」という公式は綻ぶことはあろうと崩れ去ることは想定しがたく、労働のパフォーマンスを期待される中年期のライフコースに、下降線を実感することになる忌避感は、年齢を重ねるにつれ、高まることになる。

 ②身体的・因習的な後退についてだが、精神面や経験値における「成熟」が中年の肯定的な側面と捉えられやすい一方、中年に顕著な「後退」は身体能力や因習からの離脱をめぐって支障をきたす。古川・山中(2016)によれば、特定健診制度の主な対象が「メタボ」男性であり、医療費適正化対策のもとで男の身体が問題化されている。自身の体型や生活習慣がなぜ現状のようなものであるのか、「常に心にメジャーを」(引用)構えてモニタリングしなければならない精神状態になる。中年期には身体面での衰えが顕著になり、医療機関の利用頻度が高まり、身体の矯正はもはや困難である。「因習」とは「成熟」と表裏をなす負の側面とも言えるが、特定の方式で問題解決することに慣れているために、複雑で新奇な関係や問題への対応に遅れる傾向がある。特に女性や他の世代からは「アップデートしない存在」(山口周、2018)と評価を下されることがしばしばだ。矯正、教育、啓蒙の対象としてはもはや手遅れで、身体・因習の両面で改善が望めないと考えられている。

 ③特権的・排他的存在と見なされる文化的パターンについて述べる。中年期の人びと、ことに男性が、①で述べたようなライフコースの典型を辿ることがまだまだ可能だと考えられる現代日本では、女性や他の世代の負担(犠牲)の上に彼らが特権的に富と地位を独占しているという立論が成り立つ。エッセイ本に近く、文体がシニシズムに満ちているが、鈴木(2021)のこの記述は端的にこれを表明している。

「さらに世界はここ50年間大きくうねり続けていて、おじさんを暴くことは悪を暴くことのように奨励されているし、その批判に慣れてしまったのか、もともと面の皮が厚いのか、絶望的に自覚がないのか、ドMなのか、おじさんたちはその投げられる石を結構甘んじて受けている。虐められているとは思うけど、それが許されているうちは、いまだ彼らの持つ特権的な力が不当に大きいということだから、特に同情には値しない。」(鈴木涼美、2021、『ニッポンのおじさん』まえがきより)

 特権を享受する集団の構成員とみなせる「おじさん」だからこそ、他者は容易に軽侮することができる。「批判に慣れ、面の皮が厚い……」中年男性には響かないのだから彼らの特権、排他性の批判は、構造的に極めて容易だ。本人の好感触とは裏腹に、彼ら中年男性の発言は自身の優越的な立場を顧みないもの、あるいは若者や女性への配慮を欠いたものとみなされ、人格面で敬遠される対象となりうる。また、これらの特権に与れない「弱者男性」のような議論は、当事者個々の言説や事情は考慮すべき差異があるが、中年×男性に特有な構造的優位がありながらも実力でそれを得られなかった存在として、自己責任に帰す反論に応酬される。これも含めて毀損の対象となるのが中年段階であり、私を含め若い世代は好んで中年男性の表象を引き受けることを忌避したくなるのだ。

  

 (※次の段落は文章全体のどこに置いてよいか不明なのでもどかしい。)

 ここで試みに、現代日本で中年男性という集団が果たしている役割を、「おじさん」バッシング言説に抗して肯定してみる。それらは、①積み上げてきた経験と実績に裏打ちされた、破綻や失敗なく現状維持できる管理者・雇用者・熟練労働者の役割、②妻子および両親を経済の一面で扶養する家父長役割、③主に男性に閉鎖された地縁・社縁コミュニティ内部で、少額の娯楽コストを担い、(旧来的な男性性と密接に関連した)文化と価値伝達を担う役割、の三つに大別する。

 ある程度平易でありふれた感覚かもしれないし、わざわざ事挙げる内容ではないだろう。

 私が中年男性を研究対象とした先に見ている問題は、年齢や属性を条件にして対話や成長を期待できない存在を措定するゆえに、共生するに値しない集団の心理的な他者化・隔離が行われること」である。これらの他者化・隔離は、個々人が全面的に衝突しないという意味での合理的なテクニックかもしれないが、マクロで捉えれば、世代間/ジェンダー間のコミュニケーションを未然に分断する思考に連なるものである。上述したように中年期は、①の典型的な昇進のパターンや、③で示される立場を顧慮しない発言によって、対話や成長を期待できない「他者」として設定される。

 そして、論証の方法は模索中で力不足なのだが、「おじさん」の実像に迫った上で発信したいメッセージは以下のようなものだ。

 既に一部の「おじさん」は、職場と家庭に拘束されつつも、学習や若年世代への融和の意図をもって、公共の問題に取り組むことができている。中年×男性の層が特権的・抑圧的に独占してきたとされる、経済や地位、ジェンダーの社会問題(ハイ・モダニティによる捉え直しが絶え間ない問題群)に、彼ら「おじさん」自身も主体として関与することができる。「学び、変革する」おじさんというパラダイム(観念・理論枠組み)と居場所(物理的環境・コミュニティ)を用意することが、生涯学習社会の主体として中年期を想定することと、対話・共生するに足る層として毀損しない形で中年男性を包摂できること、これら二点の承認を可能にする。こうした中年男性を学習・社会変革の主体として承認することで、現代日本社会で個々人/国内で行き詰まっている問題の解決を期待できるだろう。まず、個々人については、①②③で示したような中年への忌避感を軽減し、生きづらさや「弱者男性」論に対してポジティブな隘路が示され、当事者と関係者の双方が自身と社会に変化をもたらす道を辿ることが可能になる。国内の状況については、中高年を大学等での学び直し/生涯学習の主体として一層想定し、再度職業スキルを熟練させて国内経済を支える働き手の数を維持するという、労働/経済問題に一石を投じる。世界経済フォーラムが示すように、国や企業のトップやリーダーシップ層に多様性がより高まると、パフォーマンスは向上する。ジェンダーと労働の不均衡についても、女性および中高年を企業社会内で変容し成長する存在として規定し、生産的かつ包摂的な労働政策を実現させることが見えてくる。


 表現の稚拙がもどかしいが、私が「おじさん」を見直したい理由について、研究の着想段階から述べてきたつもりだ。徒に中年男性一般を称揚するものではないし、抑圧的な男性社会が存在してきたことは紛れもない事実だと考える。それを踏まえてもなお、未来に向けた中年男性の生かし方を構想する私のような視点を、どうにか「かわいそうなおじさんの自己弁護」になる前の立場で言語化、あわよくば理論化しておくことが、中年期を迎えて生きる将来の人間たちに拠り所をもたらすかもしれない。私の進路がどうなるのか、甚だ心許ないが、この問題関心を維持しながら「プレ中年期(笑)」を考え抜いて生きていきたい。

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