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名前を特定していない感情の話

 引用できるフレーズを探知するために、視線が文字列を這う。

 修士課程2年目の6月。今の私が文章を読むとき、「読む」行為の本質はこの一文に集約される。理路整然と書かれているような文章を前に、研究の前提を補強したり、自説に示唆を与えるようなフレーズを抜き書きして貯蓄する。なぜなら、「眼光紙背に徹する」ような読み方ができないから。修士論文の執筆、あるいは近日に控えた授業、市民講座の司会。これらのアウトプットの機会に備えて、引用する価値がありそうな文に印をつけ、メモする。だから、自分の内側から生じる言葉を使う機会が、相対的に減少している。本稿で試みるのは、書籍化・論文化された表現に頼らず、名前を特定していない自身の感情について、論理性を低減させてでも自分固有の表現で書き表してみよう、というものである。

 きっかけは、太田啓子『これからの男の子たちへ』で、弁護士である著者と恋バナ収集ユニット「桃山商事」の清田孝之が対談し、感情表現をめぐる男性の傾向が述べられていたことにある。

太田:「…男性が自分の感情を言語化するのに乏しいというのはよく言われますが、たぶん生まれつきの差ではなくて、女性は女性としての経験をするなかで内面を言語化する力を鍛えられていくんだろうと思います。」

(中略)太田:「日本にいると、日本国籍でシスジェンダーで異性愛者で健康で……みたいな男性は、自分がマジョリティ属性持ちであることを意識する機会がおそらく少ないでしょう。その結果、自分の属性にかかわる問題を言語化して見直す必要に迫られることが、マイノリティ属性持ちに比べればなかなかない。だから何かことが起きたとき、自分の属性にかかわる問題を語る言葉が乏しかったりして、認識にも至りづらいことがあるのかな。」

清田:「「感情の言語化」ってすごく大事な概念だと思うんですが、そのことすら男性たちはピンとこないかもしれない……と感じることがあります。「言語化していない」という意識すらないような気もします(太田 2020:82-3)。」

 私も、両者の傾向に対する指摘に概ね同意するし、自省する機会をもつきっかけをいただいた。「女性は女性としての経験をするなかで」というのがこの引用部分だけでは、太田が女性固有の経験を過大評価しているようにも読めるし、清田の男性に対する所感の根拠が見えにくいかもしれない。だが、感情の言語化の訓練をする傾向が、男女に不均等に存在していることは言えそうだとは思う。その納得とともに、「マジョリティ男性を自認する自分なりに、今まで試みなかったような感情の言語化に挑戦しよう」という気持ちが起こった。


 私は心身に障害を抱えているわけではなく、むしろ五体満足で学業で成功し、人間関係に困難が生じることはほぼない。ソーシャル・マジョリティであり、知識の蓄積や思考力は高い部類に入るのだろう。能力不安があってもそれが現実のものになることは比較的少なく、これまで能力の不足が露呈した経験は、相当高いレベルに挑戦して競争したときに限られるのだろう。このように、総じて幸福に、マジョリティとして生きている私のような者の方がおそらく持ちやすい感情が、ここからの主題だ。

 読者が予測して読み進められるように暫定的にカタく名前をつければ、「常識人として承認されることへの忌避感」という名前の感情について述べることになる。

 具体的には、小中学校での授業にて教師たちが言う「今村くんの説明の通りで…」、10代後半から親が確認する「お前やったら分かるやろうけど」、大学やアルバイト先で稀に聞く「今村さんはしっかりしてると思うので」といった言葉/態度に接するときに生じる、居心地の悪い感情のこと。多少エッセイ風になることを自分に許しながら、マジョリティが猜疑心をもって経験している(かもしれない)感情を表してみるぞぉ。


 この感情を認識したのは、たぶん小学4年生のこと。学業優秀、スポーツも上位10%には入る、社交的で周りに笑いが起こる、溌溂とした少年時代を送っていた。きっかけは、毎年4月にある学級内の係の選出だ。毎年クラス替えを行う小学校での係決めは、「立候補→候補者による抱負の語り→(質疑応答)→(試用期間)→顔を伏せた挙手での投票→選出」という流れをとっていた。私は係が有効に機能する3年生から毎年、学級委員に立候補した。私は学級活動の時間に学級のまとまらない話題を集約するのが好きだったし、「優等生」として答えや結論を導くプロセスに自負があったのだ。先生や真剣な友達が集団(授業)をまとめるのに困っているなら、私がその役でヒーローになってやろう、という自己顕示欲が根底にあった。つまり、根底の自己顕示欲が成功経験の蓄積によって裏打ちされ、まとめる快感に酔いしれていたのだ。そして幸福なことに、私は毎年複数の立候補者が現れるような4月の選挙で、圧倒的な支持を誇り、クラスメートからの信頼を集めるのに苦労することが一切なかった。同級生集団で希望する役職を、優等生のオーラともっともらしい演説で勝ち取ることができる。私は、客観的にも主観的にも、向かうところ敵なしであって、労せずして同級生の信頼を得られるような少年だった。今回話題にしている感情は、そんな成功経験しかないような時期に、突然やってきた。

 仮想実験のようなものだった。「実は自分は行動が"オカシイ"異常者で、みんなはそれを分かって優しく持ち上げてくれているんじゃないか」。こう思ったとき、自信は揺らぐ。ほころびは、たびたびある教科書の忘れ物や、家庭から学校に渡される[懇談の日程調整用紙]の提出忘れ、などの「忘れ物」の機会だ。「ちゃんとしている学級委員」がキャラクターでも実態でも定着していた私は、どの生徒も少し注意して人並みにこなしていることに、優秀な自分がときどき失敗してしまうことを気にしていた。このような微小でレア、ただし定期的に起こるタイプの違和感、恥ずかしさが一気に生活全面にわたる疑いに転化したとき、周りの人間は自分の欠点や障害を承知した上で私を称賛するアクター(俳優)に見えてくる。忘れ物はとっても恥ずかしいし、「教科書見せて」と優等生が隣席の友達に頼むのは妙だ。そんなやつに優等生の資格はないとも思う。だけど、教科書やドリルは机の上で散らかっていて(もちろん、散らかしたのは私だ)、提出する用紙を母が確実に渡してくれるわけじゃない。朝は余裕がないので忘れ物を予防できない。違和感、恥ずかしさは自分の"オカシイ"能力の欠如が現れた氷山の一角であって、俳優たちは私がその違和感、恥ずかしさを感じなくてよいように、フォローしたり信頼するふりをしたりするのだ。

 こんな不安を抱えていると、私にとって好ましい人間関係は、一方的に崇められる類のものではなく、優等生としてのキャラクターを維持しつつもイジられたり笑われたりする類のものへと変化していく。学校の授業や学級活動の集約力に関しては相変わらず高いパフォーマンスを示していた。だが、自分の欠点を列挙してあだ名を構想する女友達に咎められたり、忘れ物をしたら周囲の複数の友達に頼って失敗を感知されたりと、あえて自分が劣ることを印象づけようとしたし、そんな人間関係の居心地がよかった。「寝癖メガネ忘れん坊………めんどくさがりや音痴くん」というあだ名の語呂は今でも印象深くて、「こいつは演技じゃなく自分の"オカシイ"ところをイジって分からせてくれている」とまで感謝していた。また、当時の麻生太郎首相の会見のモノマネをして、誰もしないような極端な遊びを実演することで許容される「異常」の水準を探っていた。私の周りの俳優たちが演技を止めないとするなら、優等生キャラクターはまとったまま、私を責めたり傷つけたりしない程度の異常ぶりを朗らかに表現しよう、という魂胆であった。

 完全無欠な優等生であり、通常の社会的行為は問題なくクリアできる生徒だと思われているままだと、自分の”オカシイ”ところ、つまり欠点や失敗や独特な感性を見咎められて、周囲の人が落胆するのが怖い。「こいつが異常だとは分かったうえで私たちは演技しているが、こいつはここまでヘンなことをするのか、がっかりだ」という呆れや落胆の表情を見るのが怖い。自分に全面的な異常があるのは認めてそれなりに生きていくとしても、相手の好意を無下にしたくない、見捨てられたくない、そんな気持ちなのだ。

 常識人として承認されてしまっていると、それが剥奪されるのはきっと、自分が致命的に周りに害を与えた/迷惑をかけたときだろう。それが露呈する転落の機会が、私にいつか訪れるのではないか。ならば常識人としてキャラクターを固定していて安住していると、とんでもない報いを受けるのではないか。こんな忌避感から、標準的な人間と見られることを恐れ、自分の個性を表現することに積極的になっていった。ただし、異常な能力不足になるリスクは回避していたが。

 このような「常識人として承認されることへの忌避感」は、学歴やリーダーシップのような、常識的な人間の行為を高水準でクリアしていると見なされたときほど強まり、この忌避感のために演技や言葉じりに変化を及ぼすようになっている。例えば、専門的な知識を持っているだろうと想定されて質問が投げかけられるとき、あえてつっかえて話したり、横を向いて答えを持たないアピールをしたりする。部屋が散らかっていたり、家事で失敗したりしたときには、あえて恥も外聞もないように欠点をアピールしたり、SNSで表現したりする。常識人として受け止められた挙句、持ち上げて評価してくれた相手を裏切るほどの大失敗をしてしまう。そのようなリスクを恐れて、あえて常識人として振る舞うことと反対のことをするのだ。この作戦はきっと生き抜くために賢いし、幸福なのだ、と全身で覚えているような気がする。この忌避感が生じるとき、演技する身体は、右腕が頭髪を毛根部分から強く引き上げることで思い悩むポーズを見せることが多い。他にも、目上の相手とのコミュニケーションでも幼稚な相槌を打つことで、合理的な大人とのやりとりではないように仄めかしているかもしれない。自覚的でない身体表現をおそらく伴いながら、「マジョリティでかつ『優秀』な自分がそうではないかもしれない、期待しないでよ」というポーズを送っているのだと思う。

 少年期から自分は過剰な承認を受けてきたのかもしれない、とときどき考えることがある。過剰だったかどうか今になって確かめる術も、現在以降のセルフケアに役立てる知識も、得られそうにはない。関係の浅い人とのやりとりほど、「期待しないでよ、あなたの想定外の不手際を私は起こすよ」という警告を、脅威と感じられない程度に、願わくばイジりを通じて前もって許してもらえる程度に発しているのである。マジョリティ属性を徐々に高めてきたような20年だったからこそ、その固着されそうなマジョリティ性を解除して柔らかく見てもらえそうな手がかりを、恐れながら渡していきたいと思うのだ。

 そして、好意を持っていて長く親しくしたい相手にほど、この忌避感はマイルドになりつつ、一方で頻繁になる。私は他者に心を許しやすいように心がけているし、あえて裏心を読み込んで洞察する邪念を抱かないように訓練してきたつもりだ。だから、アクターとして演技する他者かもしれないという少年期からの疑いはもはや無効にしていて、友情や愛情をしつこく問い直すようなことはしない。そしてその分、親しい相手にほどライトに頻繁に、普通でない自分をアピールする。例えば最近では、不安定な場所に置いて乾かしていた大皿を割ってしまった話や、数日間部屋にコバエが発生してしまった話を、相手に咎められるより前に打ち明けた。その相手が、誰でも少し注意すればできそうな振る舞いを実行しない(できない)人だと自分を知ってなお、親しくしてくれるのならば、常識人だと見られることへの忌避感は大きくなることはない。許容される異常さのラインが変わっていないかどうか、関係を良好なものにしてもらえるかどうか、頻繁に失敗経験を明かすことで親密度の確認をしているのである。

 これは、マジョリティが過度に優秀だと思われたり、全面的に逸脱しない人間だと思われたりすることを避ける思いであって、過去の恥ずかしさや、能力欠如の露呈を回避したいという「社会的」な感情だと思う。一度、「自分は過度に承認を受けた異常者かもしれない」というヒステリックな悲観を抱いたマジョリティとしては、そのマジョリティ属性が一切疑われないというのは転落不安につながる恐ろしいものなのである。少年期のように、背伸びしてパーフェクトな自分を誇示することは、照れくさい・恥ずかしいなんて倫理的な行為ではなくって、承認を失う・怖い行為として認識している。

 「今村さんはしっかりしてると思うので、領収書は/勤務表は/契約書は管理できますよね」のような言葉は、季節ごとに1回ずつ、信頼・確認の表現としてかけてもらえる。きっとありがたいことなのだが、「いやぁぁ…」と身振りを交えて柔らかく否定する。常識的なことが確実にできる人と思われると、逸脱や裏切りがほとんど許されなくなりそうで、居心地が悪いのだ。なぜなら、「しっかりしてる人」などという自覚はそう簡単には確立されなくって、「昨日のこれはしっかり常識的にこなせた」という事実が一つずつ、安心とともに積み上がるだけなのだから。逸脱や裏切りを自分が犯してしまうとき、自分の欠点や標準からの逸脱は、小出しにして知らしめておいた方が、きっと被る害も排除も小さいものになるのだろう。

 感情を言語化する行為を、あえて名前をつけてこなかった感情に対して試みたことで、堂々巡りのような自分語りになったかもしれない。「やっぱりちょっと変わったことを思っていて書いているけれど、今村の失敗や奇行をまた見ることになるかもしれないな」と知人に思わせることができたなら、この「マジョリティ男性なりに、感情を言語化する」という行為に秘めた戦略は、ほとんど成功しているといって問題ないのだと思う。

 どうか、「普通の人」だと思って信用されませんように。


【参考文献】太田啓子、2020、『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』大月書店。

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