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2023年1月時点で私が気になること

記事を書く目的。要らない前口上。

 私が記事を書く目的は、興味関心が漠然としており持続しない私の今の関心を、読まれうる形で整えることだ。というのも、自分でも関心事の整理がついていないなかで友人・知人とプライベートな話をするとき、「何か書き留めておけば伝えられるだろうに・・・」と後悔するケースがある。私が魅力的なトークに自信が持てない以上、一旦文字に起こしておいて、その文面を整理・反芻する形でプライベートな話をする作戦に出たわけだ。
 では、なぜ1/9の夜に書くのか。確かに常識的に考えれば、2022年の年末に1年を振り返ればいいはずだし、「2023年の抱負」を書くならば初詣ぐらいのタイミングで記事を書くのが適当だろう。しかし、私は年末年始に自分を反省し抱負を語るアクションをとりたくない。なぜなら、多くの素晴らしい友人や知人がまとめた生活やアイデアと、私の生活やアイデアとを(画面上に)並べて比較したくない/されたくないからだ。同じタイミングで投稿するのは気が進まない。このような気分になる一つの要素に、恐怖心がある。自分の生活やアイデア(=1年で頑張ったことや思考のアウトプット)が卑小で浅はかなものだと痛感するのが怖い。もう一つの要素に、自尊心がある。具体的には、自分が世間の型通りに1年を振り返ったり、次の1年を待ち望んだりする枠とは違う形で、自分のペースや射程で生活を送りたいのだ。そういう意味で、自分の生活やアイデアを友人・知人のそれらと並べて同じペース・射程・サイズにまとめたくはないのだ。
 そんな自分の面倒な性分を分かっていながらなお、私は「一旦文字に起こしておいて、その文面を整理・反芻する形でプライベートな話をする作戦」を必要だと思ったので、恥を忍んで書き出す。
 要らない前口上になったが、恐怖心や自尊心が自分の行動を遅くつまらないものにしてしまう自分が嫌で、恥ずべき自分の性分を自覚したくて書いてしまった。私の自己評価の乱高下については、一度納得いく形で整理しなくてはなぁ。

2022年の私の漢字「衛」

 2022年は自分が壊れないように、言い換えればミニマムに自分の健康と欲求が満たされるように、保守化した年だった。1月に修士論文を書き上げ、研究の関心を絞り込んだ形で約4万字の文章に区切りをつけた。4月からの新社会人生活。自分の理解力・記憶力・コミュニケーションの丁寧さが不足するために、多くの通常業務で緊張し、失敗し、萎縮した。そのときどきは集中して話を聞き、意欲があるように張り切って取り組んでも、自分のパフォーマンスは先輩方の期待を下回っていたように思う。緊張、失敗、萎縮を自覚しながらも、身体や前向きな性格を壊さないようにあえて休養をとるよう心がけた。具体的には、1営業日あたりの残業は2時間を超えることは稀で比較的よく休憩をとったり、部署兼任解除を選んだりした。思えば、私の基本的な方針は「自己防衛」だったかもしれない。院生生活から社会人生活を大枠で捉えると、自分の研究テーマや業務内容をあえて大きく揺るがそう/変更しようとはせず、無難にこなせる範囲を守ろうとしているようだ。
 過去と比べる。本来、反復や保守や停滞を好まなかった私だが、拠り所の小さい新たな生活の中で1年「自衛」する形で区切りを迎えている。では、何をどのように「衛っている(まもっている)」のか。
 何を衛っているのか。一言で表現してみると、「肥大しない自分」だ。大きな成果を上げるわけでもなく、特別な幸せを感じているわけでもない職業生活でありプライベートであるわけだが、足元から崩れることがないように負荷を軽減している。果たしてそれが中長期的に見て私の生活を快適にするものなのか、確信をもてない。このように書くと悲観的で自虐的に読めるけれども、自分が多くを望みすぎて壊れないようにセーブして今を穏やかに暮らせていることには、ほっとしている。「肥大しない自分」を衛って現状維持に等しい生活を送った1年を経て、自分の心身にやや負荷を与えながら自分が報いたい他者に価値貢献していきたい。

気になること プロ野球選手を扱う記事から


 下記の記事を読んで、「ある職業でスペシャリストになることで、衣食住のセルフケアができなくなるのは、非合理ではないか」と考えている。

【阪神】佐藤輝明、退寮してからの料理は「トースターでパンを焼くのが精いっぱい」/一問一答

 これは、球団が若手選手を抱えて集団生活を送る選手寮を出たプロ野球選手が、自分の食事を整えることができないことを話題にした記事だ。たしかに、スポーツ新聞のいわゆる「暇ネタ」と言ってしまえばそれまでだ。しかし、このような佐藤選手の話題を「料理を全くしないぐらい、野球を熱心にやってきたんだな」と読めてしまう自分の感覚を、取り上げて考えたい。
 主張したいのは、職業人として自立しているからといって"生活者"として自立しない人間(割合で考えるとおそらくは男性が多い)を、甘んじて育ててしまっている空気を変えたい、ということだ。分業化が先鋭化している社会のなかで、多くの人が効率的かつ低コストで自分の衣食住を成り立たせることができるようになった。つまり、分担することでたくさんの人がラクをできる、安価で自分の衣食住を守った上でプロとして仕事に専念できる、というのが当たり前に浸透してきている。その結果、プロ野球選手ほど極端な例を出すのは理路がよくないだろうが、佐藤選手のようなプロが「自炊はできないがアスリートフードマイスター(参照)の資格をもった夫人と二人三脚」といった記事で話題になるのがお決まりになってはいないか。そして、それを当然のように受け入れ、羨ましく思う自分たち読者がいないか・・・。
 だから何だ、という話かもしれない。しかし、プロとして何かを成し遂げることと引き換えに、自活して衣食住を満たせない成人が親密な誰かに支えられながら生きていく、というのは甘い考えだ。なぜなら、適切なセルフケアができないまま得意な技術だけを磨いた人は、プライベートでは他者に依存するか自分の健康を侵害するかして生きる状態に至るからだ。たしかに、すぐに健康問題は起きないだろうし、強い精神や肉体があればいつまでもリスクは発生しないかもしれない。しかしそうだとしても、家族や学校や寮のような環境が「プロであれば衣食住に関わる日常のタスクはしないでよい」ように人間を育ててしまっているのは、彼らが自立・自活する道を塞いでしまっているのだから不健全だと考える。


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