7/7 「次郎物語」で授業発表

昭和10年代の「教養小説」としての『次郎物語』」というタイトルで授業内発表を行うことになり、note執筆を中断して資料づくりに勤しんでいた。のちのち自分で見返すこともできるため、便益もあるだろう。20000字ほど書いてしまった。無駄だ、冗長だとも思わないのである。タイトルは「昭和10年代の「教養小説」としての次郎物語」である。

1. 作品の基本情報
2. 物語上の本田次郎の自己形成
2-1 次男が受ける愛情と母性
2-2 父の愛情と教育
2-3 「金の試練」と進学
3. 下村湖人が読者に贈る「教育小説」としての「次郎物語」
4. 総括・ディスカッション
5. 補論:教育者・下村湖人(未完)

1. 作品の基本情報


下村湖人、1941(=1989=2006)、『次郎物語(上)(下)』講談社 青い鳥文庫

「次郎物語」は1941(昭和16)年に第一部が出版され、1954年に第五部をもって完結した。本稿で扱うのはもっぱら「第一部のみ」である。著者の下村湖人は1884年、佐賀県の生まれ。教育家・小説家。佐賀中学校、第五高等学校を卒業し、1909年、東京帝大英文科を卒業。1911年、佐賀中学校教師になり、以後複数の中学校と高等学校で校長を務める。1931年、台北高等学校校長の職を辞して上京、社会教育に専念したのち著述生活に入る。1955年に死去。下村のキャリアについては補論で詳述したい。
また、「次郎物語」第一部のあらすじの解説はWebサイトに譲り、本稿では拙速に第2章以降の議論に移る。「次郎物語」第一部は生後すぐ里子に出された本田次郎が四歳で実家にかえり、七歳で小学校に入学し、十歳で実母に死なれるまでの物語である。実際は明治二十年代の、九州の片田舎での著者の体験だが、時と所は曖昧化される(荒 1956)。次郎が中学校の5年生の時に五・一五事件(1932年)が起きることから考えて、次郎は大正のはじめに生まれたことになる。物語の時代設定は、次郎誕生の大正初期から昭和の二・二六事件の直後までである。新潮社のWebサイトによれば、「生後すぐ里子に出されたことが次郎を変えた。孤独に苦しみ、愛に飢えた青年が自力で切り拓いていく人生を、自伝風に描く大河小説。」と紹介されている。
また、昭和16(1941)年には日活が初めて映画を製作し、島耕二監督、館岡謙之助の脚色で早々に映像化作品となった。最も近年の映画化は昭和62(1987)年であり、第一部のみの内容で、森川時久監督がメガホンをとり、井手雅人が脚本を務めた。音楽はさだまさし/渡辺俊幸、主演の本田次郎を伊勢将人、育ての親・お浜を泉ピン子が演じた。


2. 物語上の本田次郎の自己形成

2-1 次男が受ける愛情と母性


 本章では、本田次郎の自己形成について、イギリス教養小説の系譜に倣って分析していく。川本静子は、「地方出の青年」の変貌過程を19世紀中葉から20世紀初頭に至るイギリス小説において跡付けた。1850年代以降隆盛した「教養小説=ビルドゥングスロマン」のパタンには、主人公が遭遇する三つの試練があるという。すなわち、「父による試練」、「女による試練」、「金による試練」である(川本 1978:20)。
2-1では「女による試練」の枠組みから、具体的には次郎が「次男」であるゆえの愛情に対する飢餓感と、三人の女性から与えられる母性を分析する。2-2では、「父による試練」の枠組みから、父・俊亮の愛情が次郎の人間形成にどのように寄与したかを明らかにする。2-3では「金による試練」の枠組みから、作品内での本田家の没落と、教育システムとの包摂・排除が次郎にとってどのように経験されたか、教育社会学的に分析を試みる。
 川本の教養小説論を念頭に置きつつ、「次郎物語」が複数の人物の死や家系の没落を描くプロットであることから、「相続」のキーワードで分析枠組みを設定しておく。石原千秋は、漱石文学に書かれた遺産相続は、第一が「家督相続のレベル」、第二が「趣味の相続」、第三が「「真実」の相続」だと述べた(石原 2013:111)。次郎物語と対比する上で簡明な表を示しておく。
表1.永井代助と本田次郎における「相続」の対比
家督相続のレベル 趣味の相続 「真実」の相続
永井代助(『それから』) 次男(帝国大卒) 父と異なる西洋趣味 美禰子に困惑
本田次郎 次男(学業優秀な兄) 水泳、武士道 お浜と春子に困惑

「次郎物語」の第一部では、父方のおじいさんが病死し、次いで父・俊亮は役所勤務を辞して商人になるべく道具や屋敷を売却する。遺産相続のテーマを随所に抱える小説であるため、石原が漱石文学に適用した分析枠組みに則って分析することは意義深い。一番目の「家督相続のレベル」は、本田次郎が次男として生まれ、本来家督を継承できない立場であることと彼の命名からして明快だろう。長男・恭一との葛藤は物語の序盤から常に存在し、気が弱いが学業優秀な長男と、気が強く腕白で未熟な次男という対照的な構図も手伝って、長男の恭一が家督を相続することが自明視されている。二番目のレベルである「趣味の相続」については、次郎は、役所勤務である父・俊亮から、水泳の趣味を「稽古」という形で半ば強制的に教わり(上:167)、のちにも大川に泳ぎに行くシーンが繰り返される。長男の恭一も同様に水泳を父に教わるが、学業優秀で成績はいつも一番であり、文人趣味を体得していくと想定される。第二部以降、次郎が中学校に落第したのち入学する一方、先に進学した恭一が順調に学校システムの中で成功していく兄弟の相違点が見られる。家督相続の制度あるいは個々人の性格や個性の側面も考慮すべきだが、同時に「趣味の相続」によって長男・恭一と次男・次郎の自己形成のパタンが異なることは注目に値する 。三番目の「真実の相続」については、漱石文学では女性における事柄が「真実の言説」となる形を取っている。他方で「次郎物語」ではどうだろうか。次郎が女性との関係に悩むのは、第一には乳母で校番のお浜に対して、次いで医者の娘で親友・龍一の姉である青木春子に対してであった。後ほど詳述するが、父とは一週間のうち五日間を別居して過ごす三兄弟にとって、父から女性の「真実」について伝達される機会はまずない。二人の感情が読み取れないで困惑するシーンは非常に多い。女が心を正直に表さないことの不安が、次郎の成長の一つの課題になっていることは明白だ。石原が指摘するような三つのレベルの遺産相続という漱石文学の読解法は、複数のアナロジーを伴って「次郎物語」にも適用可能だと考えてよい。次節で述べるように、祖父・恭亮の死後の遺産相続と本田家の没落、および父・俊亮の教育や贈与に際しても、適宜石原の議論を参照する。

 さて、本節のテーマは出生直後から10歳までの次郎が「女による試練」にどのように直面したか、である。結論を先取りして述べると、実母・お民に嫌悪され、里子に出された次郎は、養母のお浜(ばあや)の母性のもとで母性に触れ、マザーコンプレックスを抱える。お浜の娘であるお鶴は彼にとって遊び相手であるが、同時に、理解不可能な女子として初めて登場する同年代の女性である。その後の関係性は第一部ではあまり進展しない。小学校四年生に進級してからの次郎は、親友・龍一の姉である青木春子に恋心を抱く。彼女が東京に嫁ぐことになって途方に暮れる次郎の姿は、「真実の相続」を果たすことができない10歳の少年である。第一部の巻末で実母のお民は病死する。実母を喪う悲しみを感じながらも、実母にはもはや母性を求めることはないが、養母のお浜と抱き合って眠る様子からは、宇野常寛が「母性のディストピア(宇野 2019)」と表現した少年の未熟さがまだ残存している様子を確認できる。
まずは、幼児期の次郎が感じた「次男」であるゆえの愛情に対する飢餓感と、三人の女性が彼に与えた母性を分析する。はじめて次郎に母性を与え、第一部を通して次郎が母性を求めるのは、乳母のお浜である。お浜の社会的地位が把握できる初出の記述を示す。
「お浜の家が、ふつうの家ではなく、学校の校番室だったからです。次郎の育った村の学校では、そのころ用務員さんの代わりに校番という者をおいて、家族といっしょに学校の中に住まわせ、夜は、宿直の役目をやらせていたのです。お浜の家族は、お浜夫婦に、もう六十をこしたお浜の両親、それにお兼とお鶴の六人でした。その六人が、教員室のすぐとなりの、うす暗い六畳のへやと、そのつぎの板の間とを自分たちの住まいにしていたのですが、そのせまくるしいところに、次郎までが割りこまされたわけだったのです。(上:33)」
 愛情の飢餓感を埋めてくれたのは乳母のお浜であり、しばらくは校番室の方が本田家の生家よりも以後ことがよい。だがそれは、お浜一家が校番の仕事を退職させられ、炭鉱近くの村へ引っ越す時に母性を求める先は失われてしまう。次男であるがゆえの愛情の飢餓感は、出生当初の名付けから変わらない。長男の恭一は祖父(おじいさん)から「恭」の一字を受け継ぎ、家督相続を前提に将来を嘱望されている。他方で次郎は、生まれた時から「しわだらけ(上:)」「おさるさん(上:28)」と呼ばれる醜悪な容貌であり、生まれてわずか二月あまりで里子に出される。実母は常に次郎に冷たく、叱責するが、三兄弟の母親として教育熱心な姿勢をたびたび見せる 。次郎が静かで乱暴しないように行動を変化させてからは、次郎に対する説教を積極的に行うようになる。実母お民からの愛情に次郎は常に飢えているが、乳母のお浜への愛情がそれを上回って充足しているため、実母の愛情や母性を必要とはしない。次郎の愛着が向かう対象は乳母お浜の乳房であり、抱擁である事実は、一貫して描かれている。幼少期の次郎は、実母に愛されず乳母一家に愛されるために、生家に戻ってからも度々お浜の母性を懐かしく思い、彼女が本田家に泊まりに来る際には一緒に抱き合って眠っている。これは川本の言うところの「肉の愛」(川本 1978:25)を想起させ、後述する第一部の最終盤のシーンに象徴されるように、次郎の性的な葛藤の到来を示唆する要素でもあることを指摘しておく。

まずは象徴的な幼少期の次郎の煩悶について述べておく。序盤にはお浜から受ける愛情に満たされ、生家や実母への愛着に欠ける人物像が描かれる。
(どうして自分は、お浜の家で生まれなかったんだろう。こんな家で、名月の晩 なんかに産まれて、えらくなるよりか、お浜の家にいるほうが、よっぽどいいのに。)そう思って、かれは、せまい、むさくるしい校番室が、たまらないほどなつかしくなってくるのでした。(上:149)
「次郎物語」第一部の末尾に置かれているのは、実母お民の死と、乳母お浜のあふれんばかりの母性である。実母お民は次郎が六年生の夏、病気療養のために実家である正木家に帰ってくる。
「次郎だけは、いつもかあさんのそばにいてもらえるわね。」それは、いかにもさびしい声でした。しかし、次郎の耳にこれほど強くひびいた声は、これまでにありませんでした。それは、お浜の口からも、春子の口からもきいたことのない、ふしぎな力をもった声でした。(下:313)
 このように、熱心に看病をした次郎は母お民の真心に触れたおかげで心のゆとりを得て、動揺しない落ち着きをもっている(下:343)。実母については、死の直前までマザーコンプレックスは解消されず、お浜(ばあや)がそばにいることが次郎にとって母性の庇護下にいられるほとんど唯一の機会なのであった。
 その晩、次郎とお浜とは病室のつぎの間の同じかやの中に、三年ぶりで枕をならべて寝ました。お浜は、はなれていてさえ暑いのに、たびたび次郎の肩に自分の手をかけては引き寄せました。次郎は、引き寄せられて自分の手がお浜のたるんだ乳房にさわるごとに、はっとして目をさましました。かれは、よく眠れませんでした。それは、しかし、たびたびお浜に引き寄せられたばかりではありませんでした。澄みとおった泉の水のような母の愛と、あたたかい潮の流れのような、ばあやの愛とが、かれの小さな一つの胸の中にうずをまいて、息苦しいまでの喜びに、夜どおし、かれのゆめをさそいこんであったからなのでした。(下:331)
 この記述は非常に川本の表現からのアナロジーで把握できる象徴的な記述だ。「精神的で主人公の魂の伴侶となる」実母お民からの「清浄な愛」と、「感覚的で、主人公の肉欲・衝動・未熟な精神などに起因する」乳母お浜からの「肉の愛」(川本 1978:25)が並立的に立ち上がってくる。イギリス教養小説では二つの愛に挟まれる苦悩が「女による試練」だが、次郎はお浜からの「肉の愛」を存分に受けて小学6年生でなお、息苦しいまでの喜びと心地よい夢と、そして新たに、眠りを妨げる性的な葛藤に煩悶している。実母お民の死によって、「清浄な愛」は新たに獲得できないが、母の真心に触れた次郎の健全な精神的発達の萌芽は、最終盤に丹念に描かれている。
続いて、主人公の魂を虜にする美しく残酷な「運命の女性(ファム・ファタール)」に関連する三人目の女性が与える母性を検討する。青木医院の娘、青木春子である。初出の記述を示そう。
「龍一には、春子というおねえさんがありました。毎日、薬局で、おとうさんのお手つだいをしていましたが、次郎がいくと、いつもやさしいことばをかけてくれ、ときには、お菓子を紙に包んでくれたりすることもありました。次郎は、それがうれしくて、薬をもらいにいくのを楽しみにしていたぐらいでした。(下:29)」
「次郎は、ほとんど毎日のように龍一の家に遊びにいくようになりました。そして、いつのまにか、かれも龍一にならって、春子を「ねえちゃ ん。」と呼ぶようになっていました。それが次郎にとって、どんなにしあわせなことであったか。それは、もういうまでもないことでしょう。お浜に別れたあと、かれの心は大きなほら穴ができ、ほら穴の奥からは、このごろ、おじいさんのつめたい死に顔がのぞきだしていましたが、そのほら穴も、おじいさんの死に顔も、龍一のへやで遊んでいる間だけは、すっかり消えてしまって、そのかわりに、あたたかい光と、美しい色と、やわらかなにおいとに満ちた小さな花園が、かれのまわりにあらわれてきたのです。(下:36)」
薬局では、春子は、いつもまっ白な上っぱりをかけ、うぶ毛のはえた、やわらかなうでを、そのそで口からむきだしにしていました、次郎の目には、そのすがたが、いかにも清らかな花のようにうつりました。かれは、春子が仕事をしている間、口をきかないで、じっとその手つきをながめているのが好きでした。(下:260)
 次郎は春子の女性的な仕草や言葉に女性性を感じて親密度を高めている。物語序盤のお鶴に対する関心以上に、春子に興奮しつつ安定した関係を築く。しかしながら、物語は急転直下する。まもなく夏休みを迎える時期に、春子は東京への嫁入りが決まるのであった。
いや、いまの次郎にとっては、お浜に別れたときの悲しみよりも、春子に別れる悲しみのほうが、大きいとさえ感じられたでしょう。お浜との別れは、なんといっても、いまではもう、すぎさった思い出でしかありませんし、春子との別れの、なまなましさに比べると、それは古いきずの痛みのようなものにすぎないのですから。(ぼくをかわいがってくれる人は、みんな、どこか遠いところにいってしまうのではないだろうか。)これも、かれの心をなやましたことの一つでした。(下:266)
 お浜の母性との別れは、次郎に母性依存からの脱却をもたらし、3年が経過して記憶からも拭い去られていた。春子との別れは、自分をかわいがって母性を供給する女性たちが、みんな遠くに行ってしまう喪失感を象徴している。「運命の女性」に強引に関連づけることはここではしない。だが、激しい渇望を掻き立てさせてなお、それを癒すことのない「運命の女性」(川本 1978:27)は春子が最初であり、最終盤にも手紙や看病を通じて春子の影が濃くなるストーリーになっている。温かく清らかな春子のイメージは彼女が東京に嫁ぐことによって途絶え、快適だが不可解な「真実」としての女性性は次郎に感覚されている 。
 本節のテーマとして、〈次郎が「女による試練」にどのように直面したか〉を追ってきたが、直接の応答を示してこの節を小括する。本田次郎は、およそ二種類の女の不可解さに直面した。一つは、実母お民と乳母お浜の対照的な愛情表現の狭間、すなわち「清浄な愛」と「肉の愛」との間の葛藤を示唆する母性との葛藤であった。もう一つは、青木春子の存在が象徴となる「清浄な愛」と「真実としての女性」の問題であった。同世代の女性を「清浄な愛」の対象とみなして接近するも、接近するほど「不可解な真実」としての女性性に戸惑いを覚えている。年上の春子に女性性と恋心を感じる次郎だが、「運命の女性」と擬えるほどに次郎の自己形成を妨げるものではない。なぜなら、次郎の元を去って東京に嫁いでゆくため、青木春子は第一部において恋愛の対象とはなり得ないからである。

2-2 父の愛情と教育


 イギリス教養小説のパタンとして「父による試練(Ordeal of Father)」が挙げられる。主人公の地方から都市への移動を伴いつつ、「父・家族・既成価値の束縛を解かれた主人公が、その自由なる責任において自己展開をなす場、と同時に、悪の洗礼を受ける」(川本 1978:20)というものだ。1850年代以降のイギリス教養小説では、主人公の人間形成にとって「父親」は重要なファクターの一つだった。本節では日本型教養小説のパタンにおける「父による試練」(あるいは父性を介した自己形成)のあり方を、「次郎物語」を題材に論じていく。
 橋本治は、「父権制の顚覆」ののちに父と息子の物語が変化した現況について、1978年の「スター・ウォーズ」以降の映画を話題にしながら、アメコミ系のスーパーヒーローにはみんな父親がいないことを指摘する 。さらに、民法改正によって家長制度がなくなったのちの現代の日本人にとっては、父親は重要度の高いファクターではないことを説明する(橋本 2019:47-82)。本稿で扱う昭和初期の日本とは、時間と空間を異にする記述だが、問いの導入として橋本の記述から、以下の問いを掲げる。すなわち、主人公に父親が存在し尊敬の対象となる「次郎物語」において、父の愛情を受けて育つことはどのような意味合いをもっているだろうか。
 次郎の父・本田俊亮の作品内での地位変化について簡潔に整理した上で、彼が次郎に注いだ愛情、教育を具体的に検討する。本田俊亮の概要は以下の通りだ。俊亮は町の役場に勤務しており、土曜日の晩に村の本田家にある屋敷に帰宅し、翌日の日曜日の夕方には町に戻ってゆく。請判の問題(連帯保証人ゆえの肩代わり)によって町で失職することになり、商人に転身して一家を引き連れて町に引っ越すことを決意する。次郎はその際、母の実家である正木のおじいさんの家に預けられ、そこから相変わらず村の小学校に通い続ける。

 次郎との具体的なやりとりを参照しながら、父の愛情と教育が次郎の自己形成にどのように寄与したか分析しよう。生後直後の次郎には、俊亮は特別な愛着を与えない。
 「どうせ名まえなんか、符丁にすぎませんし、へんな名まえでさえなけりゃあ、それでいいでしょう。(上:12)」
 次郎が成長するにつれ、次郎を叱責し愛情表現に乏しい妻・お民とは対照的に、次郎の暴力や悪戯に同情的でありかつ弁護するような姿勢を頻繁に見せる。本田家に戻ってからの次郎は、父は帰宅するのを心待ちにしていた。
「しかし、俊亮が自分を、たいして悪い子どもと思っていないことや、自分の味方になって、いろいろいってくれていることだけは、まちがいないという気がしました。かれは心の中で、父さんが自分を呼んでさえくれたら、すぐ出ていくんだがなあ、と考えたりして、一心に俊亮のようすをうかがっていました。(上:158)」
 悪漢になってしまいそうな次郎に説教をし、次郎は俊亮に対する尊敬を隠さない。父は卑怯者である行為や意気地なしの振る舞いを厳しく叱り、次郎の涙を誘発するシーンも複数ある。教育方針は終始一貫しており、次郎はしだいに父の教えに背かない人間になりたいと思い、正義感に満ちて人助けのために立ち上がる、我慢強い少年に成長してゆく。
「ねえ、次郎、これからは、どんなにひもじくても、人にかくれてものを食べるな。そのかわり、みんなが見ているところでなら、食べたいだけ、なんでも食べるがいい。ねだりたいものがあったら、相手がだれだろうと、思いきってねだるんだ。……いいか、とうさんは、のらねこのような、ずるくて、いくじなしの子は大きらいなんだぜ。(上:167)」
「腹がたつのをがまんするのが。ほんとうの人間だ。とうさんもいっしょうけんめいに、がまんした。我慢ができないようなときもあったが、そんなときには、飯も食えない貧乏な人のことを考えて、がまんしたんだ。(上:362)」「自分をいじめる人は、自分をえらくしてくれる、ありがたい人だと思って、がまんしたこともあるんだ。(上:362)」
第一部の後半、本田のおじいさん(恭亮)が死去してすぐ、本田家は急速に没落し、俊亮は役所勤めを退職して商売を始めることを決断する。本田家に伝わる家財道具や刀剣、屋敷自体も売り払って町で店を開く。この過程を次郎に察知された父・俊亮はそれまで以上に教育的な発言を繰り返す。
「先祖代々、どんなことがあっても、ひきょう者にだけはならないように気をつけてきたんだ。ひきょう者にならないというのは、けんかに負けないということではない。自分がしなければならないことは、どんなに苦しくっても、やりとげるということだ。正しい者が苦しんでいるのを見たら、まっ先にたって、その人を救ってやるということだ。世の中のためになることなら、ばあいによっては、命を投げだしても悔いないということだ。本田の家では、そういう精神を代々受けついでいこうとして、むかしから骨をおってきたんだが、それがほんとうの家の宝なんだぜ。いいか。(下:101)」
「ほんとうの家の宝」というボキャブラリーには、武士の家系である本田家の誇り、「家」の思想が明らかに打ち出されている。俊亮が次郎に対して行う愛情表現や教育の根幹には、武士の家系である本田家の家訓があることが明らかである。卑怯者やいくじなしになってはいけないと説き、他人を助けるためなら自らの犠牲を厭わない本田家の武士の精神を、父・俊亮は次郎に対して繰り返し説くのである。家督相続は前提になっておらずとも、「家」の思想あるいは矜恃を相続してゆこうとする父の教育は、現代日本の創作作品には稀な明瞭性をもって描かれている。
お浜の「母性」や俊亮の「父性」に対して次郎が抱く依存心は作品を通して見られる。だが、次郎の「独立独歩」と修飾できる内面的成長には、「ほんとうの家の宝」を教示した父の愛情が大きく寄与していることは疑いようのない事実だ。以上のように、「父による試練」の要素も多分に含む「次郎物語」は、むしろ「父の教育を通じた自己形成」という別の解を示していることが特徴的だ。橋本治は現代の日本社会では「父権制」は顚覆・崩壊したと述べて、父による教育や相続はもはや完全な虚構になりつつあると示唆している。橋本の現代における指摘に立体性を持たせるとすれば、「次郎物語」においては「父・俊亮」は経済的・地位的側面では既に父権制の崩壊に直面している家長の姿であり、もはや試練を与える存在ではなくなる一方、他方で家訓の伝達という形で「家」を相続していこうとする精神面での教育を通じて、人格的側面では高く価値づけされている。青少年の自己形成における「父権」の位置がポジティヴな形で示された成長物語として、イギリス教養小説のパタンとは異なる父のあり方を確認できる。

2-3 「金の試練」と進学


 この節では「金の試練」をめぐる次郎のビルドゥングの阻害要因と、貧困に連なる進学と教養へのアクセスの難化について、歴史社会学の文献を一部参照しながら明らかにする。
前節でも述べた本田家の没落は、単なる父の失職による一家の「没落」というよりはむしろ、三兄弟の通学に配慮した教育方針を伴った「転住」という要素が色濃い。家宝や屋敷の売却は悲惨なイメージをもって描かれるが、家族の意気消沈や貧困生活の描写は少ないため経済的困窮よりも両親の進学期待と正木の実家の経済的安定が際立つ。このことは、以下の家財道具を売却する意図を次郎に知られたときの、俊亮の説明だ。
「とうさんは貧乏になったんだ。だから、なにもかも売るよりしかたがない。道具ばかりでなく、家も売って、町で商売をはじめるんだ。恭一は、もうすぐ中学校だし、おまえも再来年には試験を受けるだろう。町に住んでいると、中学校は家から通える。とうさんは、そんなことも考えているんだ。どうだ、それでいいだろう。(下:99)」
 妻のお民も俊亮の方針に賛同し、進学と勉強を促す。次郎に対しても例外ではない。
「そんなわけで、あさっては、いらない道具をみんな売ってしまって、お金にかえることになっているのだよ。道具を売るなんて、はずかしいことだけど、これもおまえたちに、上の学校にはいって勉強してもらうためなんだから、しかたがないわ。おとうさんは、おまえたちに、えらくなってさえもらえば、道具なんかなんでもないって、いつもそうおっしゃってるの。だから、ちっとも気にすることなんかないわ。おまえたちは、そんなことには、とんじゃくしないで、いっしょうけんめいに勉強さえしていればいいの。わかるでしょう。(下:114)」
 三兄弟が町の中学校へ通学することを前提に、進学/勉強/試験といった言葉が両親から息子たちに伝達される。しかしながら、果たしてこうした教育方針は、次郎たちの現実の自己形成にとって可能な道筋だったのだろうか。
 これらの「金による試練」は大学への門戸が開いていたのかを確認しておく。筒井清忠によれば、1930年代の高等教育就学率は、教養主義が「修養」の観念に含まれて登場した明治末期に1%、「修養」から分離して自立・確立した大正中期に1.6%、河合栄治郎らによって完成した昭和15年に3.7%であった。これは『文部省年報』の統計に基づく。高等教育就学率が一割台までの時代には、高等教育機関の学生文化から発せられる教養主義の文化的影響力は極めて強く、地方出身者や親の学歴が低い階層の出身者ほど教養主義学生文化に曝され苦しんだ時代であった(筒井 2009:126) 。父・俊亮の学歴は明示されてはいないが、武士の本家の長男であり、職階は比較的高い。請判の問題で貧困を経験しており、もはや三兄弟の誰も高等教育への進学は諦めなければならないのかもしれない。長男の恭一は教科書を大切に扱い、学校では成績優秀である。他方で次郎は、小学校入学以前は教科書を便所に放棄するなどの悪戯をはたらいて学校に否定的だが、教室で五番、六番程度の成績を維持している模様だ。また、子ども雑誌を読みながら寝転がっているシーンも描かれ、学歴エリートには程遠いものの読書や教養へ惹起される次郎の姿は、後半になるほど馴染んでくる。
 第一部のみを扱う本稿では精緻な分析が出来ないのが課題だが、教養ある両親の元で育つようになり、学校文化に適応していく次郎も、「金による試練」によって進学の夢を諦めざるを得ないことが示唆される。本稿の末尾で示すように、次郎が進学期待をもっていない可能性も拭えない。省察するためには第二部以降を範疇に入れる必要があろう。

3. 下村湖人が読者に贈る「教育小説」的メッセージ


 2章では物語上の次郎の自己形成について検討した。3章では2章とは別に、作者である下村湖人から読者へのメッセージと取れるような訓示的な文章が「次郎物語」の各章の終わりに1段落程度添えられていることに着目し、まずその内容を検討する。この検討を通じて、「ビルドゥングスロマン」としての分析とは角度を異にする、作者・下村湖人が読者に訴えかける「教育小説」としての「次郎物語」の側面を明らかにする。
続いて、「一教育者の面影 下村湖人追想」の記述をもとに、この文学作品がどのように受容されたのか、読者や評論家の語りを対象にして明らかにする。
まずは下村湖人が作品内で読者に語りかける言葉がどのようなものか、象徴的なものを複数引用する。
しかし、みなさん、どうか、もうしばらく次郎を見すてないでおいてください。いや、次郎だけでなく、みなさんのお友だちの中に、どんな悪い子どもがいましても、その子どもを見捨ててしまうようなことは、決してしないでください。いったい人間というものは、かならず人のしんせつがわかるものです。そして、そのしんせつがわかりさえすれば、どんな悪い人間でも、そのしんせつに感じて、いつかは、かならずよくなるものなのですから、わたしたちは、悪い人ほど、その人を見すてないで、しんせつにやることがたいせつなのです。((上)p.152)
むかし、中国の王陽明という大学者は、「山の中の賊をやぶるのはたやすいが、自分の心の中の賊をやぶるのはむずかしい。」といいましたが、次郎のような境遇にいると、ことに、それがむずかしいのです。わたしたちは、次郎をさげすむ前に、もし、わたしたちが次郎と同じ境遇にいたら、どうだったろう、と考えてみることがたいせつなのではないでしょうか。そして、そんなふうに、なにごとも自分の身にひきくらべて考える人なら、次郎の悪いことは悪いこととして、かれを心からにくむ気にはならないだろうと思います。((上)p .163)
 このように下村は何度も読者に語りかけ、次郎に対しての理解を求め、訓戒を示す。前章で見てきたような「試練」には特別触れることなく、生活の場面で誰にも訪れるようなエピソードから、普遍的で教育的なメッセージを送っている。小説家としてのみならず、教育思想家としての下村湖人が随所に顔を出す。彼の教育思想や個人史的考察については、補論に譲る。ここでは、下村が小説内で子どもたちあるいは教育者や親たちに語りかけ、武士道や儒教精神と相性の良い彼の思考を滑り込ませていることを確認するにとどめる。青少年(男子)のビルドゥングスロマンを描いた物語の内部で、決して青少年特有でない問題や人格形成に通じるメッセージを、下村は発信し続けている、というわけだ。
上岡安彦の分析によれば、下村湖人は「当時の日本の教育者への抗議」という性格の内容をもって、親ないし教育者への児童の人間性理解ならびに教育理解の書として「次郎物語」を編んだ。小学校高学年ないし中学校初学年頃の子どもを読み手として「次郎物語」を書いたのではないにもかかわらず、思春期における生きる意欲を失おうとしている年頃の少年少女に元気づけられるものを内蔵しているという性質を評価する。上述のことの傍証となるような記述を、上岡は下村湖人の手による「あとがき」の分析を通じて明らかにする。
もしも次郎が、その人の言うとおり、変質者として描かれているならば、彼を広く一般の親たちに引きあわせるのは、たいして意味のないことだと思い始めたのである。(中略)私自身には、次郎が変質者であることは、どうしても思えなかった。次郎は誰が何と言おうと、他の多くの子供たちと同様に、食物をほしがり、大人の愛をほしがる子どもに過ぎないのである。ただ、他の子供たちにくらべて、いくぶん勝気な点があるかも知れないが、それとしても病的だというほどではない。もし彼に、何かそうした病的な点が発見されるとすれば、それは、すべての子供が、否、すべての人間が、本能的に求めている最も大切なものを、拒んではならない人に拒まれているからだ、というの外はない。(下村 あとがき)

上岡は教育者や親の教育意識に伴う宿命的な命題がこのあとがきに示されているのだと解釈する。すなわち、教育行為はある意味において、「すべての人間が、本能的に求めている最も大切なものを、拒んではならない人によって拒まれることによって成立してくる」という構造を内在化させているのではないか。「教育」という場合、「教育者は被教育者ののぞましい状態をいささかでも描かねば働きかけを行なうことができないわけだし、あらかじめ自分が描かれていること自体にすでに被教育者に求めているものの最も大切なものを拒否されていると感じさせないわけにはいかないという矛盾の構造」を持っているのだと上岡は述べる(上岡 1978:104-111)。上岡の記述を換言すると、教育者による「教育」の営みは、児童生徒に理想を描かねば働きかけることができず、その理想投影という行為は児童生徒にとっては「自分の現状を拒まれた」と感じさせることを避けられないのである。
こうした矛盾を孕んだ「教育の構造」を小説の形態で書き著したのが「次郎物語」の新鮮さであり、下村湖人から親や教育者たちに向けてのメッセージだったというわけだ。
続いて、往時の学校教育において、「次郎物語」は誰にどのようにして読まれてきたのか、文学の雑誌や下村湖人の評伝を手がかりに再考してゆく。一般的なイメージに沿う基礎的な事実から確認しよう。1956年に文芸評論家の荒正人が述べることには、ティーン・エイジャーから二十代の中ごろまでの若者たちの大部分が「次郎物語」を読んでいた。与えられた環境のなかで、自分をできるだけつよく活かしていきたいという主題(著者によれば「自己開拓者として少年次郎」(原文ママ))は、第二部に譲られている。「自分は、もう、どんな運命にぶつかっても、それを生かして見せるんだ」という、第二部の結びによって読者は感動する。荒による下村湖人評においては、「著者は、明治人として武士道と儒教精神のバックボーンをもち、他面、武者小路実篤などの白樺派風のヒューマニズムの影響を受けた人」であり、「帝国文学」にも関係した人物であった。「次郎物語」は「子供とともに、教育者や両親がぜひとも読むべき書物」だと激賞している(荒 1956)。
若者たちの大部分が「次郎物語」を読んでいたという荒の記述については、教科書に収録された目録がその証左になる。島田昭男によれば、9社10種類の昭和41年度版の中学校国語教科書を取り上げ、第一学年の教科書のうち1社に「次郎物語」が収録されていた 。中学校国語科教科書にあらわれた文学観の問題が生徒たちの自己形成に与える影響について、「あたらしい自己形成の道にふみだし、社会と人間のよりよき発展のために真剣に生きようとする生徒たちにとって、真の精神的エネルギーとなるような「希望や励まし」とは、あまりにかけはなれている」と批判している(島田 1966)。
文学教材の選択にあたって画一的な傾向があらわれていた時期であったことは、教科書の広域採択制度の制定によって促進されていたことからも明らかである。「次郎物語」がそうした時代背景の中で昭和16年から少なくとも昭和40年代まで継続して読まれ、教科書に採択されていた時期が長かったことは、画一化する中学校国語教育における文学観の中でこれが支持されてきたことを意味する。2章で確認した日本型「教養小説」として、またあるいは下村湖人が企図したように教育者や親に向けた「教育小説」として、「次郎物語」は学校教育の内部で自己形成(ビルドゥング)を主題化し続けたのであろう。
補足的に、教育者として、さらには佐賀県出身者としての「下村湖人」を分析した淑徳大学国際コミュニケーション学部の渡部治の研究を紹介する。これによると、下村は戦後の「自由主義」「民主主義」の時代になって、多くの教育者が途方に暮れている主体性の欠如を慨嘆していた。真に大切なものは「教育者の自立と信念なのである」と伝えようとしていたわけだ(渡部 2016:11)。渡部はさらに佐賀県神埼市の湖人の生家を訪問し、佐賀における「本田次郎」像の位置価について示唆的な言葉をインタビューから明らかにしている。湖人と「次郎物語」を話題にした読売新聞の記事では「異風者」(いひゅうもん)という言葉があり、下村湖人の生き方に擬えられる方言として残っている。これは俗に「頑固な変わり者」という意味を持ち、佐賀人がこよなく愛する人間像だという(渡部 2016:12)。
国語教育の教材として採用されたのみならず、教育者や佐賀県出身者としてストーリーに劣らず人格的な魅力をも備えていた下村湖人の人物像は、非常に興味深い。
最後に、文芸評論家や教育研究者ではない、大衆に「次郎物語」がどのように受容されたのか、これを明らかにして、下村湖人の教育思想が「現実の自己形成」にどのように寄与したのかを総括する。分析の対象としたのは、下村湖人の評伝である「一教育家の面影 下村湖人追想」である。これには、次郎物語がどのような読者を持ち、刺激したのかが示唆される文章が並ぶ(永杉編 1956)。
卒業後就職に失敗した私は、先生の作品に励まされてきました。私はどうかして悪環境を克服しようと心がけました。十月からその目的の一環として、職業補導所に毎夜通い、経理事務の技術を身につけようと、一生懸命勉強しています。(次郎君の苦しい時は私も苦しいのだ)と思って頑張っています。これは現在の私に与えられた唯一の希望であり、就職の失敗から与えられた収獲だと思っています。(中略)先生にお願いがあります。それは本当にお体に留意されて、次郎を育てゝいたゞきたいことです。(佐藤広治 新潟県在住 p.210)
先生はなくなられた
だけど次郎は生きている
それぞれの読者の胸に
先生は次郎となって生きておられる
次郎は強い 素晴しく強い人間だ
私は生きていていろいろのことに出あう
そして負けそうになるときっと思う
次郎はもっと強いぞ
次郎ならきっとやり通す
ほらお前もしっかり頑張るんだ
私は内からのこの強い声にはげまされて
努力し精を出し頑張る
私はこうして 苦しみ 悲しみ 悩み
怒りを克服し一歩前進して
少しでもより高い人間に近づこうとする(以下略)
(山田義子 青森県黒石市の詩人だと推定 P.204)

次郎物語を読んだのは十八才の時だった。こんなに真剣に考え、反省して詠んだ本はない。幼い頃患った足の不自由からくる気の弱さ、不満、愛されたい心をもちながらその上奉公をしていて色々な目に会い(原文ママ)、絶えず苦悩しよりどころを求めていた折であった。(中略)
「私の自己建設」という奉公日記、次郎物語を読む前の私の生活態度と、読んでから後の考えとを記したノートをお見せした。(中略)
先生は、「あなたの日本一の洋服屋となる気持ちは尊い、今の人はどうも一つの道に辛抱してその道で一流の人になる希望を抱く人が少ない、生活そのものが真の教養なのだ」そして「色々と数多く本を読みなさい」と言われ、特に力強く「あなたはこれから金が必要なのだから、無駄使いをせずに金を貯めることに努力しなさい」と言われた。
(中山富夫 p.202)

 佐藤はいわゆる「低学歴勤労青少年」(井上 2012)だったと推定される。悪環境におかれ教育システムから排除された格好の青少年にとって、苦学・アスピレーションへと心を掻き立てる作品として受容されたことが窺える。さらに「育てゝいたゞきたい」に象徴されるように、教育を受けることを通じて「成長」を遂げたいという願望を投影させる対象として、本田次郎に期待を寄せ作者に懇願している。
 山田は、「狂信的」という形容さえ許容されるほどの熱烈な哀悼と決意を、下村湖人の逝去に際して詠んでいる。彼女の場合は学歴や職歴は不明だが、日々の苦労のなかで自分を奮い立たせる「加熱装置」的な機能を果たしていることが示唆される。「次郎物語」の読者共同体を明瞭に意識し、その中で次郎と下村湖人を同一視している点が興味深い。そしてこの詩は「私淑」を彷彿とさせる。おそらく地方の一女性詩人が次郎を通じて個人的に下村湖人を慕っている。本田次郎に共感し、山田自身の苦境には次郎の強い声に励まされて自らを内燃させる装置のように機能している。次郎を信じ、「少しでもより高い人間に近づこうとする」山田の詩は、教養小説の読書経験を通じて自己形成を果たしていこうとする、およそ男女を問わない昭和30年代の若者たちの心性を物語っている。
中山富夫の文章は平易であり、解釈する枠組みを既に提示したものとすれば理解可能だろう。これら3名の記述を代表としながら、1940年代から下村が死去した1955年ごろまで(先行研究に倣えば1970年代の学生の読書文化の変容まで拡大してもよい)の「教養」と「私淑」の先行研究と合致するか照合してみよう。稲垣恭子によれば、出版メディアを通した「私淑」が広がっていく重要な土壌になったのは、学術・教養書や総合雑誌を軸とする教養主義文化であり、その中心は岩波書店だった。教養主義的な読書の広がりとともに、読書により「私淑」も拡大したが、古今東西の著名な学者や芸術家、思想家を「準拠的個人」にすることで、直接には師事できない人物に接近し、自らの人生をそれになぞらえ、理想的な自己イメージを保持することもできる。単なる直接の師弟関係の代替から、積極的な選択としての「私淑」が広がっていった(稲垣2017:165-179)。こうした文脈の中に「次郎物語」という教養小説の読書行為が遂行していた意味を分析する。教養主義的な読書の広がりとともに拡大した「私淑」は、「次郎物語」を読んで主人公の本田次郎に共感した読者たちにおいては、次郎から更に延長した先に「準拠的個人」を定めて下村湖人に師事するという意味でより濃密な「私淑」を可能としていたのではなかっただろうか。
以上、下村湖人が「次郎物語」内で読者に語りかける部分、次いで同時代の児童文学をめぐる磁場に向けられた教育学からの批判、「次郎物語」の読者や評論家の評伝をもとに、下村湖人による「教育小説」としての側面で「次郎物語」を検討した。紙幅の都合もあり、ここでの小括は淡白なものにしておく。下村湖人は「次郎物語」の各章末やあとがきを通じて、教育者や親/青少年の読者の二方面にメッセージを送っていた。教育研究の文脈からは、学校教育と相性がよく、自己形成を促す教材として高評価を受けて幅広く読まれた。他方で、一般の読者たちの間では主人公の次郎への共感と同時に下村湖人への「私淑」が拡大して行ったことが窺える。下村と教育業界、読者は「次郎物語」を介して「自己形成」「私淑」「教養」という成長物語のファクターを共有する円環の中にあり、相互に応答がなされていたことが考察できる。

4.総括・ディスカッション


 長大な資料になってしまったが、各節の纏めの一文を辿ることで本発表の目的を果たすことは可能だろうと考え、割愛する。総括の代わりに、全体でのディスカッションにあたって、疑問点を数点挙げる。
① 下村湖人に対する「私淑」が散見されるが、教養小説の作者に対する読者の「私淑」は、山本有三ら小説家、あるいは漫画家やアニメーターに対しても、同様に見られる現象なのだろうか。教養小説研究にあたって、評伝や手紙を対象にして「私淑」「願望の投影」といったような本稿の枠組みで教養小説の受容を考えることは、果たして妥当なのだろうか。
② 通読したところ、本田次郎本人の幼少期の進学意欲については、彼の行動の振れ幅が大きく把握できなかった。幼少期の進学意欲については、何を手がかりに読み解くと明らかになるだろうか。
③ お浜の一家が従事していた「校番」が興味深い。1930年代の校舎の改築や、校番の撤廃について研究はあるのだろうか。「校番」と生徒の関係性は通常どのようなものだったのか、校番という職がどうして不要になったのかが気になる。
④ 乳母や下女が「えらくなってほしい」と少年に願いをかけるのは具体的に何を期待しているのか。無条件の愛情でなく、ある種契約的に注がれる愛情の方が、男児の自己形成にプラスに働いているような印象だが、これは理論化・一般化可能だろうか。
⑤ 父の愛情が息子の自己形成を促進するパタンと、抑制するパタンとでは、どちらが主流なのだろうか。時代差や地域差、文化差も考慮したい。また、橋本治が指摘するように、〈父の不在が子どもの成長の条件だ〉というのは、現代の成長物語の定理として一般化してもよいか 。

5.補論 教育者・下村湖人


 補論では「次郎物語」の作者である下村湖人が教育者として知られていることに注目し、下村の評伝や彼の教育観に対する先行研究を概観し、2章・3章で明らかになった「ビルドゥングスロマン」あるいは「教育小説」として名高い「次郎物語」を誕生せしめるに至った下村湖人の個人史的背景や思想的文脈を明らかにしたい。
下村の教育観の基調をなしていたのは、「生命生長の原理」という考え方(上原 2016:33)であった。これは、生命は歴史的存在であり、過去を肯定しつつ、同時にそれを否定することによってのみ生長するというものである。「よき習慣を作ることを通じて、過去のよき継承者たる資格を得ること」と「正しい価値判断の能力を養うことを通じて、新しい将来を創造しようとする努力を生むこと」ができるようになることを求めた(下村 1940:33)。
 下村湖人が座右の銘とし、「白鳥、蘆花に入る」 とは、「真白な蘆(アシ)の花が咲き競う水面に白鳥が静かに舞い降りる。白鳥は背の高い蘆の花に隠れてその姿は見えないが、花のさざめきによってその存在が分かる」という意味である。
(執筆中)

参考文献
石原千秋、
稲垣恭子、2017、「教育文化の社会学」放送大学教育振興会、pp.111, 165-179。
井上義和、2012、「低学歴勤労青少年はいかにして生きるか?」『教育における包摂と排除–もうひとつの若者論』(稲垣恭子編)明石書店。
上原直人、2016、「戦時下から戦後改革期における下村湖人の教育思想と実践」『研究名古屋大学大学院教育発達科学研究科附属生涯学習・キャリア教育研究センター紀要 生涯学習・キャリア教育』第12号、pp.33-44。
宇野常寛、2019、『母性のディストピア 接触編』ハヤカワ文庫。
上岡安彦、1978、「「教育の構造」分析 -下村湖人『次郎物語』第一部について-」『駒澤大学教育学研究論集2』pp.101-126。
島田昭男、1966、「文学教材にあらわれた文学観」『日本文学』15巻7号pp.453-461。
下村湖人、1940、『塾風教育と協同生活訓練』三友社、p.33。
筒井清忠、2009、『日本型「教養」の運命』岩波書店、pp.126-131。
永杉喜輔編『一教育家の面影–下村湖人追想–』
橋本治、2019、『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』朝日新書。
渡部治、2016、「『次郎物語』と下村湖人の思想」『国際経営・文化研究』淑徳大学紀要。


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