「社会が子どもを育てる」とはいかに

 言語を可視化しながら思考し真理に迫ることを怠っている。思考と文筆への適性を疑うあまり、研究者やエッセイストの主張・知見の眼目を一文抜粋して書き溜める日々。あるいはゲームに興じ、「俺は何をやってるんだ」と鈍い自己否定に浸りながら、頭が冴えるのを待っている。表現しなければ、知識を増やさなければ。

 今日は妄想に近い思想を言語化する。ラディカルな思想など持っていない。まして保持できない。他人の思考を揺さぶるのを恐れる筆者だが、現状の問題と理想状態を思い浮かべながら、「社会が子どもを育てる」とはいかに可能か、考えて理屈を重ねてみる。

 現状、子どもが育成され大人社会に適合する力をもつためには、国家、地方自治体、各家庭、保育・幼児施設、地域住民のステークホルダーがある。子どもに投下される資源は、言語、金銭、衣服、住居、愛情、教育、友人、といった、生活に必需なすべてだ。一応、両親の遺伝子、という生活環境に大きく依存して発現する個々の素養もあるだろう。わざわざ列挙するまでもない。だが、これら資源というべき諸々は、出生した地域と家庭の要因に大きく左右される。優劣を定義したり好悪を表明したりするわけではなく、この不均等は至極当然に発生している。遺伝子は除けないとしても、本当に「生まれに関係なく平等に」子どもが育つ仕組みを整備したら、どうなるだろうか。生まれ育ちの環境、蓄積によってユニークな人間が育まれ、各々が親しい人々や社会、世界に貢献しているのだから、現状に不満を述べる意図はない。とはいえ、生命の安全を保たれながら生き抜いた大人たちが「生まれ育ち」を懸念し、ときに衝突し、(マクロで概観すれば)分配され同質で凝集する状況を、仮に現代の最大の問題と同定すれば、これの改善を目指した国づくりができるだろう。もしも、「生まれ育ちに生じる不均衡を一切なくし、イーブンな状況で偏りなく子どもを育てる」社会を志向するとき、考えられる仕組みを妄想してみた。

 少し考えただけでも社会主義的な発想になってしまうが、あえて進めてみますか、いいかげんな自分。

 「社会で育てる子ども」という思想と政策が凝縮した結果、産婦人科医や助産師、あるいは産婆の手から取り上げられた新生児は、同年同月に生まれた子どもたちと集められ、17時から23時の間だけを各家庭で過ごすような幼児期を送る。父母の関与はその6時間に限定され、勤務終了後に仕事の甲斐を確認すべく愛する子どもに会い、愛情を注ぐ。23時以降、子どもは近隣の幼児園に集められ、適切に早朝から起きて3食を摂り、強靭な肉体と精神を備えた労働者になるべく、18歳まで育成されるのである。父母は養育の金銭的・精神的コストを省みることなく妊娠・出産に臨むことができる。

 これらを実現するに足る、前提条件をまずは整理する。①ほぼ全国民の勤務、余暇の生活習慣の標準化。すなわち、子どもが理想的な大人の生活を送るために、17時から23時は家庭で再生産労働(活動)に従事するように標準化されるのである。深夜労働や長時間の残業は難しくなり、夜型生活は厳しくなる。②子どもと共同生活することを断念する親たち。③子ども福祉政策を行うに足る財源。おそらく所得税の累進性を高め、家庭が子どもに及ぼせるコストをより均等になるように税収をコントロールする必要がある。④産婦関連の医療、育児従事者のプライベート犠牲。彼ら彼女らの実子ケアの困難。

 あーあ、別に実効性のある思考ではないだろうが。

 実親から受けた影響の多寡を誇ったり嘆いたりして、生まれ育ちに拘泥する個々人を抑制し、子どもの貧困や毒親問題といった社会問題を回避したいという思いから妄想を始めてみた。「私は私だ」と割り切れるくらいの、ある程度の同質の環境内での子どもの生を、環境の整備によって整えることができるのではないか。無個性の子どもたちの続出を招く可能性だってあるだろうし、親たちの煩悶だってあるだろうが、真に生まれ育ちに影響されない個性の伸長や出身階層による障壁除去を願うなら、ラディカルに「社会が子どもを育てる」仕組みを整備すればよかろう。

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