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「やさしいうた」の喜びと暴走メモリー

オンラインでDJデビューしたら

 最近、ランニングで必ずリスニングするようになった。

 以前のランニングでのリスニング活用方は、生放送で視聴できなかった討論番組をラジオがわりに聴きながらランするパターンがほとんどで、自分から主体的に接種するというよりも、軽くチェック程度の感覚だった。
 それを今はランニングのついでに、音楽も楽しんでしまおうというわけで、むしろ主体的に接種することにしている。理由は以前のnoteにも少しだけ書いたが、可処分時間的に普段の生活の中に音楽を聴く時間を作る事が難しかったので、ならば走りながら聴けばいいのではないかという稚拙な発想だ。

 その前に音楽熱が再燃したきっかけがあることを書くことにする。それはプレ回「突発!DJ 30MINUTES(仮称)」@zoomというオンラインイベントだ。

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 DJ30MINUTESとは自分で約30分間ぐらいのプレイリストを作り、それをzoomで流す音楽企画だ。ただ自分のプレイリストを流すだけでも良いですし、音声でラジオDJのように解説をいれたり、チャットでプレイリストを公開するのも自由 。もちろん映像ありでも問題ない。時間内であれば何曲入れ込んでも構いません。(編集できる方は)出入り自由。

 この企画で自分は独断と偏見による、「日本のポップス」という体裁でプレイリストを作り、ただその音源をダダ流ししたのであるが、このプレイリストを作るのが楽しすぎて、ただでさえ足りないと感じている可処分時間がぐんぐん吸い取られたのである。
 最初はこれならできそうだからやってみるかと軽いノリでやってみたら、過去に接種した音源を巡ることになり、そういえばこれもあれもあったと止まらなくなったのである。
 ざっとこんな感じだ。CDを棚から取り出し、オーディオ装置に火を入れて音源を漁るという、過去の自分が日常的にやっていた方法で音源を接種し、当初の目的であったプレイリストを作るという作業を逸脱し、CDケースをどんどん畳の上に散乱させたりCDラックの手前のスペースに平積していくという儀式みたいなことをやっていたのだ。ちなみにこの作業のおかげで休みが半日潰されてしまい、充実感というよりも中々の疲労感を味わうことになったのである。
 この感覚を今は当然、心地よいと感じることができるが、以前そうではなくなっていた時期がある。そのことについてはまた後に記すことにする。

 そのおかげで以前聴いていた音楽家の未聴作品が気になりだし、久しぶりに音源(CDやデータ)を買うようになってしまい。さていつ聴こうかとなると「ながら聴き」しかないなとなり、通勤はもちろんランニングの時間も費やすしかないとなったのである。

 あるアーティストを聞いているとそういえばあれもあったと他のアーティストに接続することは良くあることではないだろうか。それは聞いていた時期が一緒だったり、当時ハマっていたジャンルの流れで思い出したりと、いろいろパターンはあるかと思う。そんな中、今回はある思い出にアクセスすることになったので、そのことについて少し書いてみることにした。

激薬の副作用による効能とやさしいうたの純度

 気分が悪くなっても止めずに音楽を聴き続けた事があるだろうか。その時の自身の気分を無視して、強制的にその音楽だけを聴き続けるのである。
 今思い返してもそんな接種の仕方をしなくてもいいだろうと思うのだけど、当時、特に通勤での運転中に気分が悪くなっても聴き続けたユニットがあった。
 その副作用は最終的に頭がパッツンパッツンになって、嗚咽をもよおすまほどの威力だ。
 音楽ユニット「ルインズ」という吉田達也(ドラマー)の変拍子ユニットである。当時はドラムとベース(ドラムンベースではない)二人だけというシンプルな構成で、最初に接種した時はその過剰な変拍子効果により「???」という感じだった。それでも接種し続けようと思ったのは、とある友人の激推しがあり、それならばと自分もルインズという変拍子ユニットの何がいいのかを探るべく気持ち悪くなっても聴き続けたのである。

 その結果、頭の中に変拍子でもノれる回路が開通するという効能を得られたのであるが、この感覚は一種の麻薬効果なのではと思っている。

 接種し続けた物の副作用が強ければ強いほどどうなるか……答えはいたってシンプルで依存するのである。タバコをのんだことがある人はわかると思うが、初めてのんだ瞬間は咳込むし、かなり気分が悪くなったのではないかと思う。でも、一度日常化するまでのんでいる人が禁煙し、再びのみ始めた瞬間は頭がクラッとする感覚が気持ちいいと思えてしまう。
 この場合は聞き続けたことでいつの間にか順応し単純にクセになったと言い換えることもできるかもしれない。ではクセになるとはどういうことか。
 あれだけ副作用があったにも関わらず、その変拍子が心地よいと感じるようになるのだから不思議なものである。
 さらにその効能の副産物として、かなり音楽に対してのキャパみたいなものが広がったという気がしている。自身の間口が広がればなんとなく、より本質に触れる事ができるような感覚に近付く気がするし、保留するという余裕も生まれるからだ。

 こういった界隈の音楽家に接していると、その関連でいろいろと奇才な音楽家にアクセスすることになるし、アクセスしなくても名前ぐらいは知っているという状態にはなる。
 そんな中でまた、その友人から推されたある音楽家(ギタリスト)を紹介したい。
 それこそが、今回のメインゲストであり、今現在よく視聴している音楽家「山本精一」氏だ。
 ちなみにその時、初めてまともに山本精一作品に触れた。オススメされたのは羅針盤というユニットの「むすび」というアルバムだった。羅針盤は山本精一が中心となって活動していたグループで山本氏の活動の中でもうたがメインのユニットだ。
 先ほど紹介した吉田達也(ドラマー)の活動も多岐にわたるが、この周辺の音楽家の中でも山本氏の活動域も、うたものに限らずに多岐にわたる強烈なギタリストでもある。
 そんなもので山本精一に最初に触れたのが羅針盤とは???となる方もいると思うので最初に断っておくと、もちろんWikipediaの上澄みたいな情報は知っているが、個人的にまともに触れることはなかった程度の大した山本精一リスナーではないのでそこはご了承頂きたい。
 この時確かこのアルバムの中でも最長の曲「水曜のうた」11:38 を最初に紹介されたと記憶している。と書いたはいいものの、しばらくそんなことも忘れていたほど久しぶりに聞き直したアルバム屈指の名曲だ。

 今でも印象深いエピソードがある。それは最初にオススメされてから自分もよく聞くようになり、すっかりハマっていた時に、山本精一のソロを含めて歌の魅力を一言で、その友人が言語化してくれたことがあった。

「山本精一のうたはやさしい」

 一瞬で120%アグリーした。「水曜のうた」はもちろん山本氏ソロを含めた曲で、あのうたに持っていかれてしまう感覚を言語化したときに最もふさわしいと感じるのが「やさしいうた」なのだ。歌詞、声色、音色、速度のおりなすハーモニーに包まれるあの時間がまさに「やさしいうた」となるのである。

 「水曜のうた」の中にこんな歌詞がある。

なんでもない日は
なにをするでもなく
ただ引き出しの中
入れ替えて
言葉にならない
ものをかき集めて
考えることから
のがれてる

 この歌詞のように、なんでもなかったかのようにいつの間にか浸透し、沁み渡っているのである。お酒で例えるなら純米大吟醸のような、水のようにさらっと入ってくるような感じだろうか。
 この変拍子の時と違って副作用的なものがない感覚を表すのにふさわしいと感じる尺度は何か。これは純度ではないかと勝手に思っている。この音の純度が織りなすハーモニーが気付いた時にはいつの間にか自分の中に溶け込んでしまっているような感覚、それがこの「やさしいうた」なのではないだろうか。

 またある時この友人が「山本精一のギターは聞いたらすぐに山本精一だとわかる」と言ったことがあった。オススメされた当時はそうなんだぐらいにしか思ってなかったのであるが、その音色やフレーズや音速だろうか、その音たちに走る心地よいサイケ感に、いつの間にか自分も山本精一のギターを聞いたら山本精一だとなんとなく分かる様になっていたのである。
 多分これは単純に変拍子の時と一緒で、聴き続けただけだからだとは思うが、ただ違うのは副作用はない。むしろその音楽感の心地良さに、気付いたら取り込まれて、いつの間にか侵食されていたような感覚になるのである。
 山本氏の活動も多岐にわたるので全網羅はできていない。でも持っている作品どれも好きだ。ギターソロから人力トランスユニットまで、どれも純度の優れた魔薬のように侵食されるのである。
 そして気づいた時には別のアーティストに参加しているギターの音色やフレーズでこの感じはと気付くようになるのである。

原理主義感による疲労と嫉妬

 ここで、DJイベントのためにプレイリストを作るという作業を逸脱し、半日近くCD音源サーフィンし、充実感というよりも中々の疲労感を味わうことになり、それはそれで心地よかったのだが、以前はそうではなかったことについて、後に記すことにする。としたのでその続きだ。 

 以前は音源よりはライブ派であり、CDよりアナログ派であり、となるとそれなりの装置が必要なので耳で聞くよりは体で浴びる派となり、それが正しい音楽の接種の仕方だろうとなっていたのである。

 CDとアナログの違いを、山本氏のエッセイから紹介したい。
 アナログはA面B面、片面約25分で構成されていて、このくらいの時間が一番音に集中できるリミットで、じっくり腰をおちつけて集中して聴くことができ、なおかつ一度ブレイクを置いてからB面へ、というこの流れが絶妙で、これだと繰り返し何度も聴き込むことができると。
 対してCDだとノンストップで約60分を聴き続けなければならないので、途中でどうしても集中力が途切れてしまう。というか疲れるというのである。夜寝る前なんかに聞くと30分前後で眠ってしまい、後半以降の曲を、随分長い間聴かずにいる状態になると。なおかつ、再発モノなんか、やたらとボーナス・トラックをぶち込んで長くしてあるけど、はっきり言って、ミュージシャンに失礼だと思うと書いていらっしゃる。

 おっしゃるとおりだと思う。いや、以前はむしろそうでなくてはだめだと決め付けていた面があったと思う。一見すると音源に対して丁寧に接していて良いのではと思われるかもしれないが、ここに山本氏と違い、一つ、以前の自分の方にだけ過ちみたいなものがある。それは決め付けてしまっているところだ。

 決め付けるという行為は、それ以上そのことを考えないことでもあると思う。そうなると、せっかく変拍子を浴び続けて、その効能として間口が広がったのに対して、その間口を閉じる行為となる。そうなると余裕もなくなっていき、どんどん疲労していくことになり、最終的に離れることになるのである。

 ここで、さらにプラスして自分の過ちがある。その過ちとは自分に音源を紹介してくれた友人対しての、端的に言えば嫉妬だ。
 自分も彼のように音楽をサバイブできるようにならねばと思いこみ、情報だけで自身の現状とは不釣り合いな音源を買ってしまったりと、暴走したのである。
 今思い出してみても、音楽に対して不誠実な行為でしかないし、まさにボーナス・トラックばりにアーティストに対して失礼だ。

 なおかつ、友人だと思ってるやつが、そんな行為をしたら不愉快でしかないわけだが、そんな馬鹿な自分を、やれやれと付き合い続けてくれたわけなので、間口が広いとはこういう事なのだと思っていたが、別にその友人にとっては特別でもなんでもないわけであるから、その友人からしてみれば、どうして自分がそういう風になるのか良くわからんとなったのが、今では当然良くわかる。

視聴環境は問題ではない

 音楽の視聴環境に、こうでなくてはダメだということはない。逆にこうでなくてはダメだというこだわりがあっても良いし、イヤホンで、ながら聴きでも、スマートスピーカーでもなんでもいいと思う。その人が楽しめてればいいので環境にこだわってもこだわらなくても良いということだ。

 自分はそれなりのオーディオ装置を所有しているが、今これを書きながらyoutubeをmacbookでダダ流ししながら書いているわけだし、最近はイヤホンでリスニング・ランするのが楽しみだ。

 むしろ、「DJ 30MINUTES」のようなオンラインでの交流のように、ライトに音楽を楽しめばいいんだということを忘れていたことの方が問題なのだ。



 というわけで最近のリスニング・ランのお供は「山本 精一」氏を堪能している。アルバムはソロアルバムの「Rhapsodia」2011。こちらのアルバムはCDでは持っていない。なぜならこのアルバムも当時その友人から借りてitunes(今はmusic)に落としていたアルバムだからだ。もちろんこちらの音源でも「やさしいうた」のハーモニーを走りながら味わっている。

 可処分時間の節約目的(現在、他の時間も侵食されつつあるが)で始めたリスニング・ランだったはずが今では楽しみとなり、今回は音源を通して思い出に接続するランニングとなった。

 そして、過去の自分の行為に、作品自体を感じるのではなく、そのシーンに所属しようとする、速いインターネット並の不誠実な行為があったことに幻滅しつつ。そんなやつを、懲りずに相手してくれた友に感謝を現したい。

 この友人とは訳あって今では交流がない。当時の自分に余裕がなかったと言い訳はできるのだが、所詮は言い訳にしかすぎない。

 というわけで、その友人には、自分の「何かあったら助けるフォルダー」に入って頂いていることを「やさしいうた」と共に今回、ここに記しておくことで「むすび」とさせていただきたい。

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