妄想:そ・もそも・そ

生産に従事し生産物が流通し消費され収益が上がった中から報酬として労働者に分配される構図が、過疎地に根付いていない。国や自治体からの補助なしでは経済が回らないところに、若い力が宿るわけもなし。

自身の力で未来を切り開く。それが根付くところに若い力が結集する。世界を見渡せば、流通に不利な内陸でも枯れない小都市はいくつかある。「未来を切り開く」力が備わっているからだろう。

さて、「未来」とはなにか。

どうやら、ソフトウェアが先行する「人工知能化」がそのほとんどを担うことになりそうだ。生産はロボットや改造生物(遺伝子編集や「洗脳」などで人間の役に立つ改造を施した生物)がすべてを行い、そこに人工知能が活躍する。自然由来の原料が欲しければ放牧でも有機栽培でも漁・猟でも、すべて彼らがやってくれる。

子育ても汎用人工知能によって人型ロボットが適宜バランスよく手伝ってくれるだろう。その他諸々の人間生活に密着した "人工知能による奉仕" を展開してくれる。

では、これらの生産の果実を得ながら生活する場として最適なところは、どこか。

「自然由来の原料」があるところではなかろうか。子供たちが「人工」のなかに漬かり切っていない場所。人間にとって本能にとって必要な場所。それは、現在、過疎地として位置づけられている場所ではなかろうか。

ニンゲンの本能以外は「人工」が司る未来。ニンゲンがニンゲンであろうとし続けるのであれば、森羅万象を本能で感じられるところを居場所として選ぶべきだ。昔は面倒で安定しない原料を得る重労働もない。あるのは、自然とのコミュニケーションだけだ。この未来は「快適」という言葉で表現されるであろう。

ニンゲンの本能にこたえてくれる "過疎地"。その開拓は、やはり「人工」が担う。だが、大原則は「人間のために」である。それを忘れてしまえば、都会にニンゲンが吸収されていく。ニンゲンは人工の餌食となって、「人工知能のパーツ」としてしか存在しえない。

「未来」と「過疎地」をどうとらえるか。「人工知能」が未来であればニンゲンはどうあるべきか。きちんと考え直さなければ、ニンゲンは終わってしまうのだろう。

#日経COMEMO #NIKKEI

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