妄想:世襲は善か悪か

政治の世界に限ると、世襲は世界中にあって目立つのがアジア。そこで妄想してみました。*****

政治の専門家一族。それが、世襲と言えるのかもしれません。では、一般人が政治家になって庶民の感性で政治に参画することは困難なのか。

世襲政治の中では「ライバルを蹴散らすか、取り込むか」という戦略がセオリーとも言えます。ライバルを配下に置く。それは金銭的な優位を示すのかもしれません。一方、ライバルを蹴散らす際は醜聞をながして信用失墜を狙う。拡散させるためにここでもお金がものを言います。

では、そのお金はどこから湧いてくるのか。支持者たちから集まってく回路もあれば、組織団体から利益誘導仕掛け金として流れてくる回路もある。世襲でこつこつ作りこんできた回路は様々なつながりを堅持しつつ、世襲政治家を支えています。何らかの理由で回路が劣化し詰まるようになると、資金の流れが滞り、どこかの世襲一家の配下に入ることになります。やがて、回路不良が改善されれば、ふたたび、ライバルとして頭角を現す。これが、世襲政治なのだろうと思うのです。

一方、一般人が政治に携わろうとすると、まず、人脈作りが第一歩となります。その時に真っ先に手助けするのが世襲一家です。配下に置くようなそぶりは見せませんが、何かと面倒を見て、既存の政治世界の世渡りを教える側になります。当然、必要な資金も援助することになります。その支援があって、晴れて政治家になれば、世襲一家に忠誠を尽くすことは自然なことでしょう。その世襲一家の文化の中で、あたらしい回路が作られていくのです。

世襲は遺伝子的なつながりだけとは限りません。複数のニンゲンで "家" を成していればよいのです。その場合、だれがその統領になるのかは、家の階層で上位の少数が話し合いや駆け引きで決まっていきます。日本でも野党のいくつかの政党も "家" を形成していて、労働組合 "家" だったり、産業代表 "家" だったりするわけです。そして、独自の思想や宗教 "家" も存在します。

アメリカ合衆国では、にわかに "ケネディ家" が注目を集めています。民主主義の権化の国でも、世襲を好む政治文化があるわけです。あのイギリス首相であったボリス・ジョンソン氏も先祖を辿れは政治家であったり貴族近縁であったりしています。

結局のところ、政治の世界では世襲文化に代わる対抗勢力は生まれにくく、"悪" と断罪できるほどの政治の熟成にはなっていないのです。"善" として世襲を受け止めるよりほかはない。政(まつりごと)とは、そういうもの。それが、大前提で政治は動いていく。場合によっては、家同士の諍いの中で、庶民は命を落とすような紛争や戦争に巻き込まれる。何千年も繰り返してきた政治文化は、変えようがない。

ただ、それを "善" として今後も続けてよいのでしょうか。

いまやデジタルの時代。階級に関わりなく「こうあってほしい。こうでなければならない。」を自由に発信し受け取る時代です。"家(全体)" ではなく "ヒト(個)" として政治に関心を持てる環境を有しています。ですが、すでに "善" として政治文化は微動だにしない。デジタル文明の中で世襲に対抗できるデジタル政治は誕生するのか。そこが、これから世界の政治を動かしていく潮流になるのかもしれません。

*****

また、だらだらと妄想してしまいました。古い世襲政治文化とあたらしいデジタル政治文化。単にこう書けば文字列は長くならないのに・・・。政治とカネやら特定の勢力による権力維持やら、書かなくともだれもが知っていること。デジタル政治文化などまやかしでしかない。ニンゲンが動物である以上、家から逃れられない。それが、現実だよ、と、自身に言い聞かせているところ。

#日経COMEMO #NIKKEI

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?