自習:アフガニスタンとは

(以降、Wikipedia、公安調査庁参照)

■アフガニスタンの近代

19世紀後半、アフガニスタンはイギリス帝国とロシア帝国の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった

1973年にザーヒル・シャーが倒され、共和制が確立された。1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となり、1980年代にはムジャーヒディーン(「ジハードを遂行する者」の複数形)の反乱軍とのソ連・アフガン戦争が勃発した。

ムジャーヒディーンは、パキスタン軍統合情報局などからの支援を受け、ソ連軍に激しく抵抗。その中に、ターリバーンの創設者ムハンマド・オマルが多大な影響を受けたことでも知られる、スンナ派のパレスチナ人の神学者でアブドゥッラー・ユースフ・アッザームがいた。ムジャーヒディーンの中に、ウサーマ・ビン=ラーディンも志願兵の1人として戦っていた。

アメリカもCIAを通じてこのようなゲリラ組織に武器や装備を提供していた(サイクロン作戦)。アフガニスタンのムジャーヒディーンは中国からも武器や訓練で援助されていた。

ムジャーヒディーン各派はアフガニスタンでの主導権をめぐり対立、軍閥化していった。後にパキスタン軍統合情報局が支援するターリバーンが台頭すると、ムジャーヒディーンの諸派は連合し北部同盟としてこれに対抗した。

ターリバーン:ソ連・アフガン戦争で戦ったアフガニスタン東部・南部のパシュトゥーン地域の学生(タリブ)を中心に構成されていた。イスラム教のシャリーア法の解釈を厳格に実施する集団。パシュトゥーンの部族民であることから「パシュトゥーンワーリー」と呼ばれるパシュトゥーンの社会的・文化的規範を組み合わせた過激派イスラム主義を融合させたもの。

パキスタン軍統合情報局とアメリカ合衆国CIA:パキスタン・ターリバーン運動[ TTP ] パキスタン北西部を拠点に活動するスンニ派過激組織。「ターリバーン」支持勢力の連合体。2001年の米国などによるアフガニスタン進攻の際には,「ターリバーン」と共闘するなどして北部同盟や米軍との戦闘に従事。

パキスタン軍に対する防衛ジハードを立ち上げるため,TTPを設立した旨を発表するとともに,ベトゥラ・メスードが同組織の最高指導者として選出されたことを公表した。こうして設立されたTTPに対し,パキスタン政府は,ベナジール・ブット元首相殺害事件(同年12月)の首謀者としてベトゥラ・メスードを名指しし,2008年8月,TTPを非合法化した。

2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言した。政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明したほか、同日、アシュラフ・ガニー大統領がタジキスタンに向けて出国したと報じられた。


ムジャーヒディーン関連団体
・アル=カーイダ
・ターリバーン
・ムジャヒディン・ハルク - イランのイスラーム社会主義を掲げる反体制組織。
・ヒズブル・ムジャーヒディーン(カシミール、パキスタン)
・インディアン・ムジャーヒディーン(インド)
・アブ・サヤフ(フィリピン)

北部同盟:アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線

主要な組織は、ラッバーニーを首班としアフマド・シャー・マスードらタジク人を中心とするイスラム協会、ウズベク人軍閥アブドゥッラシード・ドーストムのイスラム民族運動、ハザーラ人を中心とするイスラム統一党など

北部同盟の支配地は2001年までに後退を続けたが、アメリカ合衆国をはじめとする有志連合諸国支援を受け、首都カーブルを奪還、国土の大半を支配下に置いた。

暫定政府では、イスラム協会のタジク人が主要ポストを独占した。2004年の正式な大統領選挙でザーヒル・シャー元国王派のハーミド・カルザイが圧倒的な差で勝利。北部同盟勢力の代表者の大半はターリバーン以前にカブールでムジャーヒディーン連合政権の大統領の座にあったブルハーヌッディーン・ラッバーニーを代表とする統一国民戦線に入ったとされている。


■アフガニスタンの多部族国家の成立。

・先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。
・紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。
・1世紀以降、南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。
・8世紀初頭、イスラム帝国・アッバース朝のイスラム教徒軍がハザール・ソグディアナに侵攻しその支配下へ入る。
・9世紀中ごろ、土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。
・10世紀以降、このころからパシュトゥーン人(イラン系民族)の存在が確認され始める。
・995年、イスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトに栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝が滅亡。
・1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホータキー(英語版)が反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立。
・1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合のザドーザイ族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。
・1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国とする。
・第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦いでアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。

■アフガニスタンの現在

アメリカ合衆国が2021年8月末までのアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンの進撃は止まらず、主要都市は次々に制圧され2021年8月中旬には首都カーブルに迫った。ターリバーンがガニーに対し大統領辞任を要求したほか、アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官も停戦とターリバーンを含んだ暫定政権樹立のためガニーに大統領辞任を要求したと一部で報じられたが大統領府はこれを否定し、抗戦の姿勢を示した。しかし8月15日にターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言し、政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明。同日15日のロイター通信の報道によると、ガニーは既にカブールを離れ、タジキスタンに向けて出国したことを内務省高官が発表し、後にアブドラ国家和解高等評議会議長もこれを確認。ガニー政権は事実上崩壊した。


#日経COMEMO #NIKKEI

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?