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自意識の話 "Who decides who I am?" (AKARI ONO)

自意識という言葉がある。意味は、「自分自身についての意識、自我の意識」。私はこの自意識といつも闘っているような気がする。自分勝手な言い方をさせてもらえば、自意識に苦しめられている。太宰治の「ダス・ゲマイネ」には自意識についてこうある。

「僕はむずかしい言葉じゃ言えないけれども、自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通っていくときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というのは、実にもう、七転八倒の苦しみであって…」 

太宰治「ダス・ゲマイネ」1935年

「ごらん下さい、私はいまこうしています、ああしていますと、いちいち説明をつけなければ指一本うごかせず咳ばらい一つできない。いやなこった!」

太宰治「ダス・ゲマイネ」1935年

自意識 / 自意識過剰はすごくかみ砕いて言ってしまえば「他人の目を気にすること」だ。太宰の言葉には誰でも思い当たることがあるんじゃないだろうか(どうだろう、ない人もいるかも)。レジで財布を開く手がこわばったり、両手の適切な位置が分からなくなってむずむずしたり。こういう、自分の一挙手一投足が不自然でないか、その演出にやっきになって、他になんにも見えなくなってしまうことを私は自意識と呼んでいる。

でもここで一つ重要なことは、私がほんとうに気にしているのは目なんかじゃないということだ。私が気になって仕方がないのはその目に映る私であって、その人の視線そのものじゃない。他人の目は、自分を映す鏡。私は、これが自意識の一番「いけない」ところなんじゃないかと思う。不誠実だと思う。だって目の前のあらゆる人たちを通して見ているのはいつだって自分で、その人自身を真摯に見ることは決してない。自分「っぽい」言動を探すのに必死。それがいけないと自分に言い聞かせても、ずっと人の目(に映る自分)を気にし続けてきた。頭ではわかっているのに…と何度も思ったが、頭でわかっていなくて、じゃあどこでわかっているんだという話だ。

Drawing by AKARI ONO

少し話がずれたけれど、自分って誰?ということについて話したい。少し前の文章を借りると、「自分っぽい」って何?ということ。インスタグラムのストーリーとか自分の服装とか発する言葉とか、そういう誰かに見られる・聴かれることを前提にしているものってたくさんあると思うけれども、自分はこういうものを公開(発信?)するたびに、これは結局アピール・演出・ポーズで、本当の自分じゃないんじゃないかとか、本当に好きなら別に自分の中で完結してればいいんじゃないかとかいうふうにぐるぐる考え続けてる。でも結局は誰かに知ってほしくて、そういう自分がダサく感じられて。また自分のことしか考えてない自分に気が付く。けれどもバカのふりはただのバカっていう言葉があるように、あくまで他人の客観があって自分が成り立つという話にも納得できる。私一人じゃ私という人間を証明できないってこと。でもバカじゃない(かもしれない)のは自分で知ってるから証明しなくても別にいいはず。いやでも…。

ずっと考えている。私っぽいってなんだろう?何がほんとう?誰が決める?

今はまだただ難しいという一言に尽きて答えが出ないけど、もし画期的な何かに気づいてすべて飲み込める日が来たら、同じようにやきもきしている人を見て、私と一緒だなあと思いながらそっとしとこうと思う。

2021.09.07
AKARI ONO(ディレクター)


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