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場面緘黙サバイブマニュアル_序文

今、場面緘黙について置かれている状況は非常に危ない状況だというのが自分の理解です。

まず、先行事例として発達障害という言葉が台頭しています。

発達障害という言葉の台頭により発達障害についてのマイナスイメージが広がったのは事実だと思います。「仕事ができない」「時間が守れない」「部屋が汚い」上げればキリがないのですが、とても社会で包括できるような存在ではないというイメージが先行しているまま、現在となってしまったというのが現実だと思います。

この現実を前に自分になりに場面緘黙がこれから社会で歩んでいく道として大きく分けて2つあると思います。

1つ目が「社会的に包括される(障害雇用)パターン」、多様性という名のもと名誉健常者として生きていく道です。

2つ目が「社会に対して場面緘黙として生き抜いてく「訓練」「治療」を受けクローズドで健常者として生きていく道です」

この2つの道に対してはっきりと言うと1つ目が理想論ベースで2つ目が現実ベースでの発想だと思っています(リベラルと保守的な構図と同じですが、どちらが正しいとかではないと思います)。

何故かというと先述しましたが、発達障害に対してのその後の社会の反応を見てみればわかりきってると思うのですが、よっぽど仕事のできる人でなければ会社としては受け入れがたいシグナルになってしまっている点で、これは採用に携わったことのある方なら理解してくれると思いますが、発達障害の方を入社させることのリスクは思った以上に高いです(ミスの連発や問題の先送り傾向など)。

それを踏まえて、じゃあ現実で「いま苦しんでいる場面緘黙当事者」必要なのは実現不可能に近い多様性社会での受け入れ、包括ではなく、この現実社会を生きていくためのノウハウ、ナレッジ、ソーシャルスキルなどによる訓練なのではないかというのが自分の持論です。

かなり辛辣な言い方になりますが、社会で生きていくうえで適切な「コミュニケーションが取れない」というのは大きなデメリット、「心理的負債」になると私は考えています。

会食や飲み会の場で上手く話せない、複数人との多人数コミュニケーションが不得意、私自身も死ぬほどこういった経験をしてきましたし、未だに多人数での会話は苦手です。

しかし、だからといって障碍者手帳を取得し障碍者雇用を受けるのが果たし本当に「本人が幸せ」なのかはかなり懐疑的です(幸せの定義は人それぞれなのでここでは「社会的な幸せを一般論的なものとします(ある程度の所得がある。心理的、身体的に健康な状態であるなど)」)。
懐疑的な理由は下記です。

・障碍者雇用で働くことによる賃金の低下
・それが本当に本人の自己決定で決められたものなのか曖昧、それ以外にも道はあるかもしれないのにそれを選ばされるを得ない状況を社会のほうから作り出されているのではないか(本当に自由意志で決められている判断なのか、社会からの要請なのかの曖昧さ)
・機会の損失(コミュニケーションが生まれにくい状況に自分を置くことによる様々な損失(友人関係、恋愛、婚姻etc…))

まだまだ、挙げられる要因はありますがここら辺にしておきます。

現状の自分としてはある程度「戦術的」にならないといけないということです。これは場面緘黙に限らずですが、現代社会は「普通」に対するハードルが上がり続けています。昔は場面緘黙の人も「無口な人」「不愛想な人」で済んだのです。それが可視化されて場面緘黙という言葉に覆われてしまったことは現実社会の流れの中では抗えないものだという現実認知に対して、
自分ができることは「みんなが多様性を認める理想を掲げる」ことではなく「場面緘黙としてこの現実社会を多くの人が生きていく力を得る」ことだと思いました。

そのため、今後、「場面緘黙サバイブマニュアル」と銘打って当事者たちに
できる限りのノウハウやマニュアルを作成したいと思います。

当事者皆様の少しでもお力になれたら光栄です。


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