ロシアとウクライナをめぐる問題

まず、確認しておきたいのは、現状のロシア政府=プーチン政権が模しているのは、ソヴィエト連邦のような国家体制ではなく「帝国」の復活と呼べるものである。つまり、かつてユーラシア大陸にまたがり陸の帝国として、存在したあのロシア帝国である。ロシア帝国の拡大は、強力な中央権力が、ここの地域を併合していく過程であり、その強力な中央集権の拡大の論理が、帝国化である。
現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシなどの国家の文化的な基点となったのはキエフ大公国(キエフ・ルーシ)である。東ヨーロッパ世界において勢力を拡大したキエフ大公国は、モンゴル帝国の覇権により滅亡し、その後一三世紀後半にはモンゴル帝国のキプチャク・ハン国に一帯は支配された。その後キプチャク・ハン国の衰退に伴い、北部地域では、モスクワ大公国が勢力を拡大していく。それに対し、南西部の国家周辺の地域では、クリミア・ハン国が侵入すると、黒海沿岸に定住したトルコ系のスラブ化した人々「コサック」が活躍し、コサックを中心にスラブ語で「くに」を意味する「ウクライナ」地域が形成された。しかし、この空間に、一五六九年に成立したポーランド=リトアニア王国は圧力をかけていく。
それによりコサックの勢力は、一五四七年に「ロシア」となった旧モスクワ大公国に接近してい
く。その後ロシアはポーランドと戦争を開始し、コサック勢力はロシアと同盟を結ぶ形になるが、ロシア・ポーランド戦争にロシアが勝利するとコサック勢力は、ロシアの統治下に組み込まれていく。こうしたロシア帝国の勢力が強まるのはエカテリーナ二世の治世である。
南下政策を実行した女帝は、オスマン帝国の勢力下のクリミア・ハン国を併合し、コサック勢力の自治も廃止した。こうしてコサック勢力が置かれた地域は「小ロシア」とされ、また、一七九三年の第二次ポーランド分割では、黒海の北部周辺のほとんどを獲得していく。
エカテリーナ二世の治世の下、東洋においても勢力を拡大したロシア帝国は、ラクスマンが根室に来航し、江戸幕府との交渉にも入る。またレザノフとの交渉は破綻し、江戸幕府とロシア帝国は一時期国境をめぐる紛争状態となり、蝦夷地が幕府直轄領となるとともに、間宮林蔵をはじめとする北方探索が活発に行われていく。こうして江戸幕府において一九世紀の危機、即ち「内憂外患」の時代に突入していくのである。海防強化が具申され、異国船打ち払い令を代表する「異国」への想定の第一にロシア帝国の存在があったことは、ペリー来航という「黒船史観」により現状忘却されつつある事実である。いずれにせよこの時期ロ
シア帝国は東アジア・中央アジアに勢力を拡大し「陸の帝国」として、列強の覇権争いに参戦していく。
ロシア帝国の南下政策がオスマン帝国との間のクリミア戦争・露土戦争につながり、地中海世界への南進に挫折した結果、シベリア鉄道の建設と、太平洋進出を目指し、明治日本と日露戦争へと至ったことは周知のことである。このロシア帝国の拡大期、内部のコサック勢力はウクライナ人としてのまとまりを獲得していく。そして自治の獲得を主張していくが認められることはなかった。これに対しウクライナ勢力は、当時民族の自治権を保障していたハプスブルク帝国の支配下にあったガリツイアに本拠地を置きロシア帝国への抵抗を模索していた。
一九一四年に始まった第一次世界大戦は、ロシアやハプスブルクをはじめとする諸帝国の中に暮らす、諸民族の国民意識を活性化させた。軍事的衝突によって事実上の国境線が何度も移動したこと( 東部ガリツィアは二度ロシア軍に占領された) 、避難民支援や戦争支援の
ために民族単位での団体創設が許されたこと、諸帝国政府が各民族集団の協力を取り付けるために戦後の自治を約束したこと、敵対的とみなされた民族が政府・軍当局( およびそれと提携した別の民族集団) によって弾圧されたことが民族という政治的な単位の自覚と国家意識を急速に発展させた。ロシア帝国では一九一七年にロシア革命が発生し、キエフでは、「ウクライナ中央ナーダ」と呼ばれる政治機関が成立し、ウクライナの領域自治に着手した。
一一月から始まるボリシェヴィキの革命に対しても、ウクライナは距離をとった。しかし、旧ロシア帝国内は反ボリシェヴィキの白軍、ボリシェヴィキの赤軍の内乱、さらにドイツ、ポーランド、トルコ、ハプスブルクら諸国の介入もあり紛争状態となり、最終的に葉、ウクライナ勢力は、ボリシェヴィキ=ソ連共産党に敗北し、ソ連の支配の下、ソヴィエト=ウクライナとして一定の主権は与えられた。しかし、それは共産党の支配が前提であり、ウクライナ人への配慮はない。その典型が「ホロドモール」である。
これは、ソ連政府の五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化や、クラーク(富農)撲滅運動において反ソ連分子を強制収容所(グラグ)に収容し、さらに穀物の強制徴発、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを原因として発生した。「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、三三〇万人から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した。
一九九一年、ソ連が崩壊し、ウクライナが独立国家として承認されると、一九九四年に「ブダベスト覚書」を締結、ウクライナの領土保全が、米英ロで承認された。しかし、黒海沿岸においてロシアをめぐる紛争は絶えず、またウクライナにおいても親露派が一定数の影響を有しており、二〇一〇年には親露のヤヌコヴィッチが大統領に就任している。しかし、二〇一四年ヤヌコヴィッチ政権が崩壊するとプーチン政権は、クリミア半島に侵攻し、一方的にクリミア半島を編入する。その後は東部のドンバス地方の切り離し工作にも着手する。さらに、ウクライナがNATOの加盟に前進していくなか、ロシアによる一方的な侵略戦争が2022年に開始された。

現在と未来への視座

ロシアによるウクライナ侵攻は、内戦への介入でもなく、対テロ戦争でもない。大国ロシアが自らの勢力圏と見なした隣国の主権を否定し、武力をもって全面侵攻した典型的な侵略戦争である。しかし、グローバル化と情報化が進展した現在、戦争の情報はリアルタイムで、視覚・聴覚を問わず全世界に拡散された。あふれかえる避難民、日常を過ごした街並みが一瞬で破壊される爆撃。これを目にする衝撃は、これまでの国際秩序を根幹から揺るがしたといっても過言ではない。ルールに基づく国際秩序が崩壊し、国際人道法が大幅に後退した世界に待ち受けるのは、大国が小国を力で支配する弱肉強食のパワーポリティックスの世界である。その根底にあるのが古典的な「勢力圏」の思想であり、自国の安全や権益を広い勢力圏で見なす「帝国」の思想であろう。この思想が二度の世界大戦を経て変容していくなか( それは冷戦というイデオロギーの勢力圏に変化したか) 、新たに台頭した中国は、「一帯一路」を掲げ中央アジアへの勢力拡大を期すとともに、東シナ海・南シナ海への圧力も強化している。その「勢力圏」をめぐる覇権争いが現実化している中、米中露の「勢力圏」の境界にある日本もウクライナの問題は決して他人ごとではないことを意識すべきだろう。
確実に言えることは、世界情勢は「ポスト冷戦」期に突入したということだ。冷戦を象徴する「短い二〇世紀」が終焉し、かつてほどアメリカの影響力がそがれていく中で、中国やインドをはじめとするアジアの諸国、中東の諸国、ブラジルなどの「第三世界」の地球規模に与える影響力は、良い意味でも悪い意味でも格段と強まっている。今後、これまでの「常識」では、思考できない事態となる可能性もある。一九四一年一二月八日に対米英戦争を開始した日本人には、その四年後国土の都市部が焼き払われ、原子爆弾が投下され、徹底的に壊滅する未来像など見えていなかった。歴史が韻を踏むというのであれば、現在は未来への
変化の途上にある。その絶え間ない変化を察知していくことが、よりよい未来の獲得のために求められる。

参考文献
黒川祐次『物語ウクライナの歴史ヨーロッパ最後の大国』( 中央公論新社、二〇〇二年)
小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』( 筑摩書房、二〇二一年)
池田嘉郎「ロシア皇帝とプーチン」( 『中央公論』二〇二二年七月号)
細谷雄一「ウクライナ戦争と国際秩序の将来」( 『中央公論』二〇二二年五月号)

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