「誇り」の扱い方?


高校教員として勤務している中では数多くの違和感が生じていく。とくに地方の片田舎の公立高校に勤務している事もあり、そうした学校の「特性」を強く感じた1年だった。


集会や式典などでは、多くのベテラン教員が以下の言葉を発する。

「○○高生としての誇りを持ちましょう」
「○○高生としてのプライドを大切に」


なるほど。商業高校であり半数が就職する勤務校においては、そうした生徒にとっては高校の存在こそが、自身の履歴の中心となる。その分高校の在り方への思いが強くなるのだろう。そしてそれを見越した得意文句と言えようか。

教員側としては、生徒が問題行動を起こさないための決まり文句としてこのフレーズを活用できる。
そして、他者のアイデンティティの中核となるような部分に働きかける文言を躊躇なく発することができる点に現実の教員の問題が集約されているとも言えなくない。


「○○として」という枕詞は、個人の在り方がその○○という属性に規定される文言である。つまり「○○高生としての誇り」というフレーズにおいて、個人の抱く「誇り」は○○高校の生徒である、という点に規定されるわけだ。

しかし、上にも述べたように「誇り」や「プライド」は人間のアイデンティティ構成の根幹に当たる部分である。誇りは自身の長所を自覚しているからこそ生じる感情であり、自己肯定感の状態は生活基盤に直結する。
そして、それは極めてセンシティブな内容であり、自分自身ですら明確に言語化できない場合もあるだろう。本来は自他の関係の中で極めて慎重に扱うべき内容なのである。

そうした「誇り」や「プライド」を自覚でき、自己肯定感を発展させていく営みこそが教育の持つ重要な意味の一つではないだろうか。

この営みこそが個々の教員の仕事であるのは間違いない。同時にその営みを度外視して発せられる属性への規定と束縛と内面への介入は極めて暴力的であるとも言えるだろう。

○○高校に入学したことが不本意な生徒もいるかもしれない。もしくは学校生活に大きな困難を抱えているかもしれない。今すぐにでも転学を希望するような生徒もいるかもしれない。そうした想像力を働かせたら、以上のような文言は安直に多用されないのではないか。

勤務校は、生徒の自己肯定感が低いことが課題となっている。生徒の主体性をいかに引き出していくかが問われている。
恐らく、多くの勤務校の生徒にとってその学校の生徒であることの「誇り」を持つ者は少ないだろう。

だからこそ、現場の教員にできることは、頭ごなしに「誇り」や「プライド」を押し付けるのではなく、日々の関わりの中で、未来を見据えて生徒の自己肯定感を高められる達成を実現していくことにある。
「誇り」に繋がる価値の発見は自分にしかできないのだから。

昨日より何かができるようになった自分。
そうした価値を見出していくことで自己の内面で「自分としての誇り」が生じていく。教員の仕事はその機会と気付きを与えることにすぎない。

学校は集団生活の場であることは承知している。しかし、その集団への過度な束縛があまりにも多く、そこに無自覚な教員も多い。

「○○として」には様々な文言が当てはる。
「男として」「女として」「○部員として」
そして、それがより可視化される制服や校則の存在も問題だろう。

そして、その集団の中でしか通じないルールや常識が普遍化されている。
冒頭の「○○としての誇り」の語りも同様である。

属性への規定と束縛は、視野をその属性集団に限定してしまう。そこでの「誇り」は傷の舐め合いでしかない。
世界は広い。多様な価値が存在している。学問を通じた教育活動はその価値との出会いの提供である。
そして、その主体としてあるのは無数の個人である。

最後に、以上の述べてきたような個の共生への視座を自戒として記しておきたい。


なお、この議論は「愛国心」を中心とするパトリオティズムやナショナリズムの議論にも連続する。今後の課題としたい。

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