「進路」に抗ってみる。


「進路」という言葉について。

思えば、常に「進路」を迫られる状況にある。
高校に入学したての新1年生は、入学早々高校卒業後の「進路」に向け、学習を開始する。

進学校であれば、大学入学に向け模試を繰り返し、実業学校であれば就職や進学のために資格や検定に邁進する。

これらは極めて「普通」の高校生活である。
そう。所詮、高校生活は通過点に過ぎず、自分自身の「進路」という自己実現に向けた途中経過なのだ。

15歳で高校に入学し、3年間の高校生活を送り進学するか就職する。そこに寄り道はない。
全員が同じルートを辿る道のりが設定されている。そして、この道のりから外れた人間は異端視され、社会の「普通」ではいられなくなる。
自らが思い描いた「進路」から脱落することを余儀なくされる。

少し、射程を広げてみよう。
大学入学後も4年間、大学で学問に励み(勉強ではない)、22歳になる時に就職をしていく。ここで普通の「進路」は終焉を迎える。
就職後に「進路」はない。その職場で退職するまで働き続けるのみである。

改めて「進路」とは極めて不可解なものである。
進路とは「進む道」であり、さも将来の道筋が決定しているかのような用法である。
そして、そのゴールは就職となる。

現在、この国では就職するとこのように呼ばれることになる。

「社会人」

すなわち、「進路」を達成し、就職することができると「社会人」として「一人前」となるわけだ。
そして、「進路」を求めるものは「学生」として、半人前扱いされる。

この学生ー社会人の関係にこそ、極めて同質的な社会構造の問題があることは言うまでもない。

「社会人」という極めて暴力的かつ侮蔑的な名称の問題は今後論じていくとして、今回は「進路」である。

進路が、目標としてそこに向かって努力する指標になる者もいるだろう。それは「夢」や「目標」と言っていい。
しかし、進路とは極めて現実的な選択なのである。
「進路」選択を迫るとは、さもその道のりしか存在しないかという意識を突きつけることにある。

自分の将来を現実的に構想することは決して間違ってはいない。
しかし、あまりにも現実的すぎる「進路」に囚われ「自分の将来」が盲目になってはいないだろうか。
「進路」という言葉に囚われ自分の将来が持つ可能性を自身で閉ざしてはいないだろうか。

なぜ勉強するのか。
このように問いかけた時、
「進路のため」と答える者が多い。
そうなると、その「進路」に必要となるものは積極的に努力し、必要こないものは必然的に後回しにされ無視される。
そこに他の可能性があったとしても。

実際、「進路」を達成した立場で考えると、これまでの枠組みの中でしか思考できず行動も枠組みにとらわれる自分がいる。
「進路」の最短距離を歩んだものであればあるほどその傾向は強いだろう。
それは必然的に多様な価値と出会える可能性を縮小させることになる。

文系、理系に限らず何かしらの選択は「進路」によることが多い。

こうして私たちは何かを選ぶたびに可能性を失っていく。

だからこそである。
「進路」に束縛されない学びがあっても良いのではないかと思う。

それは、「可能性」であり「趣味」であり「余白」であり、学生ー社会人という単一化された人生設計において「自己の在り方」を担保できる自己主張である。

「進路」に束縛された現在の状況は、自己の可能性や趣味や余白を失い、「自己の在り方」その物が失われていく。
そうして自己意識を失った「社会人」は自己と労働を一致させ、「社会人」という属性を全面化していくのである。
「社会人」ではない人間がさも劣っているかのような口ぶりで。

現在の社会は、合理性と効率性を重視した「1点と1点の最短距離」が求められる。これを「進路」と言い換えてもよいだろう。

そんな社会の中において、「進路」に縛られることなく、自己の在り方を模索していく方法はいかに可能か。

これは、生徒たちに「将来の選択肢」を示唆することができる立場であるからこそ、真剣に検討するべき問題である。

これは、何度でも、選び直し、立ち上がれる余白ある社会に向けての「可能性」と思いたい。

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