歩くこと。聴くこと。思い出すこと。


歩くことは趣味と言えるだろうか。

基本的に通勤も徒歩であるし、何となく遠回りして歩くこともある。

大学にも徒歩で通っていた。
大学からバイト先まで歩いて行き、また歩いて帰る。そんな日常を送っていた。

歩いている時は、いつも何か音楽を聴いている。
Mr.Children、BUMP OF CHICKEN、ONEOKROCK、Aimer、YUI、Spitz、ßźといった邦楽から洋楽、ゲームやアニメ、映画のサウンドトラックなど様々だ。

シャッフルすると、「完全感覚Dreamer」の次に久石譲の曲が流れる奇怪なプレイリストである。


それなりに長い距離を歩いてきた。
一度好きになったものはとことん好きになるタイプのわたしの音楽アプリのプレイリストはほとんど変わることはない。

歩いてきた長い道のりとそのプレイリストは共同体である。

このようにして、同じ道を歩くこと、歩き続けることでその道の風景が内面化される。
そして、それが記憶となって今の自分の感性を支えている。

記憶は不思議なものだ。
思い出したいと思わなくても、突然想起する。
それが歩くことと音楽を聴くことにある。


例えば、TobyFoxが製作したUndertaleの「Undertale」という曲がある。
これを聴いていると大学院時代によく歩いていた小平駅周辺の遊歩道を思い出す。
そして、その遊歩道を歩きながら練っていた修論の構想や、当時の自分の生活が克明に現れる。
たとえ、今、全く違う道を歩いていたとしても、まるでその遊歩道を歩いているかのような風景が眼前にあるから不思議だ。
それほどまでに、歩くことと聴くことが結びつき記憶として染み付いているのだろう。
また、興味深いのは、意識的に聴いても意味がないのである。
あくまで、偶然プレイリストにあるその曲に遭遇したときにその思い出に出会える。


Mr.Childrenの「HANABI」も記憶に克明に刻まれている。
こちらは、国分寺駅から西国分寺駅に抜けていく今は無くなってしまった無料駐車場のあった道を思い出す。
隣を中央線と西武国分寺線が通るその道は、自転車に乗って動き回っていた大学時代によく使用した。

「一体どんな理想を描いたらいい?
どんな希望を抱き進んだらいい?
答えようもないその問いかけは
日常に葬られてく」

大学生活における葛藤と、将来への煩悶が続く中で、上の「HANABI」の歌詞が響いていた。
遠い先の未来にあったはずの当時の「将来の夢」は、現実として今、現在の自分を規定している。
けれども、目標を達成したはずの今の自分に対して、「将来の夢」を抱いていた大学時代の記憶は、本当に「理想」が実現出来ているかを問いかけてくる。
そうして過去の自分の理想と、今の自分の思惑の往復が再開する。

記憶は不思議だ。
歩くこと。音楽を聴くこと。
これらの相関で思い出は、実体化するかのような錯覚に陥る。

人は過去に縛られて生きているのは当然である。
そして、その過去を乗り越えていかなけらばない。
もちろん、過去に戻りたいなどと空虚な妄想に耽っている訳では無い。

しかし、好きな音楽を聴きながら、歩いている時に偶然遭遇する記憶には少し甘えたいと思う。

その記憶は自分のものでしかない。
時間の経過とともに、街並みは変化していく。
記憶も薄らいでいくかもしれない。

歩きながら、聴きながら、思い出す風景は自分の中にしかない記憶である。

そして、いま歩いている道の風景がその音楽を伴う記憶を上書きしていくかもしれない。

未来の自分は歩きながら、聴きながら、何を思い出すのだろうか。

そんなことを楽しみに思いつつ、
今日もまた歩みを進めたい。


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