不確かな存在

微かに鼻をすする様な音で目が覚めたのはある寒い冬のことであった。部屋の隅で肩を震わせて泣く女が、橙色の豆電球に照らされて壁に黒く巨大な影をつくっていた。

なるほどこれは厄介な事に巻き込まれた。

男は手探りで枕元に置かれた眼鏡をかけると、眉間に深いしわを寄せながらもう一度部屋の隅に目を向けた。

女だ、女がいる。

ここで問題なのは男が長年一人暮らしであり、同棲などは以ての外、恋人すらいない身であるということだ。時計を確認する。午前3時を少し過ぎていた。

……寝よう。

布団を頭まで被り、身を丸めて再度寝付こうとするも、不運なことに男はかなりの神経質で、水の滴る程の僅かな物音でもその眠りを妨げるには十分であった。

「…君」
仕方なく立ち上がる男

「君」
顔を上げる女

「君、少し、静かにしてくれないか」

女はいかにも不思議そうに男を見ていた。

「明日の朝早く、とても大事な会議があるんだ。寝不足で参加する訳にはいかない。泣くならばどうか、静かに泣いてくれないか」

女がやっと口を開いた。
「私、幽霊です」

「そうか」

「そうかって…」

「君が幽霊であろうがなかろうが僕には関係ない」

「関係ないとか、そういう事じゃないと思うんです」

「では、一体どういう事だ」

「わかりません」

「頼むから僕を寝かせてくれよ、君はなんだ、わざわざ僕の邪魔をしにきたのか」

「とんでもない」

「では静かにしてくれるね」

女は黙って頷くと、もう泣かなかった。
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翌朝いつも通り6時きっかりに目が覚めた男は、あたりに女がいないことを確認し、散らかった部屋をつま先で歩きながら、慣れた手つきで牛乳を取り出すと1口飲んで家を出た。

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その日、残業を終えた男は夜遅くに帰宅した。が、鍵を閉めてすぐ、違和感に気がついた。妙に部屋が片付いているのである。と同時に部屋の奥から昨夜の女が顔を出す。

「昨日はごめんなさい。お詫びと言ってはなんだけど、少し部屋を片付けさせてもらいました」

仄かなシチューの匂い。

「この匂いは」

「えぇ。今朝、何も食べないで家を出たでしょう。身体に悪いわ」

「君は本当に幽霊なのか」

「勿論ですとも」

「驚いた。幽霊は物に触れられないと思っていた」

「無理もありません。映画や漫画で描かれている幽霊は皆そうだもの」

「足も透けていない」

女はクスクスと笑った
「透けるわけないじゃない」

「そうか」

「えぇ。さぁ座って、どうぞ召し上がって下さい」

女に背中を押されイスに座ると、男は恐る恐るシチューを口に運んだ。

「…美味い」

「そうでしょう、私、料理は得意なの」

「君、あぁ…なんと呼べばいいかな」

「君で十分だわ」

「では君、君は昨夜、どうして泣いていたんだ」

「言いたくないわ」

「そういうものか」

「そういうものよ」

「君はどうして僕の家にいるんだ。僕はあまりにも君の事を知らない」

「じゃあ、これから知っていけばいい話だわ」

「ずっといるのか」

「ダメかしら」

女がわざとらしいほど上目遣いに男を見る。しかし、この話は男にとって好都合であった。仕事ばかりに生きてきた男の生活は、コンビニ弁当と少しの酒で全てを語れるほど堕落しており、家事などまともに出来たことがなかった。

「好きにすればいいよ」

女は予想通り、という風に笑い、この日から男と女の奇妙な生活が始まった。

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女が家に来てから1ヶ月、男の生活は一変した。これまではただ睡眠を取る為にあった場所が男の帰るべき家に変わった。女はよく働き男に尽くし、また男も女に対して深く感謝すると共に、たまの贈り物も欠かさなかった。

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しかし、これをよく思わない人物がいた。これが男の友人Aである。男の変化に対していの一番に気がついたAは、男を心配し、ある日突然家に押しかけて来た。

「なぁお前、最近どうしたんだ」

「どうしたことも無い」

「嘘をつけ、俺はお前の事をずっと昔からよく知っている。その俺に言わせれば、お前はここ最近どうも妙だ」

「妙か、妙な事と言えば、最近、家に女がいる事くらいだ」

「女?お前に女がいたとは」

「勘違いするな、彼女は幽霊だ」

「俺を馬鹿にしているのか」

「まさか」

「ではどういうつもりだ」

「そこを見てくれ」

男は台所のある方を指さし、Aに向かってこう言った。

「彼女はそこにいる」

「無駄よ、あなたにしか見えないもの」
女が男に向かって笑う

「お前、冗談がすぎるぞ、俺はちっとも笑えない」

「冗談なんかじゃない、彼女は確かにそこにいるんだ」

「どうかしてるよ」

「彼女に失礼だ、謝ってくれ」

「…分かった。医者へ行こう」

Aはすぐさま立ち上がると男の手を取り、無理やりタクシーへ押し込んだ。街の心療内科から怪しげな施設のカウンセラーまで皆が皆、男が精神的な病気ではない事を告げた。しかしAは男に対して何か悪いものを確信しており、ここが最後だとすがる思いで脳外科へ連れていった。
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検査の結果、男の脳にはとても小さな腫瘍が見つかった。その腫瘍が脳の神経を圧迫し、男に幻覚を見せているのだと医者は説明した。摘出しないと他の場所へ転移する可能性もあり、すぐに手術が必要である事も分かった。説明を受けたAはやはり。と思ったが、男はにわかにこれを信じられなかった。
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フラフラと家に帰った男は女に対してこう言った

「もしかすると、君は存在しないのかもしれない」

「幽霊なんて存在していないのと一緒よ」

「違うんだ。君は幽霊でもないのかもしれない」

「つまりどういうこと?」

「医者が言うことには、君はどうやら僕の脳みそが作り出した幻覚らしい」

「面白いことを言うのね、嫌いじゃないわ」

「本当なんだ、僕は病気だ」

「まさか」

「違うと言って欲しい」

「違うわ」

「僕はもう、君なしでは生きていけないんだ。いなくなったりしないで欲しい」

「ありえない」

「僕が手術を受けて君と会えなくなるくらいならば、このまま死んだ方がマシだ」

「安心して。だってあたし、幽霊だもの」

「君を信じていいのか」

「勿論ですとも」

「そうか…。でも、もし……もしもだよ。もしも君が見えなくなってしまったら僕はどうしたらいいんだ」

「その時は前の生活に戻るだけよ」

「君は心配じゃないのか」

「そんな事、あるはずないもの」

「そうだね、君の言う通りだ。僕は明日手術を受けるよ」

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次の日、男は死んだ。
男の手術はさほど難しいものではなかった。事実、手術が始まってから数時間後には無事腫瘍の摘出が完了し、男は目を覚ました。

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しかし、その日の夜、男は病院の屋上から身を投げたのであった。

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