見出し画像

【隅田川の花火大会の歴史】ー本来なら本日開催でした 涙  そしてコレラで亡くなれた方々の魂を慰める為だった!また鍵屋の技術・300年の歴史

【隅田川の花火大会の歴史】ー本来なら本日開催でした 涙  そしてコレラで亡くなれた方々の魂を慰める為だった!また鍵屋の技術・300年の歴史

「隅田川の花火大会。その歴史。幕末の動乱期や太平洋戦争の時など一時的な中断はありましたが今日まで連綿と続いています。隅田川花火大会の由来と歴史 ~鍵屋の技術・300年の歴史をひも解いてみましょう~

この隅田川花火大会は日本で最古の歴史を持つと言われています。その歴史は江戸時代までさかのぼります(!)
享保18年(1733年)にまでさかのぼります。
この前年、1732年の大飢饉(享保の大飢饉)、そして江戸でコレラが流行し、多くの人びとが亡くなりました。

◎時の八代将軍徳川吉宗は、亡くなった方々の魂を慰めるため、そして悪疫をはらうために両国橋のたもとで水神祭をとり行うことにしました。その際に、余興として花火を打ち上げのが隅田川花火大会のはじまりです。その頃はまだ隅田川花火大会という名称ではなく、「両国の川開き」と呼ばれていました。隅田川花火大会という名称になったのは割と最近で、昭和53年です。

幕府は、付近の船宿や食べ物屋の夜間営業も認め、夜店や屋台、見世物小屋なども許可した。期間限定で、川開きの5月28日から川じまいの8月28日(旧暦)まで。花火も納涼船も同じでした。 多くの人々を集めた両国の花火は、店の営業時間の規制緩和もして、結果的には経済改革に結びつきました。

コレラの流行で厭世的になりつつある人々を元気づけました。

ちなみに明暦3年(1657)の大火のときも、焼死者をまつる回向院(えこういん)を本所に造ってきちんと慰霊。こういう政治は、江戸の庶民にも少なからず精神的な影響を与えてきたと思います。

慰霊や祭りという言葉を例にあげてもそうだが、日本人の精神構造部分の、重要なあるいは尊い気持ちは、ずっと昔から育まれ受け継がれてきた。花火を楽しむことは、本来、日本人の祈りの一形式だと思います。
また「玉屋~鍵屋~」という掛け声が始まったのも、隅田川花火大会に由来しています。この時に花火を担当したのが有名な花火職人、六代目鍵屋弥兵衛(やへえ)という男です。
最初は20発という小規模なものでしたが、年々規模が大きくなっていきました。

文化7年(1810年)鍵屋の番頭に静七というたいへん優秀な男が出ました。静七はのれん分けを許されて、両国の広小路吉川町に玉屋を築き、初代玉屋市兵衛を名乗りました。

「お前は一を聞いては十を悟る、実に教えがいのある番頭であった。しかし、これからは商売の上ではカタキ同士だ。ひとつ、鍵屋の看板をひきずり下すくらいの覚悟でやってみなさい」

「旦那さま、もったいないお言葉です!」
そんなやり取りがあったかどうかわからないですが…
本当に玉屋のほうが人気が出てきました。
両国橋をはさんで  「玉屋ーーー鍵屋ーーー」
という掛け声が上がりました。
後発組である玉屋のほうが掛け声が先になってるんですね。それくらい、玉屋のほうが技術がすぐれ美しかったのです。

しばらく鍵屋と玉屋の二頭体制が続きますが、
それも長く続きませんでした。
天保14年(1843年)玉屋は火事を出してしまいます。しかもまずいことに、ちょうど将軍徳川家慶が
日光に参詣する前日でした。
「こんな大切な時期に江戸をさわがして、けしからん!!」玉屋は江戸の退去を命じられてしまいました。

こうして玉屋の歴史はただの一代で幕を下ろしてしまいました。しかし玉屋なき後も玉屋の花火の素晴らしさをしたう江戸庶民の声は大きかったのです。

実はいまも「鍵屋」の歴史は続いております。
隅田川で最初に花火をあげた鍵屋ですが、なんと今でも残っています。⇒宗家花火鍵屋現在の棟梁で15代目。創業からゆうに300年は立っているという老舗中の老舗です。

現代の花火はきれいな円を描きますが、
この円状にキレイに飛び散る花火を開発させたのがこの鍵屋です。十代目鍵屋弥兵衛が苦心して作り上げた力作と言われています。

代々磨き上げられてきた技術の結集、それが今の花火です。

途中、戦争や震災によって中止されたり延期されたりはしましたが、いまも毎年同じ時期に同じ場所で美しい花火を上げ続けています。300年以上も磨き上げた技術・美しい花火を今年はコロナ禍で開催が中止になったのは本当に残念ですが 是非来年は開催されることを祈念しております!

かむながら ありがとうございます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?