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オフラインがオンラインに内包されていく時代に

アフターデジタル(1・2)』や『僕らはSNSでモノを買う』『D2C』などにおいて様々今後どうなっていくのかなどと考えています。それはお仕事としてでもありますが、何よりどう生きて生きていくことが豊かと感じていくことになるのだろう。という想いからです。

オンラインの中にオフラインがある

アフターデジタルの何もあるようにオフラインの一部がオンラインと重なる時代からオンラインの中にオフラインというものが内包されてい事は目に見えているかと思います。
SNSとは生活の本当の一部になりましたし、様々なプラットフォームがオンラインに移行しています。
もちろんAIや様ざまなアルゴリズムなどが優秀なうえで成り立つものがあるのかと思いますが、何より人そのものがそれらに対して使用することすぐそこにあることが本当の意味で当たり前になっているのだと思います。
だけど僕たち自身はまだそんな準備が出来ていないんじゃないかな。なんて思うんです。

そんな中で、生活に影響する部分としてのSNSの使い方などについて有名なインフルエンサーのみなさまが今「閉じる」方向にシフトしています。
インフルエンサーとはその影響力を何かしらに用いている人のことを言うはずなのに影響していくこと良しとせず閉じていくのは一見反対の方向に見えるかと思います。

それに関していくつか考えていくときに、ひとつ目に思うのは【すべてにおいての賛同がしにくい時代になった】ということです。
SNSやオフラインよりオンラインで見える時代に置いて、見たくない部分(プロデュースされていない部分)が見えるようになってきました。
これは応援してもらうためにもはや見せざるを得ない部分とも言えます。
本当の意味でのその人らしさと言えると思います。
しかし、1人の人がいてその人の言葉や行動が全て肯定できる場合はそう多くないかと思います。
それこそ、不倫をしていた、ポイ捨てしていた、社会的に良くないとされる行為を好いていた。などを筆頭に自分の嫌いな人と遊んでいるなど、どこかしらで気になってしまうポイントが見えてくるかと思います。
今までの、見える部分(見せてくれる部分)以外を他人や週刊誌はたまた本人が見せてくる可能性が増えたのです。

そういった場合に人々はどういう行動をとるか様々なパターンがあるかと思います。

〇見たくない部分は目をつぶる
〇見すぎないようにする
〇見えても大丈夫な人しか応援しない
〇嫌だけど見る
〇応援を辞める
〇嫌いになる
〇アンチになる

などと、ぱっと考えるだけでもこんな可能性があります。
そんななか1番まずいのが応援しにくい人になることだと思います。
「あの人応援してるの。。。変だね」「あんな人応援するとかないわ」みたいな状態は本人は嫌っていないのに応援ということの行動が取りづらくなります。
結果接点が減り次第に気持ちも薄れるでしょう。
また広告など企業等との接点も持ちづらくなります。

そうならないようにとる手段のひとつが閉じる事なのかと思います。
そうすることで応援する気持ちを胸を張って共有出来る仲間同士の居場所を用意する。
(傍からはその人のファンとは見えにくくなるが本人は満足する。)
閉じることで逆に溢れ出すものもある。
など様々ないいことが連鎖してゆきます。
もちろん新規ファン/応援者の獲得のためにやらねばならぬことは増えますが、ここで言う閉じるにも色々なフェーズがあり人によりそのグラデーションを使い分けていくことがこれからのトレンドとなっていくのかと思います。

もっと大きな目で見た時に

古い名著に『文明の衝突』という本があります。
ここでは高度経済に写りゆく中で経済成長や資源のために国々が争っていた時代から文明同士の争いになっていくよ的なことが書かれています。
かなり賛否両論を集めたらしいです。
グローバルさはより激しくなり、文明はおりまざり結局資源や経済優位性のために争っていくかと思われた時9.11が起きました。
あれはまさしく文明の衝突の象徴たる側面を持ちます。

そしてこの2019-2020にはやったコロナにて人々の国境をまたぐ移動は劇的に減りました。
それこそ県境をまたぐものすら減っています。
まさに世界が閉じだしました。
ですが、オンラインでは閉じていません。
オンラインに内包されたオフラインの部分が閉じたことで人々にはどんな変化が生まれているでしょうか。
各国の対応の差を見ながら自分の所属国家に対し目が向いたり、この状況での他国民の当たり前と自身の当たり前の差をより感じたのではないでしょうか。
そういった流れからあくまで体感値ですが
所属国家国政への興味が湧いたりや生活そのものの見直しを行った方が多いのではないでしょうか。
今までの消費行動からサスティナブルさや健康への興味を持ち自身の研鑽訓練と言われるような個人そのものもしくは本当の意味で近い人により目がむき出しているとおもうのです。

そうすると、経済利益などではなく自国がもつ文明と他国文明の差もわかりやすく感じるのではないかと思っています。
そこで感じる差が憎しみや嫉妬/もしくは他者信念を傷つけうる可能性は容易に想像ができます。

これは個人で起きていることと同じで
1事象が持つパワーやそれそのものが持つ色味が比較される時そのどちらかは気に入らないだろうしどちらかが好きだろうからです。

オフラインにオンラインが足され
オフラインを内包するようにオンラインが大きくなり、伴いオフラインも大きくなりました。
その流れから見るに、人々の多くはまだこのつながった世界を生きるだけの器を有していないのだと思います。
文明がぶつかり、影響力のぶつかり、それらは、見えるから起きてしまうことであり見えなければ起きないことである。
知らぬが仏
というように、知らないで居させてくれる機能が世界には必要なのかもしれません。

そんなときにうまれた思想や思考の近い人で小さく閉じた場所で楽しむということなんだと思います。
閉じた空間、外のだれにも迷惑はかけません。そんな世界で楽しむことは実は深さをとるのではなく迷惑をかけないという意味での安心の為なのかもしれません。

書いてる事の多くは想像です。
誰しもには当てはまらないが多くの人にはそうかもねという感じです。
でもこれを読んでるそれなりに感度に高い人には当てはまらないことが多いと思います。
ただただ知ってしまう不幸/知られてしまう不幸もあるんだよなというお話でした。


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